【祝!直木賞ノミネート】一穂ミチ著 犯罪小説集『ツミデミック』「違う羽の鳥」特別公開 #4
「違う羽の鳥」#4
深夜、K駅近くの踏切におばさんが現れる、という噂が持ち上がったのは十二月の初めだった。
――え、何で、井上さんちゃうん。
――井上さんもその「踏切ババア」に引きずり込まれたんやって。
――うそ、めっちゃ怖いやん。
忘れられつつあった「井上なぎさの死」が、再び校内をざわつかせた。ある日の塾の帰り、他校に通う友人が「チャリで行ってみよや」と提案し、その場にいた数人も行こう行こうと盛り上がった。クリスマスも正月も冬期講習の予定で埋まる、受験シーズンの鬱屈がそうさせたのかもしれない。井上なぎさの顔を知っているというだけで優斗も連れて行かれた。毅然と拒否する勇気がなかった。コンビニの前で肉まんやカップ麺を食べながらだらだら時間をつぶし、終電近くになると総勢四人で十五分ほどの踏切へと自転車を漕いだ。周辺の建物は学校や町工場で、駅からそう遠くないのに夜は店どころか街灯の明かりさえまばらな、寂しい一角だった。
――うお、あれちゃうん。
先頭を走っていた友人が焦ったような声を上げ、どうせ盛り上げるための冗談だろうとたかを括っていた優斗も、踏切が視界に入ると息を呑んだ。軽い上り坂になった踏切の手前に、女の後ろ姿が見える。
――うそうそ、まじやん。
――やばない?
慌ててブレーキをかけ、こそこそ話し合う。ひとりが「待てって」と冷静に言った。
――あれ、生きてる人間ちゃう?
優斗は幽霊を見たことがない。でも、確かにあれはちゃうな、と感じた。生身の、肉と血を備えた存在感がある。それでいてどこか異様な気配を感じたのも確かだった。幽霊じゃない、けど、普通の人間でもない。
かんかんかんかん、と警報が鳴る。黄色と黒のバーがゆっくり下がり、警報灯の赤いランプがふたつ、闇の中で交互に光る。危険を知らせる赤。警告の赤。血の赤。
カーブを過ぎた電車が工場のフェンスの陰からぬっと現れたかと思うと、がたたんがたたん、けたたましい音を立てて走り去っていく。強烈なヘッドライトの光に目を細めた。こんな質量とスピードの前に自らを投げ出すことなど考えたくもなかった。でも、あいつは、井上なぎさは、ここで――。
女は通過電車の前で縫い止められたように静止し、スカートや髪を風にはためかせていた。飛び込んだり、誰かを引きずり込んだりせず、電車が遠ざかっても消えなかった。
そして、踏切のバーが上がると同時に振り向いた。
――ねえ。
優斗を含む全員、自転車のハンドルを握ったまま飛び上がりそうになった。同時に、やはりこれは生きた人間だ、と確信した。「ババア」というほどでもない、中年の女の顔と声だった。
――あなたたち、いつもこの道通ってる?
顔を見合わせ、またもいちばん冷静で大人びた友人が「いえ」と恐る恐る答えた。
――たまたま、です。
――中学生?
――はい。
やばくなったら逃げるぞ、と目配せをしながら頷く。
――あのねえ、わたしの娘がここで死んでん。
優斗は自分が飲み込みかけた唾でむせた。ごほ、ごほ、と咳き込む優斗を、井上なぎさの母親は無表情に見つめている。師走にコートも着ず、上はブラウスにカーディガンを羽織っただけだった。足元はぺたんこのバレリーナシューズ、傍らにはいつ誰が置いたのかわからない花束が茶色くしおれ、ドライフラワーみたいに干からびていた。幽霊じゃなくても、この女に近寄るだけでしおしおと生気を吸われてしまいそうな雰囲気がある。きっと娘が死ぬ以前はこんなぼさぼさの髪形でなく、頰も痩けていなくて、目の下の真っ黒な隈もなかったのだろう。恐怖と同時に胸が痛んだ。
――それでね、娘が幽霊になってここに出るらしいねん。聞いたことある?
――え、あー……ある、ような。
――見たことは?
――ないです。
――そう……。
井上なぎさの母親はまた踏切に向き直り、小刻みに肩をふるわせた。
――あの……大丈夫ですか。
大丈夫なはずがないとわかりきっていても、そこは子どもの限界で、ほかに適切な言葉(そんなものがあるとして)が見つからなかったのだろう。申し訳なくて、と絞り出すような声が聞こえた。
――人さまを怖がらせて、迷惑かけてるんちゃうかと思うと……せやから、ほんまにおるんやったら、わたしがちゃんと言うてあげなって……。
それ以上、誰も何も言えなくなり、自転車のサドルにまたがって来た道を帰った。気まずさにつぶされそうな思いは全員同じらしく、黙りこくったままの帰路は風がひどくつめたかった。
(#5へつづく)
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■■■光文社 文芸編集部 note■■■
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