【祝!直木賞ノミネート】一穂ミチ著 犯罪小説集『ツミデミック』「違う羽の鳥」特別公開 #5
「違う羽の鳥」#5
さっきからじーじーと妙な音がする。極小のぜんまいを巻いているような、あるいは虫の羽音のような。まだビール一杯しか飲んでへんのに、酔うたんやろか。きょろきょろと音の発生源を探しているとなぎさが「ひょっとしてこれ?」と背後の壁を指差した。
「ネオン管が放電してる音」
「ああ……」
「最近はLEDばっかやもんね――飲まへんの?」
欲しいのは酒じゃなく、つめたい水だった。でも意地になってショットグラスを煽るとからいテキーラが喉をひりつかせた。くらくらしてくる。ほんで、と発した声はぶざまに掠れていた。
「お前、誰やねん」
「井上なぎさやってば」
「そんなわけないやろ」
井上なぎさは確かに死んだ。二組の連中は通夜にだって参列していた。夢でも妄想でも捏造された記憶でも、ない――はずだ。
「うん、写真あげたなあ、思い出した。ふふ」
なぎさはヒールのままソファの上で膝を抱えて笑う。
「名前も覚えてへんような子に何であげたんやろ。放課後の教室で、何かちょっと親近感湧いたんかなあ。優斗くん、うちのママ見た?」
「見た」
「奇跡やん、東京の真ん中でさあ、こんなふうに会えるとか」
なぎさの無邪気なはしゃぎようが薄ら寒く、「生きている人間のほうが怖い」というベタな言い回しが頭に浮かぶ。あれは正しいのかもしれない。
「ママ、怖かった? おかしなっとった?」
「ええ加減にせえ」
精いっぱいの怒気を込めて遮った。
「井上のおばちゃん、井上が化けて出るって聞いて、さっぶいなか立っとってんぞ。人怖がらして迷惑かけたらあかんからって。よおそんなひどいこと言えるな」
すると、なぎさの笑顔が一瞬で生気を失った。でも笑顔は笑顔のままで、突然人間が人形に変身したかのような不気味さに優斗はこの夜何度目かの鳥肌を立てた。
「一点一時間」
なぎさは言った。
「え?」
「テストの点、百点から一点下がるたびに一時間説教されんねん。九十八点やったら二時間、九十五点やったら五時間。風呂場で、裸で正座して。眠たくなって舟漕いだら冬でもシャワーで冷水浴びせられて。勉強もお行儀も全部減点法、マイナスのぶんだけ罰を受けなさい、ママはそんな人」
じーじー、ネオン管がか細く唸る。「いや、でも」と優斗は反論を試みた。
「線路に」
「それはね、娘に恥かかされたって怒ってんねん。せっかく傷や痣が残らんように気をつけてたのに、上品な奥さまぶっとったのに、あんな死に方して、周りにも噂されて、心霊スポットにまでなって、恥さらし、ってムカついてはるねん。幽霊になった娘でも正座させて支配できるって、ママやったら考える」
わたしがちゃんと言うてあげな、と井上なぎさの母親は確かに言った。その足下で放置され枯れ果てた花。もし娘の魂を心から案じていたら、あんな侘しい供花をそのままにしておくだろうか。新しく供えるか、せめて片づけるくらいはしてもよさそうなものだった。
「パパはいっつもフルシカトで、自分の部屋でヘッドホンしてサッカー観とった。ママの怒鳴り声の合間に、パパが『うお、すごっ』とか『まじかー』とか言うてんの。うちはそんな家」
――みんな大変やねんなあ、って。
あの日の井上なぎさの言葉が、耳元で生々しくリフレインする。
「ハッシュタグで家におりたくない女の子たち探して、最初はわたしだけちゃうとか、わたしもこうしたらええんかなって思った。でも、そういう子らの中には本気で死にたがってる子もたくさんおって、考えてん。わたしの代わりに死んでもらわれへんかなって」
「何で、そんな」
「だって親を苦しめたいんやもん」
なぎさはあっけらかんと答えた。
「考えてもみて? 死んだら何もできへんねんで。あんなしょうもない人間を殺して何年も不自由な生活すんのもいや。ワンチャン幽霊になって祟れるかもって思ったけど、博打すぎるやん。せやから、ツイッターで友達つくった。いろんな子とDMでやり取りして……一年くらいして、理想の子が見つかってん。きっときょう、優斗くんに会えたんと同じで、奇跡や」
長い爪の指を折りながら「奇跡」を列挙する。
「似たような体型で、年はできれば十八歳以上、失踪しても親や警察がまともに探さへんような環境で、会える距離に住んどって、リスカ痕ばりばりでもなくて」
五本の指をたたんでから、ぱっと開いた。
「――『井上なぎさ』として死んでくれる子」
「うそや」
優斗は言った。
「そんなやつおるわけない――おったとして、すぐばれる」
「何で?」
否定を、むしろ愉しんでいるようだった。
「ほんまに親友やってん。何でも話せる、同じ羽の似た者同士。あの子は死にたくてわたしは生き延びたかった、その違いだけ。わたしが選んだ博打は、うまく顔を潰してもらえるかどうか。まあ、多少原形留めとったところで、親には見せへんかもしれへんけど」
なぎさは足を下ろすと、今度は上半身をひねり、ソファの背に肘をついて挑むように優斗を見つめた。
「井上なぎさの服を着て、井上なぎさの持ち物を持った死体が転がっとったらそれは井上なぎさなんやで? 線路脇に置いたかばんの中には遺書も入ってんねん。『理想の娘になれないから電車に撥ねられて死にます』って。今までされたこと、日付入りで書いた日記もセットで。疑う要素はいっこもない。警察がわざわざDNA鑑定したり、消去されたスマホの履歴復活させたり、すると思う?」
優斗は、からからの舌をどうにか動かして問う。
「それから?」
「それからって?」
「自分殺して、それから、戸籍もなくてどうやって生きてくねん」
「言うたやん、愛人やって」
なぎさは呆れ顔で答えた。
「ネオンのびかびかしてるとこで男探すだけ。補導も、変態にエンカウントするリスクも、電車にぶつかってくよりは怖くない。東京にはいろんな人がおるから、案外どうにでもなんねん」
じーじー、じーじー、羽音は止まない。破裂せえへんのか、感電せえへんのか、優斗は不安になる。グレーのカラコンが嵌まったなぎさの目に、青白いネオン光が反射している。めまいがする、耳鳴りもする、頭が痛い。寒気がするのに、こめかみをじっとりと汗が流れ落ちていく。
「顔色悪いね」
つめたい手に押されるまま、ソファに仰向けになった。赤い唇が落ちてくる。舌もつめたかった。
「酒に、何か入れた?」
「何の話?」
頸動脈を確かめるように首筋に指を這わせ、ほほ笑む。優斗が知っている――いや、何も知らない、十五歳の井上なぎさの面影はみじんもなかった。うっすらと暮れていく放課後の教室、カーテンが作るいびつな影、端っこがすこし丸まった選挙ポスター、井上なぎさがくれたプリントシール。
「……うそや」
うまく力が入らない手で、なぎさの手首を握る。
「まだ言う?」
「あの、写真の『親友』、めっちゃ派手で髪の毛マッキンキンやった。黒髪の井上になりすますんなんか不可能や。イチから伸ばし直す時間はなかったはずやし、あんだけの金髪、無理に黒染めしても多少の不自然さは残るやろ」
見上げたなぎさの表情は、暗くてよくわからない。
「お前は、ひょっとして『親友』のほうちゃうんか」
何でも話せる、井上なぎさのことを何でも知っている唯一の人間。
「かもね」
なぎさは穏やかな声で答えた。
「どっちでもよくない? 右の翼か左の翼かくらいの話」
優斗の胸に伏せ「ぬくいね」と頰擦りをする。
「わたしはね、なぎさが生きてるって広めたいねん。なぎさは別人になって、東京でのうのうと暮らしてる……そんな噂が広まれば広まるほど、なぎさは強い存在になる。都市伝説の妖怪みたいに。いつか巡り巡って『踏切ババア』にまで届いたらおもろいやろ? いちばん人を苦しめるんも、怖がらせるんも、『わからへん』ってことやから。せやから、大阪っぽい人見かけたら声かけてこの話してあげてんねん。優斗くんも拡散してな」
その後、自分が何と答えたのか優斗は覚えていない。ふたりぶんの荒い呼吸と止まない耳鳴りの間にもネオンはじーじー鳴いていた。
――緊急事態宣言っていうのが出るかもしれへんねやって。
なぎさはそんなことを言った。
――もし出たら、優斗くんどうする?
――どうって……家におるしかないんやろ。
――そんなんもったいないわ。わたしな、そうなったら、ここの通りを夜中に全力疾走したるねん。ネオンが消えて真っ暗な、死んだみたいな街の真ん中を、クラウチングスタートでダッシュすんねん。
めっちゃ楽しみ、というなぎさの声は少女のように弾んでいた。
目覚めた時、なぜか一階のカウンターに突っ伏していた。
「おはようございます、もう閉店時間ですので」
バーテンダーが無愛想に告げる。優斗がぱっと身を起こすと店内には誰もおらず、壁には自分の上着だけが引っかかっていた。
「あの」
「はい」
「一緒に来た女の子は」
「いえ、最初からお客さまおひとりでいらっしゃいましたよ」
「えっ」
「ビールを一杯飲んだらすぐつぶれてしまって」
そんなわけがあるか。二階へと続くドアに目をやると「STAFF ONLY」の札がぶら下がっている。到底納得できなかったが、このバーテンダーを問い詰めたところで何もしゃべりはしないだろうと思ったので、ビールの代金を払って店を出た。全身が強張って軋む。迷路みたいな路地裏を歩いて辿り着いたはずなのにあっさりとメインストリートに戻ることができ、優斗はいよいよ自分の脳みそが不安になった。狐につままれたとはこのことだ。スマホを取り出し、ツイッターを開くと、中三の九月以来放置していたアカウントにアクセスする。ユーザー名もパスワードも、忘れていなかった。
五年前のタイムラインがそのまま表示される。こんなふうに年月に置き去りにされ、枯れも朽ちもせず残されたつぶやきが世界中にどれほどあるのだろう。DMの表示は「99+」になっていて、ヤリ目と煽りとスパムのメッセージで溢れかえっているのを予想してタップすると、いちばん上に表示されたアイコンに見覚えがあった。
井上なぎさと一緒に写っていた、名前も知らない「親友」の顔。優斗のアイコンと対になる、プリントシールの半分。アカウント名は「ネオン」、送信日時はきょう。
『元気でね』
それだけだった。優斗はアカウントを削除すると夜明け前の青黒い空を仰ぎ、歯を食いしばる。あの女が井上なぎさなのか、「親友」なのか、あるいはどちらでもないのか、優斗がその正体を知る時はこないだろう。一瞬すれ違っただけの、違う羽の鳥だから。
確かなのは、五年前、ひとりの少女が死んだということ。SOSも悲鳴も上げられず、痛ましいやり方しか選べずにこの世からいなくなった。そのやりきれなさがこの先への不安に負けない重みで胸にのしかかってきて苦しかった。
ごみや吐物が散乱し、カラスがてんてんと跳ねる街には二十四時間営業の店の看板がしぶとく点っている。優斗は、ネオンがひとつ残らず消える日が待ち遠しいと思った。静寂にヒールの音を突き立て、真っ暗な無人の通りのど真ん中を駆け抜けるなぎさを見てみたいと思った。きっと、そのまま飛び立ってしまいそうなスピードだろう。
(おわり)
読んでくださったみなさま、ありがとうございます!
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『ツミデミック』は全6話の短編集。
本章以外の5話は、是非製品版でお楽しみください。
作品紹介
★ツミデミック刊行記念インタビューはこちら★
■■■光文社 文芸編集部 note■■■
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