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間がちょっと多過ぎる

夜の使い方をラジオによって切り分けている。

特別注意をしない限り、夜は真夜中に来て、真夜中は朝に来てと、暮らしが人と半歩ずつズレていく。
今は大体4時に寝て10時に起きてとギリッギリ市井の人として許されそうではあるけれど、酷い時は日中は眠っていて使えなくなり、夕方もボーッとしていて人としてとても使えそうにない。
そうなると頭が冴えていくのは結局夜しかなく、しょうがないなという顔であれこれ始める。


昼夜逆転のズレっぷりを楽しんでる日もあれば、罪悪感を感じる日もある。
その気分、もしくは予兆を伺ってラジオを使い分けている。
罪悪感を覚えそうな時は昼帯のラジオをタイムフリーで流せば色んな錯覚が起きる。
今この時間が昼という至極真っ当な時間である事、そしてそんな時間に働いているこの自分のちゃんとっぷり。
全然幻ではあるけれど、その思い込みで推進力は格段に上がって迷いが無くなる。
特段気にする事もない時は、その時間帯にやっている番組を聴く。
ながら聴きする事もあるし、番組や話の内容によってはスマホも触らず只スピーカーの方を向いて黙々と聴く時もある。

夜寝る前も必ず好きな番組のタイムフリーなんかを流して、寝落ちするように眠っている。
「泥みたいに眠るんだろうな」という、あからさまな眠気がない限りはこうしないともはや眠れない。
地方に泊まった時とかも、ギリギリ聴き取れそうな音量にして枕の下に敷いたりして(トラブルとかそういう何かしらに一応備えて)
ラジオの使い分けはわりと最近始めたものだけど、寝る間際のそれに関してはもう10年以上続けている。


ラジオとの最初って何だっけと思い返すと、確か「放送室」だった気がする。
中学1年の時に「大日本人」が公開されて、そこから「ごっつ」とか「ガキの使い」のフリートークを観漁るようになり、その流れで「放送室」というラジオをやっているというのを知った。
只、当時は何故かAM→防災用ラジオでも聴ける電波、FM→何かしらの専用機器を使わないと聴けない電波、というよく分からない認識があって、てっきり聴けないものだと思っていた。

夕飯を終えてPCでYouTubeを観ようとその脇にあるコンポをイジっていたら急に再生した覚えのない声が流れて来て、何だと見てみたら、パネルに「FM802」と表示されていた。
「え、FM?」と呆気なくうちでも聴ける事をそこで知る。
中2の冬の事だった。

意を決して聴こうと何度もトライするも、中学生の身体で義務ではない朝4時起きは限りなく不可能に近い。
何週もしくじる間に春休みになり、アラームの音では起きれなかったけど、目を開けるとギリギリまだ放送時間内ではあった。
開いてない目で部屋を這い出て、コンポの電源を入れて、イヤホンのジャックをねじ込んで、ようやく辿り着けた。
コタツに入って「これがラジオか」と思いながら、朝の光で部屋の中全部が青で白だった。
もの凄く果てしなく、だけど完璧に一人だった。

最終回らしくない最終回を聴き終えて、部屋に戻ってそのまま二度寝した。

その数ヶ月後に引っ越しをして大体の家電も一緒に新調する中テレビだけがなかなか決まらず、代わりにラジオがリビングで流れる生活が始まったり、Podcastでバナナムーンのアフタートークを偶然聴いたのをきっかけに(日村さんのTシャツがどれだけ臭いかみたいな回が最初だった気がする)深夜ラジオも聴くようになり、自分の時間にラジオがある事が珍しくなくなった。
中1の頃のひと夏、いや下手をすれば一ヶ月程度の反抗期が過ぎ去った後、同時に両親との話し方をすっかり忘れてしまい、やがてそれは家の中で声を出したり感情を出したりする事自体が恥ずかしいという気持ちに変わっていった。
曲を作る時は頭の中か、どうしてもという時は公園に行くかして、何かを観て笑いそうになったり泣きそうになった時も自分の部屋かトイレの中へこっそり駆け込んだりしていた。
ラジオを聴く時もなるべく音を立てずというか、笑い声を噛み殺しながら聴いていた。

だから真夜中、寝転びながら聴いてたら面白過ぎて、でも声を出してはいけないと我慢し過ぎてマットレスの背中部分が汗で濡れるみたいな事が多々あった。
一回オードリーのオールナイトニッポンのレイザーラモンRGさんのゲスト回で、魚拓の如く汗で自分が象られていて、もう笑えよと思いながらファブリーズを掛けたのもふいに思い出したりする。
一人暮らしを始めてもそれは変わらず、色んな音楽も映画もラジオも音を立てずに凄く楽しんでいた。


去年だったかな。
いつも通り寝る前にradikoを開いてベッドに入った。


ッハ。
ック。
アハハ。


「何の声?」の「な」が浮かんだ時点でそれが自分だと分かった。
普通に笑ってる。
え、いつから?
でもわりと最近までシーツの湿り気を感じて「ゲッ」とか思ってたはず。
だけどその最近っていつ?1〜2年前とかだっけか。

「あぁそっか」
一連の小さく沢山の騒めきをその一言で済ませて、引き続き笑っていたらいつの間にか朝になっていた。


「あぁそっか」の後には、小さく「ちゃんと一人になったんだな」という言葉もついていた。
定点カメラを見ているような気分で思ったのを覚えている。
只それが嬉しいなのか寂しいなのか、それともその間なのか、はたまたどれでも無いのかが未だにハッキリしない。


何かに対する気持ちに対して、喜怒哀楽のどれもピンと来ないみたいな事が去年から増えた。
三原色みたいに絶妙な足し引きで、似てるけど違うみたいな気持ちが乱立しているように思う。
分からないというモヤモヤを無くす為に、曖昧な気持ちひとつひとつに今から名前を付けてまわるというのは途方もなくて出来なそうだけど、何か見聞きしたものに「自分以外にもあるんだなそれ」と安心する事で大体解決するし、何ならそれがちょっともう自分の健康の為にも必要になってきている。
そう思ってから慌てて色んな本とか読むようになったけど、やっぱり音楽とラジオがその安心を一番くれるものだと改めてしっくり来ている。


年を重ねる毎に色んなものへの折り合いをつけるのが上手くなっていくものだと思ってたけどまるでその反対だし、「あと10周!」と終のないマラソンのように思えてついつい文句を垂れそうになる。
しんどそうではあるけど、ラジオと音楽さえあれば少なくとも止まらずに済む気がしている。
頼りにしてるぞ。

先週放送されていた「SCHOOL OF LOCK!教育委員会」に友人のハザマリツシという男が出ていた。
一時間丸々、愛情と信頼がないと出来ない即興コントのようなラジオだったんだけど、それは気付いたら何故か声を笑い殺しながら聴いていた。
自分の10年も重ね合わせながら聴いていたからか、自然とあの頃の聴き方になっていたな。
良かったらあと数日聴けるんで是非に。


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