見出し画像

「どこへいっても」を書いた日から

九州を旅したエッセイをネットプリントにて公開してから、春が来て、夏が来て、秋が来ました。再配信もさせていただいて、寒い日に、暑い日に、プリントしてくださったみなさま、ありがとうございました。あとがきには「はたらくこと」について書きました。わたしが去年仕事をやめたこと、無意識の中にも、つもりつもってきた生き方への疑問や不安、心と体が動かなくなってしまって、毎日泣き続けていたこと。自分の中の苦しみをはき出してしまっただけのものでしたが、同じように働くことに対する悩みや、深めてくださった考えなど、色んな声をいただいて、とてもうれしかったです。わたし自身ふさぎ込みがちだった時期でしたが、言葉にして発信したことは、思わぬところにまで届くものなのだなと、救われた気持ちでした。

あれから半年の間のことは、おぼろげで、時間は一定方向に流れていたんだろうか、と思うほどです。一瞬にも、永遠にも感じられます。心と体の調子は、よくなったり悪くなったりを繰り返しました。一日のうちにも、穏やかな草原と、嵐の山岳地帯を行き来しているような、目まぐるしさがありました。ただただしずかにじっとして、すごしました。

せつない夢をたくさん見ました。黒人の女性が泣いていたり、ベビーカーに風船をくくりつけたり、卒業式の胸につける花のブローチが校舎の窓辺に置かれていたり。「ひとをころしてしまったので」というメールが届いたり。そんな長い夢を見ました。夢の中の舞台はいつも知らない場所、建物、風景でした。目が覚めると涙が出ていたり、へとへとに疲れたりしていました。

「これは研ぎ澄ますための旅だ」と、旅のエッセイに書きました。旅先では感じたすべてのささやかなことをつかみ取りたくて、メモとペンをずっと持ち歩きました。吹けばとんで行ってしまうような、積み重ならない、見えなくなる、正しさも明確さも持ち合わせていないもの。例えば、船のデッキにある排気口からの熱風や、ホテルの歯ブラシの色、通り過ぎた修学旅行生の眠そうな目。エスカレーターで、前に立つ人が酢昆布を持っていたこと、などなど。「もっと分かりやすく言って」「確かな経験と成果を積み上げて」「こうすれば効率的なのだから」という基準から、はじき出されるようなものを求めて、わたしは旅をしたかったのだと思います。

思えば、研ぎ澄ますための旅はわたしの中でずっと、続いているのかもしれません。季節が変わっていくこと、スーパーで食べ物を買うこと、散歩中の犬と目があうことや、脚にできた青アザが治っていくこと。本を読むこと、本を読んだときに文字がぴたぴたっと頭の中に入ってくること。手紙を書くこと。手紙が届くこと。友人とようやくオープンした美術館を訪れて、静かなフロアーで、少し離れたところから、絵に見入る友人の後ろ姿を見た瞬間。それらは以前からそばにあってくれたものだけれど、より熱を帯びて、深い感動をもたらしてくれました。この半年間、水辺で、薬局で、駅のロータリーで、何度涙ぐんだことか。

あらたに書きたい作品のメモが、たくさん溜まってきました。この秋には、たくさん筆を動かします。肉眼で見ていたものを顕微鏡で観察する気持ちと、自分の背丈から見ていたものを鳥の目線から俯瞰する気持ちを持って、マクロとミクロが共存したようなものが書きたいです。自分のからだの内側で、絶えず鼓動が繰り返されていることを感じ続けた半年間を、ちゃんと形にしてゆけたら。

全ての人にこの半年間がありました。どうかみなさんもお元気でいてください。会いたい人がたくさんいます。会って抱きしめ合いたい人たち。それが今できないなら、くっついた肌の表面をかんじられるものを、きっとつくってお届けします。それでは、また。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?