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予定変更の昼。

路肩にバイクを止めて、胸ポケットからスマートフォンを取り出す。画面を見て苦笑いした。震えていたと思ったのは気のせいだったようだ。

片側二車線の産業道路を抜け、エメラルドグリーンの歩道橋を潜れば、広がるのは相変わらずの田園風景だった。
ランドセルを背負って片道1時間かけて歩いていたことを思い出す。
振り返れば、低い山々が連なり新緑が所々輝いて見えた。小さく見える神社の鳥居も、休耕地になびくレンゲソウの赤紫も、農道に平行する小川の澄んだ水も、あの頃のままそこにあった。
あるいは、バルビゾン派の画家だったならここで生涯を送ることも考えたかもしれない、と思い付き、今のは中々高尚な冗談だと1人満足して口の端を吊り上げた。

再びバイクに跨りフェールコックを回しエンジンをかける。ギアを入れ走り出してからトリップメーターを確認するが、まだ30キロも走っていなかった。
また胸ポケットに触れる。運転しているのは車でなくバイクなのだ。震える気がするのも無理はない、とヘルメットの中で独りごちた。

広域農道をのろのろと進み、そのまま山道へ入る。
この山は江戸時代に城があった。
城主が城から江戸を眺めると江戸は火の海だったという。これは一大事だと早馬に跨り一晩中駆けて他のどの大名より早く馳せ参じた城主にお上が告げた言葉は「無礼者」であった。
よりによって江戸を見下ろすとは何事か、ということらしい。その場で手打ちにならなかっただけ温情措置だったのかもしれないが、城は江戸を見下ろすことの出来ない小高い土地へと移動し、現在はそここそが「城山公園」として名を残している。
理不尽なこの逸話が、けれど好きだった。
かつて江戸を見下ろした城址はコンクリートで均され小さな駐車場になっている。
ここが山頂だ。
バイクを止め、エンジンを切る。
背負っていたリュックも下ろし、中からカメラを取り出す。どこをどう構えても雑木林しかない。風は感じないけれど枝葉は静止することなく揺れている。木々の間から見える空は青の欠片もなく暗雲が立ち込めている。一滴でも雫を垂らせば途端降り出すような色だった。
朝からこめかみが痛むのは二日酔いのせいではなく、まず間違いなく天気のせいだと解っていた。
胸ポケットのスマートフォンが今度こそ気のせいでなく震えた。取り出し画面に表示される名前を確認して耳に押し当てようとして、ヘルメットを被ったままであることに気がついた。失敗を笑う相手がいないことを忌々しく思いながら仕方なくスピーカーに切り替える。
「なぁに?」
出来るだけ間の抜けた声になるよう努めた。
『どこいるの?』
「山頂」
溜息が聞こえる。それに合わせるように、また枝葉が揺れた。多分、スマートフォン越しに何か小言を喚いていると思うけどスピーカーを切ればそれも聞こえない。
何の変哲もない雑木林の先端を何枚かフレームに収める。
「ねぇまだボルタレンてあった?」
再度スピーカーに切り替えて唐突に尋ねたら言葉が止んだ。が、簡単に騙される相手ではないことは解っている。
『アスピリンしかない』
「そう。じゃぁ湾岸線から先で見た景色、覚えてる?」
『なんの話?』

16号を直進して、間門をさらに直進して、湾岸線と並行した先。
埠頭で見た、あの時の景色。
空は蒼く、海も碧かった。雲は誰かが描いたと思うほどくっきりと白く、その下で起立していたクレーンはキリンのようだと思った。
巨大なコンテナ。タンカー。
日常では見ることのない尺度で並ぶそれらを、湿度の高い潮風が撫ぜていく。
あの時のフレーミングなら何を撮っても抜群だったはずだ。

「等しく腐食されていくって思った」
『本当になんの話?』
「なんでもないよ。雨降りそうだから切るね」
小言なら家に帰ってからいくらでも聞けば良い。

ここの景色は、あの日の金属と潮の匂いのする景色とはまるで違う。
あまりに何もなく呆気ない。湿度の高さだけが同じだったが香るのは潮ではなく朽ちた葉と土であった。カメラを仕舞い、スマートフォンで彩度を上げて撮ってみる。アーカイブされたその写真を先程の電話の主に送り付ける。

この写真がいつかパズルを完成させる1ピースになることを少し願う。

車一台すれ違わない山道を下る。
星どころか月明かりさえ覆う厚い雲に、もう少し我慢してね、と声に出して頼んだ。
夜景と言うには乏しい町の灯りが、広がる田園の中でぽつりぽつりと点いている。
蛍のほうがまだ明るいその風景を見て、まるでデジャブのようだと思いながらバイクを走らせ帰路を急いだ。

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