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価値観が解放されていく

連休の最中に投稿してもきっとあまり読まれないと思うので、まったく週末っぽっくないグネグネしたことでも投稿してやる。

価値観の話

今日は価値観の話。

なにか世間の価値観というか、そういうものってあります。例えば、〇〇な方が偉いみたいな感覚。話が抽象的だと意味がわかんないので、例えば、「有名な方が偉い」という話だとしましょう。

今の世の中だと、フォロワーの人数とかそういうのが数字で出てくることもあり、なにか有名な方がいいことは多そうだし、発言力もあるし、とにかくなんか強そうってことになります。自分なんかはわりとひっそりと生きてるので、有名な部類ではありません。

そうすると、まず、自分よりも有名な人に会う時は、最初から負けてる感覚みたいなのがあります。弱いものが強いものに挨拶するような感じで、やや引け目を感じながら、それを感じられないように堂々としてみたりしながら。

さて、こういう感覚はみんな持ってると思います。でもこれは、本当に自分の感覚なんでしょうか。

価値観は自分1人では決められない

なんとなくこういうことから考えると、価値観というのはそれぞれ個人が独立して孤独に育ててきたもののように見えて、実は環境に大きく影響されてるわけです。

国によってマナーが違うようなものと同じで、住んでいる場所や時代、交流のある人たちなど、さまざまな自分以外の価値観がインストールされていきます。

自分のみの価値観を持つ

さて、そんななか、自分の価値観というのを意識的に育てていったとします。人とは違う価値感、人とは違う目線を持つことになります。

人と違うので、共感できない場合が多いわけです。なので、その価値観、感じてること、感覚というのは、人と共感することで「これは間違いではない、正しい」と確認することができません。

自分の人生というのは他の人は辿ってないわけで、自分のみの価値観というのが形成されていくはずです。本来なら年を取れば取るほどユニークになり、それぞれの価値観が枝分かれしていくのではないかと考えることができそうです。でも、そんな感じはしませんね。

独自の価値観を持つ難しさ

みんな孤独に耐えて自分の価値を積み重ねていくのはできないんだと思います。共感して理解し合うことで、なにか安心や幸せを感じるというのがあるはずで、ユニークさを求めて生きてるわけではないです。

つまり、社会というコミュニティに置いて機能していくために、共感やなんかをして、価値観を寄せ合っていくわけです。

研ぎ澄ます方向はどっちか

自分の場合、仕事においては柔軟性やなんかも重要だと思うし、人に合わせるような空気を読むようなこともとても大事だと思ってます。

一方で、自分の価値感を信じて研ぎ澄ましていくようなことをする時に、流れに合わせるようなことをすると、研ぎ澄ましにくく、切れ味の良い刀とは真逆の丸みを持った柔らかな形になっていく印象があります。

なんとなく、この文章はここまでの流れで、漠然と独自の価値観を持つ方が偉いという話をしていくように感じたと思います。でも、切れ味抜群のなんでも切れる刀も魅力的ですが、柔らかな曲線の美しさも魅力的です。どっちも悪くない気がする。

自分の頭の中は今そんな感じです。自分の価値観を磨いている傍、みんなとの価値観も探っています。

まとめ

グネグネした文章かきました。なにを言いたいのか、なにを感じ取ってほしいのかも分からなくするような、ただテキストをフリック入力したかっただけのような。このテキストに価値があるのかないのか。

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