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梅原猛と「山川草木悉皆成仏」の2022年

はじめに

noteの更新が滞っております。申し訳ありません。
先の記事「里山ナショナリズム」に関して、より広汎に、環境思想と自然環境政策を横断する形での論考を用意しているところです。
今回はその中から、「山川草木悉皆成仏」という言葉についての論考の一部を公開したいと思います。
弊記事「里山ナショナリズムの源流を追う」を受けた内容になっていますので事前にご一読いただけると理解がしやすいかもしれません。読まなくても大丈夫です。

最下部に若干の追記をしました。(2024年3月31日)


「山川草木悉皆成仏」

 この響きの良い八文字の言葉は、哲学者梅原猛(1925〜2019年)が一時期頻繁に用いていたものです。無生物も含めこの世の全てのものに仏性がある、という主張は梅原の哲学思想「森の思想」の根幹をなすものであり、この言葉はそれを象徴する古語として紹介されています。梅原は、原始神道や仏教、仏教の中でも特に天台本覚論にアニミズム性を見出し、これこそが、先史時代から脈々と続く日本人の精神性であると説明します。明治以降の近代化、西洋の一神教的思想の流入によって失われつつあるこの多神教的思想、縄文時代以来森の中で育まれたエコロジー思想を、今こそ取り戻し、環境問題の解決に活かそうと梅原は訴えます。
 梅原と親交のあった中曽根康弘は総理大臣在任時の施政方針演説でこの言葉を取り上げています。中曽根だけでなく、保守派の政治家にもリベラル派の政治家にも、財界人にも、芸能人にも、梅原のこの思想に共鳴する者がいます。1990年代以降、環境に対する意識高まりの中で、この言葉は多くのメディアで取り上げられ、日本固有のエコロジー思想として広く世間に膾炙します。
 この言葉の由来についてはすでにいくつかの論考が存在しています。仏典には存在しない言葉であるという指摘や、梅原猛が自身による造語と認めたという内容のものもあります。しかし、これには疑いがあります。それ以前の古い用例があるだけでなく、そのひとつを梅原は見ていた可能性が高いのです。
 先に、「一時期頻繁に用いていた」と述べました。実は、梅原は晩年になりこの言葉を捨てています。ある時期から、能の謡曲などで古くから用いられているより一般的な表現、「草木国土悉皆成仏」を用いるようになります。なぜ自身の代名詞とも言える「山川草木悉皆成仏」を放棄してしまったのでしょうか。
 これらの内容について、ひとつずつ解きほぐしていきながら、梅原猛の思想について検討していきたいと思います。

梅原猛造語説とそれに対する疑義

 仏教学者の岡田真美子は、「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」の中で「山川草木悉皆成仏」は梅原猛による造語であると論じています。

岡田真美子「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」(『木村清孝博士還暦記念論集 東アジア仏教―その成立と展開』春秋社、2002 年 11 月所収)http://www.indranet.jp/products/2002.11.16shituubussyouron.pdf

 「草木国土悉皆成仏」というよく似た言葉も存在します。こちらは能の謡曲中などで多く用いられています。岡田は、これらの言葉の由来に関する研究を整理しつつ、同じく仏教学者の夫岡田行弘が新幹線の車中で梅原猛と遭遇した際のエピソードから、「山川草木悉皆成仏」は梅原の造語であると論じています。行弘氏が梅原に対し、「山川草木悉皆成仏」の由来について問うたところ、梅原は自身の造語であることを認めたというのです。現在はこの梅原による造語という説が主流のようですが、一部の識者は、類似の語がそれ以前、梅原もたびたび言及する宮沢賢治の著述の中にも見られることから、用例がほかにある可能性を指摘しています。

「山川草木悉皆成仏」の由来(1) - 宮澤賢治の詩の世界 ( mental sketches hyperlinked )

「山川草木悉皆成仏」の由来(2) - 宮澤賢治の詩の世界 ( mental sketches hyperlinked )

 宮沢賢治はどのような表現をしているのでしょうか。賢治が、友人である保阪嘉内へ宛てた書簡を見てみましょう。

「一人成仏すれば三千大千世界山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ」
(保阪嘉内あて書簡63、1918年5月19日)
『新校本 宮沢賢治全集 第15巻』筑摩書房、1995年。70ページ

「わが成仏の日は山川草木みな成仏する。山川草木すでに絶対の姿ならば我が対なく不可思儀ならばそれでよささうなものですがそうではありません」(保阪嘉内あて書簡76、1918年6月27日)
『新校本 宮沢賢治全集 第15巻』筑摩書房、1995年。93ページ

 よく似ています。
 日本文化研究の第一人者で、国際日本文化研究センター名誉教授の鈴木貞美はこの用例について次のように述べています。前段は中国における天台宗の成立と、大般涅槃經に見られる「一切衆生悉有仏性」の説明です。後段の「お経の文句のように」というのは、謡曲(能の声楽部分)で決まり文句のように用いられることを指しています。

 インドの仏教は、中国に伝わり、天台宗のなかで、一切が成仏するという考えが生まれたと考えられる。中国に修行に行った最澄も空海も「木石も成仏しうる」という意味のことを語っている。やがて比叡山で「草木も発心する」(成仏を願う)という考えに転じ、中世には「草木国土悉皆成仏」ということばが広く流布し、世阿弥の能楽などにも見られる。
 賢治は、ここから「国土」をとり、「山川」をつけ加えたことになる。「山川草木」は、よく使われることばなので、うっかり書きまちがえたことも考えられるが、「草木国土悉皆成仏」は、お経の文句のようにひろまったもので、簡単に変えられるものではない。「山川草木みな成仏する」といった人は、いまのところ、この時期までは、賢治の他には見いだせない。
天沢退二郎、金子務、鈴木貞美『宮澤賢治イーハトヴ学事典』弘文堂、2010年。392-393ページ。

 「山川草木みな成仏する」といった人は、いまのところ、この時期までは、賢治の他には見いだせない」
ところが、あるのです。まさにそのものの用例が。

華厳に云ふ事理無礙事々無礙の教理は、密教に依りて更に山川草木悉皆成仏の見地に達せり。此の点は大乗相宗の融和を重んずる点にあるべし。我が国に於ける本地垂迹説も此の時代精神の一反映に外ならず。
岡倉天心「泰東巧藝史」『岡倉天心全集 第4巻』平凡社、1980年。288ページ (太字は筆者による)

 岡倉天心です。「山川草木悉皆成仏」を密教の教理とする考え方は、のちの梅原の説明と同じです。
 「泰東巧藝史」と題する講義は、天心が東京帝国大学文化大学講師として、1910年の4月から7月にかけて行ったものです。この講義の内容を受講生ノートから集成して編集したものが、天心の著作「泰東巧藝史」としてまとめられ、以降複数の全集やアンソロジーに収められています(1944年創元社版『天心全集』巻六、1968年筑摩書房『明治文学全集38 岡倉天心集』、2001年平凡社ライブラリー『日本美術史』など)。

 『岡倉天心全集 第4巻』の解題によれば、出典となったノートはすでに散逸しているそうです。なので、天心が講義で本当に「山川草木悉皆成仏」と発言したかはわかりません。「草木国土悉皆成仏」と言ったのを、受講生がノートに写す際に書き間違えた可能性や、編集の段階で「山川草木」としてしまった可能性なども考慮する必要があります。

 梅原猛は、『近代日本思想体系 7 岡倉天心集』(筑摩書房、1976年)の編集と解説を行っています。この中に「泰東巧藝史」は収められていませんが、同じく梅原が担当した『近代日本思想体系 25 和辻哲郎集』(筑摩書房、1974年)の解説の中に「泰東巧藝史」が登場します。和辻哲郎が東京帝国大学の学生時代に興味を持って聴いた講義が岡倉天心の「泰東巧藝史」(と大塚保二の「最近欧州文芸史」)であったことを記しているのです。このことから、梅原は少なくとも1970年代には岡倉天心の「泰東巧藝史」に目を通していたことが想定されます。つまり、造語ではなく、岡倉天心から「借用」した可能性があるのです。

 私が岡倉天心の用例に行き当たったのは、環境決定論的・観念的・礼賛的「日本人の自然観」について、その系譜を辿っている際でした。これらについてここで詳説はしませんが、浪漫主義と京都学派と国文学のランデブー、その帰結が『国体の本義』と「世界史の哲学」であり、また、戦後の梅原猛の思想である、とだけ述べておきます。出るべきところから出たな、というのが私の感想です。

 梅原が用いはじめる時期より前で、かつ宮沢賢治の用例よりあとの類似の用例も挙げておきましょう。いずれも「仏」ではなく「神」とするものです。後で述べるように、アイヌも梅原の思想を考える上で重要な要素です。しかし、ここにも疑義があります。
 梅原もたびたび言及する言語学者金田一京助は1942年の『北の人』の中で「アイヌの思想では熊も狼も狐も鹿も、海馬も海豹も、鳥も神である。それのみならず一本一本の草や木も苟もその生活に有用なものである限り皆神である」と述べています(『金田一京助全集第14巻』三省堂、1993年。152ページ)。
 同じく梅原が言及するアイヌの言語学者知里真志保は、1947年の『和人わ舟お食う』の中で金田一のこの一文を取り上げ、「これわ充分に正しい言い方でわない」「実わ、熊や鮭が直ちに神なのでわなく、神がこれらの動物の姿お一時的に権りるのである」(『和人は舟を食う』北海道出版企画センター、2000年。65ページ)と述べ、その内容をアイヌの立場からより詳細に説明しています。
 知里に学んだ小説家武田泰淳の作品『森と湖のまつり』(1958年)にも「熊も鮭も、山も川も、山川草木はみんな神様だというアイヌ式の考え方」(『武田泰淳全集第7巻』筑摩書房、1972年。35ページ)という表現が見られます。この小説はアイヌの青年とシャモ(和人)の画家の恋から、アイヌ民族の葛藤を描いたものです。この物語は1958年に内田吐夢の監督、高倉健や香川京子の出演で映画化されており、一定の影響力があったと思われます。

 問題は梅原の発言です。梅原は、朝日新聞での連載「反時代的密語」「天台本覚論とアイヌ思想」(2006年1月31日)に「最近、知里真志保氏の著作集を読んでいて、思いがけなく天台本覚論の原形をみつけた」と記しています。梅原は、1983年の『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』で知里真志保に言及していますし、このころ金田一京助のアイヌ語の研究を批判し、独自のアイヌ語論を展開しています。天台本覚論とアイヌの思想を結びつけるのもこの時期です。この時点で上記の知里や金田一の著作を読んでいないことは考えにくいのですが、とにかく梅原はそう主張しています。この2006年の発言の真意はよくわかりません。

 アイヌは梅原の「森の思想」の重要な要素です。宮澤賢治の「仏」とアイヌの「神」を習合すれば梅原の「森の思想」における「山川草木悉皆成仏」はほぼ説明できます。もうひとつ重要な要素があります。自然人類学者埴原和郎の「二重構造モデル」です。梅原はこれをを援用しながら、アイヌや沖縄の文化に縄文以来の日本人の精神性の古層があることは科学的にも裏付けられていると主張しています。「二重構造モデル」は次のような説です。

抄録
 この論文は, 沖縄人およびアイヌを含む日本人集団の形成史を単一の仮説で説明する二重構造モデルを提唱するものである。このモデルは次の点を想定する。すなわち, 日本列島の最初の居住者は後期旧石器時代に移動してきた東南アジア系の集団で, 縄文人はその子孫である。弥生時代になって第2の移動の波が北アジアから押し寄せたため, これら2系統の集団は列島内で徐々に混血した。この混血の過程は現在も続いており, 日本人集団の二重構造性は今もなお解消されていない。したがって身体•文化の両面にみられる日本の地域性-たとえば東西日本の差など-は, 混血または文化の混合の程度が地域によって異なるために生じたと説明することができる。またこのモデルは, 日本人の形質•文化にみられるさまざまな現象を説明するのみならず, イヌやハツカネズミなど, 人間以外の動物を対象とする研究結果にも適合する。同時に, このモデルによって日本の本土, 沖縄およびアイヌ系各集団の系統関係も矛盾なく説明することができる。
埴原和郎 二重構造モデル: 日本人集団の形成に関わる一仮説

 現在はミトコンドリアDNAや核ゲノムDNAの解析結果からさらに細かい伝播の過程が明らかになっていますが、大筋では埴原のモデルを裏付ける結果になっています。このあたりの内容は、‎篠田謙一や斎藤成也の研究が詳しいです。
 梅原の「森の思想」と「山川草木悉皆成仏」は、宮澤賢治の「仏」とアイヌの「神」を「山川草木」という共通項で習合し、その由来を埴原の「二重構造モデル」で説明したもの、と言うことができるでしょう。
 「山川草木悉皆成仏」という言葉を理由は判然としてませんが、岡倉天心から「借用」したケースや、賢治やアイヌを研究するうちに「草木国土」とするところを、うっかり「山川草木」としてしまったケースが考えられそうです。

 ここまでの内容を2021年の前半までにはおよそ調べて終えており、その内容をすでにまとめていました。恥ずかしながら、少々悦に入っていたのも事実です。しかし、このあと事態は急転します。

2022年の「山川草木悉皆成仏」

 2022年3月、国立国会図書館が「次世代デジタルライブラリー」の運用を開始します。これにより、過去の文献に対して高度な検索が可能となりました。このツールで「山川草木悉皆成仏」を検索すると、予想はしていましたが、29件もの用例ヒットします。この結果により、この論考も再検討を余儀なくされます。そもそも、岡倉天心の用例(これは次世代デジタルライブラリーの検索にはかからない)も、青空文庫などに収録されていれば容易に発見できたでしょう。デジタル化と横断検索には多くの可能性が秘められています。
 次世代デジタルライブラリーの検索結果から、この言葉を用いている例を、以下に列挙してみます。

国立国会図書館 次世代デジタルライブラリー https://lab.ndl.go.jp/dl/

横井時雄編『本郷会堂学術講演』警醒社、1892年。55ページ。
杉谷泰山『人間の研究』博文館、1910年。202ページ。
竹越与三郎『三叉文存』至誠堂書店、1914年。59ページ。
釈宗演『世の外』光融館、1916年。365ページ。
釈宗演『心の眼を開け』富文堂書店、1920年。157ページ。
与謝野晶子『女人創造』白水社、1920年。144ページ。
西晋一郎『普遍への復帰と報謝の生活』日本社、1920年。215、219、222、227、232ページ。
福来友吉『共同生活と労資問題』真言宗各派聯合法務所、1920年。41ページ。
宮崎安右衛門『神と真理への開眼』磯部甲陽堂、1924年。251ページ。
岩田勝市『如々文集 第1輯』1924年。38ページ。
北昤吉『哲学行脚』新潮社、1926年。73ページ。
岩田勝市『如々文集 第3輯』1926年。巻途中「日本佛教」4ページ。
釈宗演『求めよ与へられん』中央出版社、1927年。218ページ。
『釈宗演全集 第1巻』平凡社、1930年。206ページ。
釈宗演『禅の解剖 肉と血と皮』中央出版社、1931年。
官幣大社稲荷神社編『荷田全集 7巻 第五卷』吉川弘文館、1932年。330ページ。
金原省吾『東洋美学』古今書院、1932年。41ページ。
岡部為吉『教育原論』玉川学園出版部、1933年。206ページ。
浜地八郎『観音経要義』中央仏教社、1934年。145ページ。
金原省吾『東洋美術論叢』古今書院、1934年。112ページ。
金子雪斎『雪斎遺稿』振東学社、1937年。397ページ。
西晋一郎『東洋道徳研究』岩波書店、1940年。66、69、71、74、77ページ。
釈宗演『禅』文学書房、1941年。40ページ。
金原省吾『東洋美術』河出書房、1941年。58、61ページ。
高橋俊乗『中江藤樹』弘文堂、1942年。111ページ。
日華親善千手観音慶讃会『千手観音光来記』 1942年。44ページ。
日本芸術論
金原省吾『日本芸術論』旺文社、1943年。312ページ。

 特筆すべき内容をかいつまんでご紹介しましょう。
与謝野明子は、ルソー以前の日本の仏教思想にも「絶対の平等」の原理があることの証拠としてこの語を用いています。これは梅原の用法と重なります。
西晋一郎は西田幾多郎とともに「両西」と呼ばれた京都帝国大学の倫理学者です。釈宗演は円覚寺派管長を務めた人物で西田幾多郎の盟友鈴木大拙を弟子とし、大拙とともに禅を海外に紹介した人物です。
高橋俊乗も京都帝国大学の教育学者です。高橋は西洋を自然征服の思想とするのに対し、大乗仏教とこの語句をそれと対立する日本の特質として論じています。これも梅原の用い方と同じです。
『千手観音光来記』内の用例は、当時の名古屋市議会議長富田彦吉(材木商)による祝辞でのものであり、学識者でなはい人物が一般の場で使用した例として注目に値します。
江戸時代中期の国学者荷田春満(1696-1736年)の全集にその記載があることは驚きに値します。これは、この言葉が近世以前から用いられたことを示唆しています。2022年11月1日に、「次世代デジタルライブラリー」の対象が古典籍資料約6万点分まで拡大しましたが、現在(2022年11月18日)のところ近世以前の用例はヒットしません。2022年中に、国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開している古典籍資料約8万点全件へと拡大予定だそうです。拡大とともにさらなる用例が発見されるかもしれません。その際は追記したいと思います。

次世代デジタルライブラリー | NDLラボ 概要

 このほかにも、戦前からこれに類する語句を用いていた可能性がある人物がいます。新宗教生長の家の創始者谷口雅春です。谷口は『生命の実相』シリーズほか多くの場所で「山川草木悉皆成仏」とよく似た「山川草木国土悉皆成仏」という語句を用いています(例えば『生命の実相 第29巻 女性教育篇 頭注版』日本教文社、1960年。105ページなど)。谷口の生長の家設立は1930年、『生命の実相』シリーズの刊行もこのころからです。谷口の著作は膨大で、また、戦前のものは入手が難しく、私は現在ほとんど手をつけていません。しかし、予想するに、おそらくは戦前から用いていたのではないでしょうか。知識の吸収に貪欲で、西田哲学も取り入れていた谷口です。釈宗演などの著作を読んでていてもおかしくはありません。次世代デジタルライブラリーの検索結果にあるようなそれ以前の用例のどこからでも導入できたと思われます。

 「山川草木悉皆成仏」という言葉は、これまで私たちが考えてきたよりも、ずっと一般的なものだった。梅原猛はそれをどこからでも導入できたはずであり、造語説は慎重に取り扱う必要がある。これがここまでのまとめです。

梅原猛と「山川草木悉皆成仏」

 このように、「山川草木悉皆成仏」という言葉を梅原猛が造語した、という説には疑義があります。それ以前の用例が多くあり、その多くが梅原の研究対象と重なるからです。ただし、「借用」したのかどうかについては慎重に考える必要があります。鈴木貞美も述べているように、平易な言葉の組み合わせによってできている言葉です。うっかり「覚え間違えた」可能性もあります。この経緯は、四手井綱英が「里山」という言葉を造語した、という説とそれに対する反論ともよく似ています。先例から「借用」した可能性もある一方で、造語が偶然一致しただけの場合もありうるわけです。

 さて、梅原はいつからこの言葉を用いるようになったのでしょう。著作を追うことにします。

 梅原は、最初の単著である1967年1月の論文集『美と宗教の発見』の中で、「山川草木、悉有仏性」という表現を用いています(『梅原猛著作集第3巻 美と宗教の発見』集英社、1982年。33ページ)。一般的な「一切衆生悉有仏性」とも「草木国土悉皆成仏」とも異なる梅原独自の用例です。ただし、次世代デジタルライブラリーではこの用例も9件ヒットしますので、全くのオリジナルというわけでもなさそうです。この表現のあと「神道の地盤に仏教がそのまま移入され、日本人の自然愛は神道から仏教にそのまま受け継がれるのである」と続けています。そしてさらに「禅の自然観を日本人の自然観の一様体として考え」るとともに、「神道的な、浄土教的な」自然観も存在すると主張します。梅原のこの主張、鈴木大拙に代表されるような禅の思想に対して、密教の価値を強調する姿勢は以後も変わりません。
 同年6月の初の書き下ろしによる著作『地獄の思想』では、「神道と密教は生命の思想に」、「この多神崇拝を、皇室の先祖の神が統一していく過程が、おそらく日本国家の成立の過程」、「密教が神道と同じ自然宗教」(『梅原猛著作集 第4巻 地獄の思想』集英社、1982年。35ページ)や、「彼(宮沢賢治)にとって、明らかに、動物も植物も山川も人間と同じ永遠の生命をもっているはずであった」(同184ページ)といった表現が見られます。
 また翌年10月の『知恵と慈悲』「第三部 仏教の現代的意義」では「とくに日本の仏教には、そういう山川にまで生命を見る見方をとる考え方が有力のようである」(『梅原猛著作集 第5巻 地獄の思想』集英社、1982年。118ページ)と述べています。
 これらのことから、のちに「森の思想」として結実する梅原猛の思想が、早くから形になっていることがわかります。ただし、ここではまだ「山川草木悉皆成仏」ではありません。

 それでは、梅原はいつから「山川草木悉皆成仏」を用いるようになったのでしょう。梅原が『近代日本思想大系』の「岡倉天心集」や「和辻哲郎集」の編集と解説を行い、「泰東巧藝史」中の「山川草木悉皆成仏」を目にしたと考えられる1970年代中盤以降も、すぐにはこの言葉を用いていません。上記の岡田論文には「1970 年代の後半くらいから梅原によって広められたようである」とありますが、その例は具体的には示されていません。集英社版のいわゆる第1期著作集を通読してみましたが、私はこの時代の用例を見つけることができていません。もちろん見落としている可能性もあります。ご存知の方がおられましたらご教示いただけると幸いです。

 1985年6月の『ブナ帯文化』(新思索社)の「第1章 日本の深層文化」では「有名な『山川国土悉皆成仏』ということばは、涅槃経によく似た『悉有仏性』という思想があるが、人間ばかりかすべての動植物から山川国土までも仏になれるという考え方そのものは日本でできたものであると私は思う」(新版1995年。21ページ)と述べています。ここでも独自の用例です。次世代デジタルライブラリーでこれを検索すると7件ヒットします。「山川草木悉有仏性」の例も含めて、梅原に限らず昔の人も語句を混同していたようなきらいがあります。
 著作中で初めて用いられるのは、私が知る限り、翌月1985年7月の『賢治の世界』(佼成出版社)においてです。「かくて『涅槃経』の、あの悉有仏性の考え方が日本の仏教思想の展開において、『草木国土悉皆成仏』あるいは『山川草木悉皆成仏』という思想にまでなったのである」(『梅原猛著作集第12巻 人間の発見』小学館、2003年。326ページ)とあります。2022年の現在において留意すべきは、二つを並列させるこの書き方も間違いとは言い切れないという点です。仏典にはないものの、後者も釈宗演など名のある学識者が確かに用いている用語だからです。

 実は、ややこしいことに、古典中によく見られる「草木国土悉皆成仏」という表現にも疑義があります。ここで整理しておきましょう。
 9世紀に安然は『勘定草木成仏私記』の中で「中陰経に云く…草木国土悉皆成仏」と書いています。岡田論文でも宮本正尊の研究を参照しながら指摘しているように、この中陰経は現存の大蔵経にある中陰経ではなく、また大蔵経全体を見てもこのような表現は見つからないそうです。

宮本正尊 「草木國土悉皆成佛」の佛性論的意義とその作者

 にもかかわらず、この言葉は広く浸透します。14世紀以降、「草木国土悉皆成仏」という表現は謡曲などに広く見られるようになります。「鵺」「墨染櫻」「芭蕉」「杜若」「六浦」「現在七面」「西行櫻」「高砂」「定家」などの演目がそうです。近代以降も多くの文学者や研究者がこれを用いています。幸田露伴の『二日物語』や夏目漱石『門』などにこれが見られます。
 「山川草木悉皆成仏」だけでなく、よく知られた「草木国土悉皆成仏」も仏典には存在しない言葉であり、にもかかわらず、仏典に存在するかのような体裁で広く人々に受け入れられた不思議な言葉なのです。

 梅原が次に用いるのは1986年1月の『新・岩波講座 哲学12 文化のダイナミックス』中の「XI 伝統と創造」においてです。ここで梅原は、「しかし天台本覚論ついに人間と動物ばかりか人間と植物の境界をも撤廃し、山川草木悉皆成仏なる思想を形成したのである」(337ページ)と説明しています。この論文は梅原の「森の思想」のひとつの到達点です。梅原の「森の思想」に関する著作のほとんどは講演録か新聞でのエッセイであり、きちんとまとめられた論文は思いのほか多くありません。これはその数少ない例です。アイヌの思想に日本人の世界観のルーツを見出す考え方も、この時点でほぼ完成しています。
 梅原が「山川草木悉皆成仏」を著作中でいつから使い始めたについては、出版時期と執筆時期のズレを考慮するとしても、1985年後半から86年前半をひとつの境目として見てよさそうです。1970年代後半に用例があるとしても、1985年までは使用頻度は高くなく、また表記ブレも多々あるため、本格的に使用したとは言えないでしょう。
 このあと梅原は「山川草木悉皆成仏」という言葉を頻繁に、ありとあらゆるところで用いるようになります。1992年の環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)の頃には朝日新聞がこれを社説で取り上げるなど、バブル期の乱開発や世界的な環境問題への関心の高まりとともに、人々に浸透していきます。

座標 森と共生する哲学を
 地球サミットを前に 編集局顧問 辰濃和男
 梅原猛さんが書いている。西欧の文明は「怒りの文明・力の文明」であり、東洋の文明は「安らぎの文明・慈悲の文明」である、と。
 安らぎや慈悲をはぐくんだのは、森との共生だ。ごく類型的にいって、自然征服型の文化は人間中心主義であり、競争原理だ。自然一体型の文化は自然中心主義で、共生原理である。森の生きものも仲間だ。山川草木に仏性ありという思想は、私たちの心に入りやすい。
朝日新聞1992年5月29日 1面

 辰濃は1975年から1988年まで「天声人語」を担当した人物であり、圏央道首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の高尾山トンネルの開発に反対する運動やその差し止めを求める裁判、通称「高尾山天狗裁判」での活動でも知られています。梅原の影響力の強さがわかる例であるとともに、それがまた別の論客によって拡散される様子がわかる例です。こうした浸透の帰結が「里山ナショナリズムの源流を追う」で見た、第1次安倍政権「21世紀環境立国戦略」であるわけです。

 発端についてはこれで一件落着、といきたいところなのですが、ここからが核心です。これら著作中よりも先に、梅原が「山川草木悉皆成仏」を用いている場所があるのです。それは当時の政府与党に関係する場所です。

中曽根康弘と「山川草木悉皆成仏」

 梅原は委員として参加した1985年1月23日の「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会(靖国懇、第6回)」で「山川草木悉皆成仏」の語を用いたプレゼンテーションを行ったことが記録されています(新編靖国神社問題資料集【770】閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会第7回(昭和 60年2月 12日)資料1 閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会(第6回) 議事概要)。靖国懇は、閣僚の靖国神社参拝の是非を問うべく、藤波孝生官房長官が招集した私的諮問機関です。

新編靖国神社問題資料集 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 この懇談会の議事録は長らく不存在とされてきましたが、信濃毎日新聞社による取材から、第2回から第11回までは存在することが分かっています。

靖国懇談会 議事録が存在|芦部信喜 平和への憲法学|信濃毎日新聞

 この議事録については私はまだ確認していません。確認ができ次第追って検討します。

 また、ヒアリング対象として参加した1985年2月27日の「臨教審第1部会第13回 」では「文明論から見た日本の教育について」と題する発表を行っており、ここでも「山川草木悉皆成仏」を用いていることが記録に残っています(「臨教審だよりNo.5 1985年5月」)。臨時教育審議会は、教育改革の実現を目的に設置された内閣総理大臣直属の諮問機関で、教育の自由化や加熱する受験戦争への対応、いじめや校内暴力の問題などが議論されました。梅原を臨教審の委員だとする記述が散見されますが、臨教審ではヒアリングの対象です。おそらくは靖国懇の委員と混同しているものと思われます。
 以下に、この言葉や梅原、中曽根、のちの国際日本文化研究センターに関係する内容についての時系列を示します。

1978年10月 京都市「世界文化自由都市宣言」
1980年11月 京都市世界文化自由都市推進懇談会「世界文化自由都市宣言に基づく提案」桑原武夫、梅原猛、石井米雄、天野和夫、千宗室、葉上照澄など
1982年 「日本文化の総合的研究の方法に関する研究」(文部省科学研究費補助金)梅原猛、埴原和郎、伊藤鄭爾、上山春平、石井米雄、源了圓、中根千枝など
1982年11月 中曽根康弘第71代内閣総理大臣に就任
1983年 「日本文化総合研究の研究体制のあり方に関する研究」(文部省科学研究費補助金)梅原猛、石井米雄、上山春平、杉本秀太郎、中根千枝、芳賀徹、ドナルド・キーン、埴原和郎、山田慶兒、河合隼雄など
1983年6月 中曽根康弘「文化と教育に関する懇談会」(座長 井深大)
1984年 「日本文化研究に関する調査研究」(国立民族学博物館)桑原武夫、梅原猛、梅棹忠夫、河合隼雄、埴原和郎、芳賀徹など
1984年8月3日 閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会(第1回)芦部信喜、梅原猛、江藤淳、小口偉一、小嶋和司、佐藤功、末次一郎、鈴木治雄、曽野綾子、田上穣治、知野虎雄、中村元、林敬三、林修三、横井大三
1984年8月21日 臨時教育審議会(会長 岡本道雄)※梅原猛は委員ではない
1984年10月24日 中曽根康弘、南禅寺野村別邸にて桑原武夫、今西錦司、上山春平、梅棹忠夫、梅原猛と会談
1984年12月25日 臨教審第1部会第6回 梅棹忠夫「21世紀を展望した日本人のあり方」(ヒアリング)
1985年1月23日  閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会(第6回)梅原猛「山川草木悉皆成仏」
1985年2月27日 臨教審第1部会第13回 梅原猛「文明論から見た日本の教育について」(ヒアリング)「臨教審だよりNo.5 1985年5月」「山川草木悉皆成仏」※
1985年3月25日 梅原猛・桑原武夫、首相官邸を訪問、「国立日本文化研究所設立試案」を提出
1985年4月 「国際日本文化研究センター(仮称)に関する調査会議」桑原武夫、梅原猛、梅棹忠夫、石井米雄、佐々木高明、上山春平、河合隼雄、埴原和郎、中根千枝
1985年6月20日 『ブナ帯文化』梅原猛「第1章 日本の深層文化」「有名な山川国土悉皆成仏」ということばは、涅槃経によく似た「悉有仏性」という思想があるが、人間ばかりかすべての動植物から山川国土までも仏になれるという考え方そのものは日本でできたものであると私は思う。(新版21ページ)
1985年7月 中曽根康弘「日本学の構築」(軽井沢セミナー)靖国神社美化発言
1985年7月 「私の賢治論 新しい時代を想像する賢治の世界観」『賢治の世界』「かくて『涅槃経』の、あの悉有仏性の考え方が日本の仏教思想の展開において、『草木国土悉皆成仏』あるいは『山川草木悉皆成仏』という思想にまでなったのである」(2期著作集12巻326ページ)
1985年8月9日 閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会報告書
1985年9月25日 桑原武夫・今西錦司・梅棹忠夫・梅原猛・上山春平、万博記念迎賓館で中曽根康弘と懇談
1986年1月10日 『新・岩波講座 哲学12 文化のダイナミックス』梅原猛「XI 伝統と創造」「しかし天台本覚論はついに人間と動物ばかりか人間と植物の境界をも撤廃し、山川草木悉皆成仏なる思想を形成したのである」(337ページ)
1986年1月27日 第104回国会 中曽根康弘総理大臣施政方針演説「山川草木悉皆成仏」
1986年3月31日 「国際日本文化研究センター(仮称)この構想について(報告)」
1986年4月5日 「国際日本文化研究センター(仮称)創設準備室」設置
1986年9月22日  中曽根康弘「知的水準」発言
1986年9月24日 中曽根康弘総理大臣「単一民族」発言
1987年5月 国際日本文化研究センター設立
1987年 中曽根康弘、竹下登を後継に指名し退陣

 時系列を概観すると次のとおりです。「京都市世界文化自由都市推進懇談会」で「日本文化研究所」を京都に設立することが緊急の課題とされ(猪木武徳・小松和彦『新・日本学誕生 国際日本文化研究センターの25年』角川学芸出版、2012年、27ページ)、その準備的な研究が科研費で行なわれている最中に、中曽根康弘が総理大臣に就任。梅原は靖国懇と臨教審に招かれれ、そこで当時まだ外部では用いていなかった「山川草木悉皆成仏」を披露する。そのあとで、新京都学派と称される一団、梅原猛、梅棹忠夫、桑原武夫、今西錦司、上山春平と中曽根の会談が南禅寺野村別邸で行われる。梅原が著作中でこの言葉を用いる。その翌年年初の施政方針演説で中曽根はこの言葉を用いる。翌年に国際日本文化研究センターが設立されると中曽根は退陣し、梅原はセンターの初代所長に就任する。こういう流れです。
 野村別邸での会談の前に、梅原の靖国懇と臨教審への参加があったことは、『新・日本学誕生』などでは触れられていません。野村別邸での会談は中曽根が日文研設立を推進する意志を示した重要な出来事です。後述の鼎談の中で、井上章一は「梅原猛が中曽根を口説く場面はありませんでした」と述べていますが、靖国懇への参加がすでにある以上、梅原と中曽根はすでに関係を持っており、この場で口説く必要性は薄いわけです。諮問会議への参加とそこでのフレッシュでオリジナルなワードの提供のバーターとして、中曽根は日文研設立を約束したようにすら見えます。「山川草木悉皆成仏」はまるで中曽根のために誂えられたかのような感さえも。

さて、その中曽根康弘とはどのような人物なのでしょうか。

 中曽根康弘第は1982年に71代内閣総理大臣に就任すると、「戦後政治の総決算」を掲げて多くの改革を断行します。その分野は、行財政改革、税制改革、教育改革など多岐にわたります。国鉄の民営化もその一環です。現在に至る新自由主義路線の始まりと考える人も多いようです。周知の通り、国際日本文化研究センターの設立には中曽根の政治判断が大きく影響しています。中曽根のこれらの方針は、リベラル陣営からは「保守回帰」であるとして、強く批判されます。梅原も「梅原古代学」の内容や中曽根への接近から同様に非難されます。
 中曽根は、国のトップが自国の文化を深く理解することの必要性を訴えています。外交の場では自国の文化についての教養がアピールポイントになるという考えです。中曽根が国立の日本文化研究機関の設立を後押しした理由、梅原を重用した理由はこれです。少し長い引用になりますが、梅原が直接語っている文章があるので見てみましょう。

 中曽根内閣のころである。サミットを前にした中曽根首相が私に次のように尋ねたことがある。
「梅原君、サミットでは、テーブルについてからが勝負ではない。テーブルにつく前に控え室で雑談をするときが大切なんだ。そのとき、西欧諸国の首脳はギリシャの神話やシェイクスピアの話などをする。その話に割って入れないようではだめだよ。しかも西洋の首脳の知らない、たとえば日本の神話とか禅などの話をしなければ、日本の首相の値打ちはない。そうしないと、テーブルについてからも気後れして、必ず議論に負ける。この前のサミットでこういう必要性を痛感した。今度はどういう話をしたらよいだろう」と。
 それで私は何か参考になるかと、日本の神話や禅ばかりか『源氏物語』や芭蕉の話などを首相とかなり長い時間交わしたことを覚えている。サミットから帰って、また中曽根首相に会うと、首相は「君の話は役に立ったよ。今度のサミットはうまくいった」と誇らしげに語った。中曽根首相は国外においてももっとも評価が高い日本の首相である。その理由の一つは、サミットでこのような言動によって、日本の首相は教養と見識において決して西欧の首脳、サッチャーやミッテランに劣らないことを海外の政治家たちに深く印象づけたからではないかと思う。
梅原猛「サミットと神々」『宗教と道徳 思うままに』文藝春秋、2002年。44-45ページ。

 梅原が展開する独自の日本文化論は、まさに中曽根が求めていた性質のものです。そしてこれは時代が求めていたものでもあります。高度経済成長からバブル期にかけての経済至上主義の中で、経済以外のアイデンティティを日本人に提供するもの、司馬遼太郎の小説などと並び、国民に「物語」を提供する性質の文化論です。
 中曽根の施政方針演説を見てみましょう。

この数世紀の間、科学技術の発展に支えられたヨーロッパ文明は、極めて強い活力を保持して、世界のすべての地域に圧倒的にその影響を及ぼしてきました。しかし、今世紀も深まるにつれて世界の人々は、人類がその何千年の歴史において世界の各地域でつくり上げてきた思索と倫理と社会体制は、それぞれが人間の英知と尊厳性の刻まれたものであり、独自の価値を持つことを知るようになったのであります。さらに重要なことは、核戦争の脅威や、遺伝子操作が提起する人間の尊厳にもかかわる問題のように、科学技術の発達のみでは、必ずしも人間の幸福を保障し得ないことがはっきりしてきたことであります。
 こうしたことは、我々が今後考えるべき二つのことを暗示しています。第一は、科学技術が人類文化を覆い尽くすのではなくて、科学技術を人類文化の一部分として適正に位置づける必要性であります。第二は、科学技術以外の人間の精神文明について、科学技術がその同価値性を認め合ったように、相互間における理解を深め、共通の価値評価の基盤を広げることであります。釈迦は、既に二千五百年ほど前、「天上天下唯我独尊」と喝破し、また仏教思想においては、「山川草木悉皆成仏」ということが言われております。これが東洋哲学の真髄であります。
 我々日本人は、大自然は人間のふるさとであり、人間はこれとの調和の中で、動物、植物、生きとし生けるものすべてと共存しつつ生きていると考えてきました。調和と共棲、すなわち共存の哲学こそ、日本民族が長い歴史の中で育ててきた生き方の基本であると思います。私は、世界が直面している精神と物質の乖離の断崖に立って、我々が祖先から引き継いでいるこのような思想を、さきの国連創設四十周年記念総会において強く主張してきたのであります。それが人類の平和と各民族共存の基礎原理であり、国連精神の原点に通ずると信ずるからであります。
第104回国会 衆議院 本会議 第2号 昭和61年1月27日

 要領を得ない箇所も少なくありませんが、ヨーロッパ以外の文化の価値を強調する点や、科学技術に対して精神文化の重要性を訴える点、日本文化の精神性を「山川草木悉皆成仏」で説明し、これを共存の哲学であると主張する点、その価値を国際社会に訴えるという点は、まさしく梅原の「森の思想」です。梅原によってもたらされた理論を中曽根は、施政方針演説という政治の場で遺憾なく発揮したわけです。

日文研問題

 この構図自体は必ずしも責められるべきものではないでしょう。双方向的に一定の意義はあります。政治家が外部の識者の知見を参照すること自体は悪いことではありません。しかし、政治権力と学識者の癒着には注意が必要です。太平洋戦争では学識者たちが様々な形で政府に加担していたことがわかっています。
 ここで考えたいのが「日文研問題」です。中曽根と梅原の蜜月によって誕生しようとしていた国立の日本文化研究機関が、戦中の国民精神文化研究所のような国家主義のための研究機関になるのではないかという危惧を呼び、一部のメディアや学識者がその設立に反対した問題です。
 たしかに、いま振り返ると、指摘が当たっていない部分も少なくなく、また、現在の国際日本文化研究センターの研究成果を見るに、この危惧は杞憂であったと見ることもできます。宮地正人(東京大学名誉教授)、仁藤敦史(国立歴史民俗博物館教授)、井上章一(国際日本文化研究センター教授(当時)現所長)、倉本一宏(国際日本文化研究センター教授)による以下の鼎談でも、同様の結論に至っています。

<鼎談>「日文研問題」をめぐって 国際日本文化研究センター学術リポジトリ

 しかし、わたしは、「日文研問題」を総合的に語るには、人選も内容に不十分であると考えています。ひとつめの理由は、史学分野からの批判に限定して話を進めている点です。日文研設立に対しては国文学や哲学、教育学など幅広い分野の研究者が意見を寄せています。そうした識者はここには招かれていませんし、それらの識者によって提示された論点も挙げられていません。史学に限っても、例えば日文研の一部研究者の「新しい歴史教科書をつくる会」への参加などについては触れられていません。
 1990年代半ばに西尾幹二らによってはじめられた「新しい歴史教科書をつくる会」の運動は、インターネットの普及とも同期しながら2000年代の新保守主義的な世論の理論的な支柱のひとつとして機能します。この運動は会だけでなく、会には属さずに西尾に同調した多くの識者によって支えられています。例えば、会の設立(1996年)後の産経新聞の連載企画「地球日本史」(1997〜99年、のちに書籍化)などがその例です。
 この企画に参加したメンバーは、西尾幹二(つくる会、日本文化会議)、岡田英弘、川勝平太(日文研、日本文化会議)、斯波義信、角山栄、入江隆則(日本文化会議)、田中英道(つくる会)、小堀桂一郎、田代和生、大石慎三郎、芳賀徹(つくる会、日文研、日本文化会議)、速水融(日文研)、永積洋子(以上第1巻)。
佐藤常雄、笠谷和比古(つくる会、日文研)、宮本又郎。鬼頭宏、田中優子、佐伯彰一(日本文化会議)、源了圓(日本文化会議)、尾藤正英、尾本恵市(日文研)、大橋良介、伊達宗行、太田邦昌、小堀桂一郎(以上第2巻、重複除く)。
松本健一、宮澤眞一、鳴岩宗三、呉善花、黄文雄、平川祐弘、坂本多加雄(つくる会)、木村汎(日文研)、田久保忠衛(つくる会)、濤川栄太(つくる会)、藤岡信勝(つくる会)(以上第3巻、同)です。
 この時点ではこれだけのメンバーが参加しています。のちに距離をとる者や、西尾との交流は保ちながらも教科書問題については積極的な言及を避けるものもいますが、この時点では西尾や産経新聞の方針に賛同しているからこそ企画に参加したわけです。
 西尾と新しい歴史教科書をつくる会による『国民の歴史』(1999年)の内容の多くは、この企画での各論者の見解に大きく依拠しています。『地球日本史』には参加していませんが、縄文時代に関する部分は、地理学・環境考古学の立場から梅原を支えた日文研の安田喜憲の見解を採り入れて書かれています。西尾の「岩清水と森の文化」という表現からは「森の思想」からの影響が伺えます。西尾と梅原の関係は、ほかの新京都学派への西尾の言及からすると、なにか特別なものを感じさせます。西尾の初の著作を高く評価したのが梅原です。これも別なところでじっくり考えてみたいと思っています。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の運動を保守回帰の運動と捉えるならば、「日文研問題」で提示された危惧の一部は現実のものとなったと見ることもができます。ただしそれは当初の危惧、日文研が国民精神文化研究所の機能を担うというかたちではなく、外部の国民精神文化研究所的な組織・運動に人材を供与するというかたちで、です。
 日文研系の研究者がこの運動で果たした役割については議論があるところだと思います。研究者個々人の外部での活動に、所属機関がどの程度関与すべきかにも意見が様々あるでしょう。日文研の研究内容が、外部の人間によって特定の思想のために使われたとして、それは日文研の責任ではないでしょう。
 初期の日文研は、すでに成果を挙げていた研究者を梅原が招聘するかたちで成立しています。こうした傾向が日文研によって育まれた、というよりは、梅原が選択した研究者たちにそのような傾向が強かったと見るべきかもしれません。指摘されている通り、「つくる会」の運動には生長の家系統の学識者が大きな役割を果たしています。もうひとつの軸、日本文化会議(とその機関誌的な位置づけの『正論』『諸君!』などの保守論壇)の果たした役割とも比較しながら検討する必要があるでしょう。しかし、この関与の傾向は、同種の研究機関、国立歴史民俗博物館などには見られない日文研独自の傾向です。

 生態学・環境史研究的には誤りばかりの「森の思想」が、第一次安倍政権の「21世紀環境立国戦略」の思想的根拠のひとつとなっていることは、弊記事「里山ナショナリズムの源流を追う」で取り上げたとおりです。「森の思想」は日文研の巨大プロジェクト「文明と環境」によって完成された思想です。それが礼賛的日本人の自然観の普及に寄与し、保守回帰路線の政権の政策根拠となったわけです。この思想を背景に立案された政策は功を奏さず、日本は生物多様性条約第10回締約国会議で採択された愛知目標の大半が未達という結果になっています。この点も、杞憂ではなかったことの証左です。いち生き物屋として、わたし個人としてはこの部分が一番問題だと思っています。生態学や環境史研究の見地から見る「森の思想」についても別のところで詳しく取り上げたいと思っています。
 このほかにも、日文研を代表する研究者による長年の国粋的・排外的・差別的な発言などもこの鼎談では触れられていません。こうした姿勢が、近年の中世史研究者による不祥事に繋がったのではないでしょうか。日文研問題はまだまだ再考の余地があるとわたしは考えます。

 日文研の設立以前にも、梅原の思想が保守回帰的な政治思想のために利用された例があります。中曽根による1986年の「単一民族発言」です。これは、黒人やメキシコ、プエルトリコの人々の知的水準が低いとする、いわゆる「知的水準発言」のあと、釈明として行ったものです。

 しかも日本はこれだけ高学歴社会になって、相当インテリジェントなソサエティーになってきておる。アメリカなんかよりはるかにそうだ。平均点から見たら、アメリカには黒人とかプエルトリコとかメキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら非常にまだ低い。
失言王認定委員会『「大失言」』情報センター出版局、2000年。182ページ

その頃、ヨーロッパの国々はせいぜい20から30%、アメリカでは今でも黒人では字を知らないのがずいぶんいる。
失言王認定委員会『「大失言」戦後の失言・暴言・放言〈厳選77〉』(情報センター出版局、2000年。183ページ

 1986年9月22日、静岡県函南町のホテルで開催された自民党全国研修会での発言です。この発言はまたたく間に知れ渡り、アメリカでは黒人やメキシコ人の議員連盟が発言の撤回を求める声明を発表、ワシントンの日本大使館やロサンゼルスの総領事館には抗議の電話が殺到します。これを受けて中曽根は同月24日に釈明の記者会見を開きます。

 あれは発言の一部が取り上げられている。米国はアポロ計画や戦略防衛構想で大きな成果を上げているが、複合民族なので、教育などで手の届かないところもある。日本は単一民族だから手が届きやすいということだ。演説全体を読んでもらえばわかる。他国を誹謗したり、人種差別をしたわけではない。
失言王認定委員会『「大失言」戦後の失言・暴言・放言〈厳選77〉』(情報センター出版局、2000年。同184ページ

 これが「単一民族発言」です。アメリカ政府は一応の了解を示したものの、アメリカ社会の怒りはおさまりません。抗議や日本製品への不買運動、日本企業が有する飛行機やビルへの爆破予告、有力紙への意見広告などが相次ぎます。これを受けて中曽根は謝罪(撤回ではない)のメッセージを発表します。

 私は、最近の私の発言が多くのアメリカ国民を傷つけたことを承知しており、心からおわびします。
 唯一つはっきりさせておきたいことがあります。それは、私は、従来からアメリカの偉大さは、その多様な民族の活力と業績に由来するものであると確信しているということであり、私は、人種差別や、米国社会のいずれかの面を批判することを毛頭意図していなかったということです。
失言王認定委員会『「大失言」戦後の失言・暴言・放言〈厳選77〉』(情報センター出版局、2000年。187ページ

 先の釈明の中の「単一民族」という部分に、北海道ウタリ協会が抗議を行います。国会でも取り上げられ、共産党の児玉健児衆議院議員が「我が国における少数民族というべきアイヌの方々の存在は、総理の念頭にはないのですか」と質問します(https://kokkai.ndl.go.jp/txt/110705254X00719861021/25)。
これに対し中曽根は次のように答えます。

内閣総理大臣(中曽根康弘君) 児玉議員にお答えをいたします。
 私は、日本におきましては、日本の国籍を持っている方々でいわゆる差別を受けている少数民族というものはないだろうと思っております。国連報告にもそのように報告していることは正しいと思っております。大体、梅原猛さんの本を読んでみますというと、例えばアイヌと日本人、大陸から渡ってきた方々は相当融合しているという。私なんかも、まゆ毛は濃いし、ひげは濃いし、アイヌの血は相当入っているのではないかと思っております。
第107回国会 衆議院 本会議 発言番号026
https://kokkai.ndl.go.jp/txt/110705254X00719861021/26

 「差別を受けている少数民族はない」という中曽根の発言は波紋を呼びます。国会でも法務省や厚生省の政府委員が呼ばれ、北海道旧土人保護法の問題などとともに議論されます。10月30日には後藤田正晴内閣官房長官が首相の発言を釈明します。

 首相はアイヌ民族がいることを否定しているわけではない。国際人権条約で規定されている少数民族はいないということを述べている。(略)首相が単一民族と表現したのは、日本人は南方なり大陸なりからきた人間と、もともと日本列島に住む人間とが長い年月の中で混然一体となってできたという程度の趣旨からだ。
失言王認定委員会『「大失言」戦後の失言・暴言・放言〈厳選77〉』(情報センター出版局、2000年。192ページ

 官房長官による釈明も含めて、これら一連の発言には多くの問題が含まれています。体毛に対する揶揄は和人がアイヌの人々に対して長らくおこなってきた差別の典型例です。自身のことを述べているとはいえ、それをアイヌと結びつけて弁解に用いるというのはあまりに無神経です。
 この発言に対し、アイヌの人々は次のような質問主意書を提出しています。

閣僚の単一民族発言についての見解と「国際先住民年」を迎えるにふさわしいアイヌの人々の生活と権利保障を求める質問主意書:質問本文:参議院

 本稿で取り上げたいのは、中曽根が梅原の名前を挙げている点と「アイヌと融合している」という部分です。
 埴原和郎の「二重構造モデル」をもとに展開した梅原の日本文化論は、まっとうに考えれば「日本人」のルーツの多様性を示すもののはずです。しかし、中曽根や後藤田の理解はこれとは真逆です。「先住の南方系の人々と、大陸から渡ってきた北方系の人々が混ざることで現在の日本人が形成され、北海道や沖縄などの『周辺』の人々には、先住の南方系の人々の要素が多く残っている」という説を逆さまに解釈して、「多様なルーツが一つになった=単一民族国家である」と捉えているのです。先住民族はすでに同化されたものとして扱われ、現在も存続しているアイヌのような先住民の存在が不可視化されているのです。
 失言王認定委員会による『大失言 戦後の失言・暴言・放言〈厳選77〉』(情報センター出版局、2000年)では、アイヌのことが頭になかったからこのような発言になったのではないかとしています。しかし、中曽根の梅原との交流や、年初の施政方針演説中の内容を考えると、すでに梅原の説を知っており、アイヌのことは認識した上で、このような解釈を行ったと考える方が自然です。ブレーンとしての梅原は、本質を十分に伝えることができず、差別の根拠を中曽根に与えてしまったことになります。
 梅原にこの発言の責任があるのかは見解がわかれるところでしょう。勝手に曲解をする者を止めることはできません。しかし、説明する側は慎重に慎重を重ねる必要があります。ともすれば、恐ろしい凶器を権力者に与えることになります。
 中曽根に限らず、政治家はこの手の曲解にもとづく発言をたびたび行います。ここでは詳しく取り上げませんが、森喜朗の神道政治連盟国会議員懇談会における「神の国」発言も、ベースにあるのは梅原猛や山折哲雄、上田正昭の神道論や鎮守の森論です(梅原はその場にいたらしい)。のちにこれらの人物はその発言を非難していますが、そもそもは自身らの説から出たものです。
 余談ですが、石原慎太郎の「ババア発言」も同種のものです。これは地球物理学者松井孝典との対談で聴いた自然人類学上の「おばあちゃん仮説」を曲解したものです。政治家に対して科学、特に人類学の理解を求めることはなかなかに困難です。

 一見すると、梅原と中曽根は親しい精神性の人物のようにも見えます。しかし、梅原は、仏教学者の中村元などとともに閣僚の靖国神社参拝には反対の意見をはっきりと述べています。必ずしも中曽根らの意向には迎合していません。中曽根は梅原との共著『政治と哲学 日本人の新たなる使命を求めて』(PHP研究所、1996年)の中で、「また、靖国問題に関しては、先生は、日本の神社は旧敵に対する鎮魂で作られたが靖国は明治になって国家神道化した国の政策で作られたものなので、私の首相としての公式参拝に反対された由であった。また国際的反響も考えられたとのことであった。私は靖国神社の由来はまさにその通りであるが、国が戦死者に生前、靖国に祀ると約束して首相が公式参拝もせず、約束不履行のことは放置できない。私は国のため一身を犠牲にされた戦死者に対する国の感謝と冥福祈願のため憲法違反にならないように参拝したと説明した。これらの点は読者がよく判断されたいと思う」と述べています。 
 中曽根にはほかにも多くの有力なブレーンがいたことも考慮すべきでしょう。日本の多神教的思想を高く評価する梅原は、戦前の国家神道を「一神教的」と捉え、これや現代におけるこの路線への回帰に対して一貫して批判的です(これには一神教に対する偏見という別の問題がありますが)。憲法改正に反対である点も自由民主党の方針とは異なっています。安倍晋三による「美しい国」路線にも批判的です。東日本大震災復興構想会議に特別顧問(名誉議長)として参加し、「原発問題は扱わない」とする会議の方針に猛然と反対し、原子力発電所の建設を推進してきた国を痛烈に批判するなどもしています。
 梅原は、革新陣営からその保守性や政治権力との接近を批判される一方で、朝日新聞などリベラルな論調のメディアからは、特に1990年代以降、「森の思想」がエコロジー思想が高く評されます。梅原猛という人物を理解するためには、この二面性を同時に捉える必要があります。単純な御用学者ではなく、右派にも左派にも親和性のある、そういう人物です。それゆえに通り一遍の理解では捉えきれないところがあります。
 梅原が提示した個別の説に対する批判や、政治権力との距離などに関する論及は数多くあるものの、総合的な評価はまだほとんどなされていません。本稿でも、梅原が展開した諸説に関する批評はほとんど行っていません。これは別の機会に行いましょう。
 中曽根との関係について頁を割きすぎました。話を戻します。

捨てられた「山川草木悉皆成仏」

 繰り返し用いた「山川草木悉皆成仏」を、あるときから梅原は用いなくなります。最後に使用したのは、私が調べた限りでは2006年3月の『梅原猛の授業 仏になろう』(朝日新聞出版、24ページ)です。これは、2005年4月から8月にかけて朝日カルチャーセンター京都で行なわれた講義を加筆修正したものです。2005年当時はまだこの語句を用いていたことがわかります。2006年9月の『神殺しの日本』(朝日新聞出版)では、複数の箇所で「草木国土悉皆成仏」と記しています(92ページ、100ページ)。この本は朝日新聞朝刊(2004年4月20日〜2006年3月21日)に月一回連載したものをまとめたもので、2006年以降に書かれた部分では、実際に紙面上も「草木国土悉皆成仏」となっています。『新版 森の思想が人類を救う』(2015年)では旧版、文庫版、第2期著作中では「山川草木悉皆成仏」としていた箇所を全て「草木国土悉皆成仏」に書き換えています。ヘッダーの画像がそれです。(近影は前述の梅原と中曽根による『政治と哲学』から。差し替えるかもしれません。)
この『新版』では「本書は、一九九五年四月に小学館より刊行された『森の思想が人類を救う』を再編集、復刊したものです」とあるのみで、改変については触れられていません。第3期著作集が集成されることになれば、その対象範囲は2000年代前半からとなると思われます。まさに用法が変化する時期です。その際に、この語句がどう扱われるか、なんらかの説明があるのか、注目に値します。

 なぜ梅原は「草木国土悉皆成仏」を用いるようになったのでしょう。
 岡田行広が新幹線の車中で直接梅原に問うたの2002年4月25日です。これは梅原が用例を変えるようになる時期からはやや離れています。末木文美士は早くに「安然『勘定草木成仏私記』について」(博士論文1993年、出版1995年)をまとめているものの、忙しさもありこの問題についての取り組みを放置したままになっていたと記しています(『草木国土の思想』あとがき、257ページ)。同書のあとがきでは、氏の2009年の日文研への移籍には梅原が関わっていたことも記しています(プロジェクトにはそれ以前から参加)。末木が参加した総合地球環境学研究所の企画「山川草木の思想 地球環境問題を日本文化から考える」(2008年6月21日)には梅原も参加しており、講演で梅原は「私がかつてよく使った『山川草木悉皆成仏』という言葉はこの草木国土悉皆成仏」という言葉の大衆版だといってよろしい」(『日本の伝統とは何か』ミネルヴァ書房、2010年。5ページ)と述べています。このころに、末木やほかの周囲の人物から指摘を受けていた可能性はありそうです。

 しかし、梅原は基本的に、人からの指摘で自説を曲げることはありません。梅原が展開したいわゆる「梅原古代学」や「梅原日本学」に対しては多くの学術上の批判が寄せられていますが、そのほとんどに応答していません。『水底の歌』(1983年)で展開した柿本人麻呂論に関する益田勝実との論争は例外的なものですが、ここでの「惨敗」に懲りたのか、それ以降は具体的な反論はせず、相手方の主張を誹謗中傷であると決めつけ、自身の説を「ほぼ定説になりかけている」などと一方的に勝利を宣言するのみです(例えば「不動の心」『神と怨霊 思うままに』2008年、19ページ。中日・東京新聞の連載「思うままに」を書籍化したもの)。晩年、『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』(2010年、新潮社)において、自説を撤回し、一転して出雲王朝を認める立場を取りますが、これは、自説の前提であった「遺跡の不在」が、荒神谷遺跡などの発掘調査の結果によって覆されたからです。人から指摘を受け、誤りを認めて撤回したものではありません。梅原には非常に意固地な側面があり、聖徳太子・法隆寺論で批判を受けた歴史学者坂本太郎に対しては、坂本が亡くなってからこのように述べています。

 今は昔、十年ほど前のことである。私の著書『聖徳太子』を日本史学者の大御所、坂本太郎先生にお送りしたところ、先生から丁重なお手紙をいただいた。それ以前に坂本先生は、私の著書『隠された十字架』が出たとき、そこでの私の説を厳しく批判された。当然、反論を書く義務があったが、私は反論しなかった。というのは、先生は八高の先輩で、私の父の同級生であり、父の老衰ぶりを見ると、父と同年の先生のお心を煩わすのは忍びないと思ったからである。私はもって生まれた烈しい論争家である。かつて鈴木大拙、丸山真男、三島由紀夫などにたいして顔面を蒼白たらしめるような批判の矢を放った。当然、坂本先生にたいしてもそうならざるをえないが、それは学界の主流を歩んでこられた先生にとって生まれて初めて体験する厳しい反論になろう。そう思って反論しなかった。
「名古屋人気質」『梅原猛著作集 第14巻 思うままに』小学館、2001年。47ページ

 そこまで言うなら反論すればいいのに。三島由紀夫に対する批判というのが1966年の「三島由紀夫への公開状 日本の思想の独自性とは何か」(『週刊読書人』1966年12月5日号、『梅原猛著作集 第19巻 美と倫理の矛盾』1983年、集英社に収録)のことであるならば、これは、すでに絶対的な地位を確立している同い年(1925年生まれ)の小説家に対し、まだ著作を持たない一介の学者が一方的に絡んでいったものです。知る限り三島側がこれを意に介した様子はありません。「顔面を蒼白」は脚色がすぎるように思われます。
 話を戻します。こうしたことから、梅原が外部から指摘を受けて自説を曲げることは考えにくいのです。ではなぜ表現を変えたのでしょう。ちょうどこの頃、梅原はある素材を得て、新たな研究領域に踏み出しています。私は、このことが「山川草木悉皆成仏」を捨て、「草木国土悉皆成仏」を用いるようになった理由と考えます。

ミッシングリンク

 梅原の著作を順に追っていくと、「草木国土悉皆成仏」を用いるようになる時期から新たな分野に手を伸ばしていることが見て取れます。それは「能」です。
 梅原は2006年9月16日に京都新聞での連載「天眼」上で「私は今まで室町文化の研究をほとんどしてこなかったが、最近にわかに室町文化の研究を始めたのである」(『京都鬼だより』淡交社、2010年。73ページ)と書いています。また、能をテーマとした初めての著作『うつぼ舟1 翁と河勝』の中で、2006年5月16日に兵庫県赤穂市の大避神社を訪れたとも記しています。これは中沢新一のかねてからの勧めだったそうです。
 中沢は『精霊の王』(講談社、2003年)で、考古学や民俗学の知見などを駆使しつつ、今春禅竹の『明宿集』や柳田国男の『石神問答』を読み解き、日本文化の源流についての考察を行っています。ここで登場するのが大避神社です。この神社には秦河勝が祀られています。秦河勝は聖徳太子の前で芸能を披露し、それが子孫に伝えられ猿楽(申楽)となったと伝えられる人物です。朝廷の保護を失った猿楽はのちに市中で発展を遂げ、室町時代に観阿弥や世阿弥、今春禅竹らによって能楽として昇華します。その謡曲中に頻繁に登場するのが「草木国土悉皆成仏」です。
 大避神社と秦河勝の伝説は、柿本人麻呂の消息に関する梅原の説ともよく重なります。秦河勝が仕えた聖徳太子は梅原が心血を注いで研究した対象です。聖徳太子、柿本人麻呂、いずれも梅原の展開するいわゆる梅原古代学の対象であり、鎮魂という観点で古代史を理解する氏の「怨霊史観」の対象です。中沢によってここに秦河勝が加えられます。その秦河勝は能の始祖です。能の謡曲中には「草木国土悉皆成仏」が頻繁に登場します。中沢が梅原に伝えたかったことはこれです。
 梅原は、中沢から秦河勝というパズルのピースを得ることで、自身の縄文アニミズム論と梅原古代学(聖徳太子論、藤原不比等論、柿本人麻呂論、怨霊史観)を室町時代の能にまで繋げることができるようになったわけです。茶の湯をはじめとする室町文化は、目に見える形で現代まで受け継がれています。その室町文化を「草木国土悉皆成仏」で説明できるならば、茶の湯などと同様に、現代にまで受け継がれていると容易に主張できます。「草木国土悉皆成仏こそ日本人の思想である」という梅原の説がより強力なものとなるわけです。

実際に梅原はこう説明しています。

日本の中世、特に室町時代は文化的に見ても豊饒な時代である。それは、古代日本の文化を継承しながらそれを近世及び現代に伝える新しい文化を創造した時代である。
梅原猛『親鸞と世阿弥 思うままに』文藝春秋、2011年。18ページ。

 聖徳太子によって始められた日本仏教を民衆の底辺にまで及ぼしたのが行基であるように、紫式部によって大成された日本の優美な文学を庶民のものとし、抑圧された人間の喜び悲しみをみごとに表現したのが世阿弥などの能作者であった。『源氏物語』が日本の生んだすばらしい文学として世界に顕彰されるべきであるとすれば、貴族文学の教養、品格を採り入れつつもみごとな庶民の芸術を作った世阿弥などの能もまた世界に誇るべき芸術として顕彰されねばならないと私は思う。
梅原猛『親鸞と世阿弥 思うままに』文藝春秋、2011年。20ページ

 能楽の随所から縄文的な要素を抽出して論じられているのがこの論考の特徴です。五穀豊穣を寿ぐ「三番叟」の舞を、縄文狩猟民と弥生農耕民の物語として捉える独自の解釈は、梅原日本学の対象とする範囲が、先史時代から古代というそれまでの大きく超えて、中世までを飲み込んだことを示しています。

 禅や無常観を基層に置くような通俗的な理解を退けて、アニミズムや原始神道、密教のうち特に天台本覚論を強調してきた梅原が、説明としては王道の室町文化へ帰着したこと対し、私はやや戸惑いを覚えます。情熱の迸る『美と宗教の発見』から40年を経て、たどり着いたのが結局はそこなのかという、若干の失望です。もちろんこれには様々な評価があるでしょう。新たな解釈として高く評価することもできると思います。もののあはれでもなく、ますらおぶり・たおやめぶりでもなく、武士道でもなく、わびさびでもなく、無常観でもなく、禅でもなく、幽玄でもなく、いきでもなく、まことでもなく、「草木国土悉皆成仏」の思想を日本文化の象徴とする説にはそれなりの説得力もあります。これらの解釈の妥当性についてもどこか別の場所で整理しましょう。

 まとめましょう。「山川草木悉皆成仏」を捨てた理由は結論は簡単です。謡曲中の「草木国土悉皆成仏」という表現に統一することで表記ブレを避けるためです。秦河勝というミッシングリンクを中沢から得た梅原は、縄文から古代までに留まっていた自身の「森の思想」を、河勝の猿楽を介して室町時代の能に接続させることができるようになります。多くのものが現代まで残る室町文化を「草木国土悉皆成仏」で説明できれば、「森の思想」の有効範囲は格段に広がります。代名詞の「山川草木悉皆成仏」を捨てても余り有る見返りです。それだけでは終わりません。これは、梅原が生涯をかけて樹立しようとしていた哲学に必要なものだったのです。最後に、梅原が成そうとしていたことを論考し、本稿を終わろうと思います。

「森」と「太陽」

 梅原はこのころもうひとつ新しい思想を取り入れようとしています。「天台本覚論だけでは何かが足りないと感じていた」梅原は、エジプト旅行をきっかけに太陽神に着目するようになり、太陽神を農業民の共通神として位置づけ、これを遊牧の神である(と梅原が言う)ユダヤの神と対置させて考えるようになります。そして、日本においては、この太陽神は最高の神(であると梅原が言う)アマテラスであり、同時に、密教の中心仏である(と梅原が言う)大日如来であり、「草木国土悉皆成仏」の思想はこれらに対する太陽崇拝によって支えられているのだというのです。そしてこう続けます。

 しかし、森の思想を見直せというだけでは実践運動として物足りない。それはせいぜい「森を守れ」「森を増やせ」という運動のスローガンになるのみである。森の思想に太陽の思想が加わることによって、哲学に今までなかった科学技術の問題が出現してくるのである。産業革命以来、人類は、科学技術文明を主として石炭や石油などの化石燃料によって発展させてきた。この化石燃料の大量消費により大気中に排出される二酸化炭素が地球環境問題になっている。この問題を解決しない限り人類の未来は暗い。
梅原猛「天台本覚論と環境問題」『親鸞と世阿弥 思うままに』文藝春秋、2011年。157ページ。

 こう述べて、太陽光発電の技術の発展や、京都議定書の履行を求める内容でこの論考を終えています。
 これの論考はふたつの点で注目に値します。ひとつは世界的な枠組みとの対応です。「森の思想」が、生物多様性条約への対応であるとすれば、「太陽の思想」は気候変動枠組条約への対応です。意識してかどうかはわかりませんが、結果的には地球サミット以降の国際的・国内的な地球環境政策への対応を包含するような環境思想となっています。梅原の環境史観には明白な誤りもあり、またこの論考についても積極的な支持はしませんが、着想には敬意を表したいと思います。
 もうひとつは、これが東日本大震災大震災前の論考であるいう点です。原発事故とその後の再生可能エネルギー政策を予期するかのような内容で驚かされます。
 メガソーラーによる森林破壊が社会問題化する現在、このふたつの両立は非常に難しいのが現実です。大規模に設置しようとすれば、利用価値のなくなった山林が対象となりやすく、おのずと衝突が生じます。この問題は、「日本列島改造論」の時代の林地開発、バブル期のゴルフ場の乱開発の問題の延長線上にあります。資産価値のなくなった「森」が投機の対象となっている点で同根の問題なのです。梅原の「森の思想」と「太陽の思想」が、生物多様性の保全と再生可能エネルギー普及の両立という困難な課題の解決を目指すものであるならば、これは、梅原がわたしたちに残した宿題ということになるでしょう。

梅原猛の「人類哲学」

 「森の思想」は日本人の精神性を説明する思想です。これをさらに拡大させ、全人類の生きる指針にまで広げたものが梅原の「人類哲学」です。残念ながらこれは未完に終わっています。
 2013年の岩波新書『人類哲学序説』は京都造形芸術大学東京芸術学舎において行った講義録をもとにしたものです。そのあとがきにこう記されています。

 しかし、その日本文化の本質を明らかにするために、私には約五〇年もの時が必要であった。そこで見出した日本文化の原理が「草木国土悉皆成仏」という思想であるが、それを西洋哲学の原理とどう対決させるかが問題であった。
(中略)
 二つめは本書のタイトルにもある「序説」についてである。本書で語った日本文化についての理論は、私の五〇年間の研究成果であり、まず間違いない。しかし西洋文明についての研究は、若き日以来中断していた。本書を書くにあたり研究を再開したが、まだ不十分であることを免れない。今後、本格的に西洋文明、特に西洋哲学を研究し、より正確でより体系的に論じた著書を書かなければならない。その書が「人間哲学」の本論になるはずであり、本書はその序説というわけである。
梅原猛『人類哲学序説』岩波新書、2013年。210ページ。

 梅原はこのとき88歳。新聞連載などでもたびたび語っていたように残された時間は少なく、はたして2019年、梅原は亡くなります。
 梅原の西洋哲学理解は、自身でも述べているように空白があります。1950〜60年代の論考を読むに、同時代性を感じられるのはサルトルの実存主義に対する言及までで、それも表面的なものに限られます。構造主義以降の話題はほとんど出てきません。1987年の国際日本文化研究センターの最初の公開講演会にクロード・レヴィ=ストロースを招いているものの、これに対しても深い洞察は見られません。自身と同様に、神話の価値に重きを置く哲学者・人類学者といった程度の理解です。残りの時間で現代に至るまでの西洋哲学を吸収するのはおそらくは不可能だったでしょう。

 余談ですが、レヴィ=ストロースを評価するのであれば、「森の思想」をヨーロッパにも認めなくてはなりません。レヴィ=ストロースは日本の神話だけを評価したわけではなく、世界各地の神話を研究の対象にしています。ヨーロッパにおいてはグリム兄弟による『ドイツ神話学』がそのさきがけです。『ドイツ神話学』に従い、ヨーロッパ文化の基層に「多神教的」なケルト神話を認めるならば、その構造は「森の思想」と同種のものであるはずです。梅原が「森の思想」のヨーロッパ文化に対する優位性を説くとき、レバノン杉の消滅やギルガメッシュによる森の神フンババの殺害は語られますが、『エッダ』や『サガ』、『ベオウルフ』、グリム童話(と『ドイツ神話学』)は無視されます。和辻哲郎の風土論うを踏襲してヨーロッパの「風土」を「牧場」と規定しますが、ゲルマン人の森の文化は扱われません。後述する太陽信仰についても、ローマ=ケルト期の太陽信仰は無視されます。こうしたヨーロッパの多神教的な側面は、むしろ若い世代の人たちの方が理解に優れているのではないでしょうか。ゲームをする人にはおなじみのモチーフです。
 レヴィ=ストロースの『人種と歴史』(1952年)は、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「人種に関する専門家会議」での活動から生まれた小冊子で、自民族中心主義を強く戒める内容のものです。梅原がたびたび言及するアーノルド・トインビーの文明論も、日本文明の優位性を説くものではなく、ヨーロッパ文明に対して、日本「も」多くの文明のひとつとして高く評価するというものです。梅原に時間があったとして、自身の主張とは相容れないこうした研究に、梅原は正面から向き合うことができたでしょうか。梅原はこれらを受容し、文化的多様性を認める立場をとることができたでしょうか。

 『芸術新潮2019年4月号』の「特集緊急追悼梅原猛 人類への遺言」の中で、書きかけの「人類哲学」の一部が遺稿として公開されています。講演録ではなく書き下ろしの論考です。これを読むと、西洋哲学のほかにも新たな知見を取り込もうとしていた様子が垣間見えます。それは生物学です。遺稿のタイトルと章題、『人類の闇と光(仮題)』、章題は「第Ⅰ部 新しい人類の定義、それは「戦する動物」」「第一章 同類の大量殺害を行う動物種」」からもそれが読み取れるのではないでしょうか。梅原は、杉山幸丸や山極寿一の研究に依拠しながら、ハヌマンラングール、チンパンジーとボノボ、ゴリラの生態を取り上げ、そこから人類の特徴を見出そうとしています。霊長類に関する内容は、新聞連載「思うままに」等でときたま触れることがありましたが、本格的に取り上げるのは晩年になってからです。「思うままに」で言及することが多かった河合雅雄ではなく山極寿一を取り上げている点からは、知識の更新をはかろうとしていた様子が伺えます。
 これは手放しで評価できる内容ではありません。理由はふたつあります。ひとつめは、霊長類学や人類学につきまとう特有の難しさです。「狩猟仮説」をめぐる議論に代表されるように、この分野の知見はバイアスを持って論じられやすく、いともたやすく偏見や差別と結びつきます。晩年の梅原には、これを理解する時間はなかったと思われます。

 ふたつめは、梅原の自然に対する見識の不足です。これは自身でも認めています。

 「鹿を追う猟師山を見ず」という諺があるが、八十五年の生涯においてひたすら「真理」という奇妙な鹿を追い続けてきた私は自然を眺める余裕をもたなかった。それで妻は、「草木国土悉皆成仏」を主張する私の思想は観念的で生活に即していないと批評する。しかし、家にいる時間が長くなった最近の私に自然と親しむ心が生まれてきたのは間違いない。
京都新聞「天眼」2010年5月22日
梅原猛「鹿を追う猟師山を見ず」『京都鬼だより』淡交社、2010年。8ページ。

 これは驚異的な告白です。世間に広く膾炙した環境思想の発信者が、自然保護を訴えてきた哲学者が、実際の自然を全く見てこなかったと言っているのです。梅原の自然観の問題点は多々指摘されているところであり、その一部は拙稿「里山ナショナリズムの源流を追う」でも扱っています。なぜあのような誤りを犯すのか、これで納得がいきます。そもそも生の自然に興味がなかった。自然を全く知らない人の自然観が国を代表する自然観になった。驚愕の事実です。
上の連載記事の後段には次のような一文があります。

 花を鑑賞する能力のない私がもっぱら興味をもつのは鳥である。さまざまな鳥が池のあるわが家に訪れる。鶯、カワセミ、セキレイ、ヒヨドリ、それに烏、鷺、鴨などであるが、烏と鷺は池の中の魚を獲ったりするので、私が愛好する鳥ではない。私が好きなのは鴨である。
梅原猛「鹿を追う猟師山を見ず」『京都鬼だより』淡交社、2010年。9ページ。

 標準和名や漢字名、カタカナでの総称などが入り混じった種名の表記はいかにも素人じみています。図鑑を見て種名を確かめたり表記を統一したりするなどといった努力は見られません。梅原の自然に対する認識を象徴する一文といえます。もっと言えば、庭の鯉とともにその餌を食べる鴨を愛するその姿は、梅原が散々批判した田中角栄と変わりません。角栄は地元山古志や小千谷から産する錦鯉を愛し、また政略の道具としたことで知られます。目白御殿と称された自宅で鯉に餌を与える写真が多く残されています。自然の愛で方という点では「森の思想」も「日本列島改造論」も変わらなかったというわけです。
 晩年になり自然に目を向けるようになったこと自体は、生き物を愛する者としては非常に嬉しい変化です。連載「思うままに」では庭に様々な動物が現れることを楽しげに書き綴っています。「プラナリア顛末記」は秀逸です。孫の自由研究のために、近郊の山中にプラナリアを探しに行くおじいちゃんの物語です。しかし、それは遅すぎました。梅原が残された時間で自然に対する解像度を高めることは、不可能に近かったでしょう。

 西洋哲学と生物学には梅原の哲学を発展させる可能性が秘められていたものの、八十代の梅原がそれを得るのは難しく、氏の「人類哲学」は未完が運命づけられていたといえます。加えて、梅原の西洋観や宗教観、自然観、学問的姿勢には多くの問題点が指摘されています。しかしながら、日本文化探求への飽くなき情熱、環境問題への危機意識、80歳以降も、能や太陽信仰、西洋哲学や生物学を採り入れて、自身の思想は深化させようとした探究心は、尊敬されて然るべきものです。
 この論考でのわたしの梅原猛への評価は、全くと言っていいほど一貫していません。貶しているのか褒めているのかわからないとお叱りを受けても仕方がない内容です。梅原猛は、相反する側面が同時に存在する人物であり、そこに魅力があります。この「憎めなさ」をわたしはまだ自身の中で咀嚼しきれてはいません。それが現れたのがこの論考です。
 梅原が抱いた環境問題への危惧は、わたしも同様に感じているものです。その解決を目指す「人類哲学」の完成は、われわれの世代に委ねられたのだ、と述べて、本稿を終わりたいと思います。

2024年3月31日追記
国立国会図書館デジタルコレクションで「泰東巧藝史」を検索したところ、雑誌「研精美術」がヒットしました。この「研精美術」の1913年2月号(70号)から3月号、4月号、4月臨時号にかけて、岡倉覚三の講述として「泰東巧藝史」が掲載されています。この3月号71号の第二回連載で、のちの文献と同じ文章構成で「山川草木悉皆成仏」が用いられています(14ページ)。岡倉天心の講義を記者が「其筆記を更に復寫」したそうで、精度に難があることを記者が冒頭で認めているものの、この語句がたしかにそこにあります。天心が講義で「山川草木悉皆成仏」と書いたとは依然として断定はできないものの、もともと「草木国土悉皆成仏」だったものが、著作集などに収められる過程で編者や校正者によって「山川草木悉皆成仏」に変えられた可能性は否定できそうです。

参考文献

岡田真美子「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」(『木村清孝博士還暦記念論集 東アジア仏教―その成立と展開』春秋社、2002 年 11 月所収)
http://www.indranet.jp/products/2002.11.16shituubussyouron.pdf

「山川草木悉皆成仏」の由来(1) - 宮澤賢治の詩の世界 ( mental sketches hyperlinked )
https://ihatov.cc/blog/archives/2020/03/post_959.htm
「山川草木悉皆成仏」の由来(2) - 宮澤賢治の詩の世界 ( mental sketches hyperlinked )
https://ihatov.cc/blog/archives/2020/05/2_58.htm

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天沢退二郎、金子務、鈴木貞美『宮澤賢治イーハトヴ学事典』弘文堂、2010年

岡倉天心『岡倉天心全集 第4巻』平凡社、1980年

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岡倉天心『近代日本思想体系 7 岡倉天心集』筑摩書房、1976年

和辻哲郎『近代日本思想体系 25 和辻哲郎集』筑摩書房、1974年

武田泰淳『武田泰淳全集 第7巻』筑摩書房、1978年

知里真志保『和人は舟を食う』北海道出版企画センター、2000年

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埴原和郎「二重構造モデル: 日本人集団の形成に関わる一仮説」

‎篠田謙一『新版 日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』NHK出版、2019年

斎藤成也『核DNA解析でたどる日本人の源流』河出書房新社、2017年

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梅原猛『梅原猛著作集 第4巻 地獄の思想』集英社、1982年

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https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/9/2/9_2_672/_article/-char/ja/

大森荘蔵・滝浦静雄・中村雄二郎・藤沢令夫編『新・岩波講座 哲学12 文化のダイナミックス』1986年

新編靖国神社問題資料集【770】閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会第7回(昭和 60年2月 12日)資料1 閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会(第6回) 議事概要)
https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F999337&contentNo=34

靖国懇談会 議事録が存在|芦部信喜 平和への憲法学|信濃毎日新聞
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022060800434

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教育政策研究会『臨教審総覧 上巻』第一法規出版、1987年

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第104回国会 衆議院 本会議 第2号 昭和61年1月27日
https://kokkai.ndl.go.jp/txt/110415254X00219860127/0

<鼎談>「日文研問題」をめぐって 国際日本文化研究センター学術リポジトリ
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6602&item_no=1&page_id=41&block_id=63

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失言王認定委員会『大失言 戦後の失言・暴言・放言〈厳選77〉』 情報センター出版局、2000年

閣僚の単一民族発言についての見解と「国際先住民年」を迎えるにふさわしいアイヌの人々の生活と権利保障を求める質問主意書:質問本文:参議院
https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/122/syuh/s122008.htm

山折哲雄『鎮守の森は泣いている 日本人の心を「突き動かす」もの』PHP研究所、2001年

上田正昭『鎮守の森は甦る 社叢学事始』平凡社、2001年

梅原猛『梅原猛の授業 仏になろう』朝日新聞出版、2006年

梅原猛『神殺しの日本』朝日新聞出版、2006年

梅原猛『新版 森の思想が人類を救う』PHP研究所、2015年

末木 文美士『草木成仏の思想 安然と日本人の自然観 』サンガ、2017年

梅原猛『日本の伝統とは何か』ミネルヴァ書房、2010年

梅原猛『梅原猛著作集 第11巻 水底の歌』集英社、1982年

梅原猛『梅原猛著作集 第13巻 万葉を考える』集英社、1982年

梅原猛『神と怨霊 思うままに』文藝春秋、2008年

梅原猛『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』新潮社、2010年

梅原猛『梅原猛著作集 第14巻 思うままに』小学館、2001年

梅原猛『梅原猛著作集 第19巻 美と倫理の矛盾』1983年、集英社

梅原猛『京都鬼だより』淡交社、2010年

中沢新一『精霊の王』講談社、2003年

梅原猛『親鸞と世阿弥 思うままに』文藝春秋、2011年

梅原猛『うつぼ舟I 翁と河勝』角川学芸出版、2008年

梅原猛『うつぼ舟II 観阿弥と正成』角川学芸出版、2009年

梅原猛『うつぼ舟III 世阿弥の神秘』角川学芸出版、2010年

梅原猛『うつぼ舟IV 世阿弥の恋』角川学芸出版、2012年

梅原猛・観世清和『能を読む1 翁と観阿弥 能の誕生』角川学芸出版、2013年

梅原猛・観世清和『能を読む2 世阿弥 神と修羅と恋』角川学芸出版、2013年

梅原猛・観世清和『能を読む3 元雅と禅竹 夢と死とエロス』角川学芸出版、2013年

梅原猛・観世清和『能を読む4 信光と世阿弥以後 異類とスペクタクル』角川学芸出版、2013年

梅原猛『人類哲学序説』岩波新書、2013年

高橋義人『グリム童話の世界 ヨーロッパ文化の深層へ』岩波書店、2006年

高木昌史『決定版 グリム童話事典』三弥井書店、2017年

M・J・グリーン『ケルトの神話』丸善、1997年

クロード・レヴィ=ストロース『新装版 人種と歴史』みすず書房、2008年

『芸術新潮2019年4月号 「特集緊急追悼梅原猛 人類への遺言」』新潮社、2019年

梅原猛『ユリイカ 2019年4月臨時増刊号 総特集 梅原猛』青土社、2019年


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