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着ぐるみの事情           ④円になってパンチ

マットを使った練習がひと段落すると、次はかっこいい立ち回りで使うパンチやキックの練習だ。私がパンチと思っていたものは「なぐり」と呼ばれていた。そしてキックと思っていたものは「けり」と呼ばれていた。

殴りには右殴りと左殴りがある。右手をグーにして前に出して敵をやっける。いや、やっけない。やっける演技をする。本物の泥棒を倒せるかどうかではなく、いかにすばやく無駄な動きなく殴った感を出せるかが大事だ。しかも右手で殴る前に「かまえ」がいる。このかまえが難しい。あごの前辺りで両腕をペケみたいにして相手を牽制する。殴った後もかまえのポーズに戻す。何をするにしても「かまえ」で始まり「かまえ」で終わるのだ。それがヒーローなのだ。

みんなでマットを端に寄せ、円になる。                リーダー的な先輩が「右殴り!」「かまえ!」と言う。みんながかまえのポーズをとる。

「イチ!」

「ヤ!」

掛け声をかけるとみんなが「ヤ!」と言い、右殴りをする。これは気合いを入れる意味もあるが、ヒーローショーのすばやい立ち回り中、怪我をしないように相手に向かって「今から殴りますよ」と伝える意味がある。だから大きな声で言わなければならない。ましてや、かぶっていたらなおさら聞こえにくくなってしまう。                     「ヤ!」と言われて殴られた相手は、かわしたりくらったりすることができるという訳である。 だから「ヤ!」と言うのは右殴りをしながら…ではいけない。「ヤ!」と言ってから右殴りをするのだ。                               

立ち回りというのは、事前に相手とこうするからこうしてねという決め事をして動く。                             右殴り→蹴りをかわす→左フックをかわして→相手のおなかに右殴り という感じだ。だが決めていても本番中忘れてしまうことがある。そんな時に「ヤ!」と聞こえれば何らかのリアクションはできる。

先輩は「ヤ!」でも「トウ!」でも「ハ!」でも何でもいいから言うんだよと教えてくれた。何でもいいから…と言われてもみんな「ヤ!」と言っているから私も「ヤ!」としか言えないし、言うのはとても恥ずかしい。

「ニ!」

「ヤ!」

「サン!」

「ヤ!」

私が、ふにゃふにゃのかまえをして、小さく「ヤ!」と言って、迫力のない右殴りをおぼつかない動きでやる。すると先輩達から「やった後もかまえ!」とすかさず言われる。そんな調子で右殴りを10回までなんとかこなす。その次はもちろん左殴りだ。




      

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