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二十歳から十年の走馬燈

二十歳になった瞬間になにをしていたのかあまり覚えていないが、たしか初めて一人暮らしをしたボロいアパートのバランス釜の風呂で、体育座りで冷めた湯に浸かっていた記憶がある。
スマホ(当時はiPhone3G)をジップロックに入れて風呂に持ち込んで、あぁ十代もあと3分で終わるなあなんて数えていたら風呂が冷めてしまったのだと思う。ホテル女子会とか彼氏とディナーとかじゃなかったのは確か。

二十歳。吹けば飛ぶような頼りない響きである。

二十歳の私にはコネも金も知恵もなく、ただ上京(厳密には埼玉だが)して日々虚勢をはって大丈夫なふうを装いながら、いつもそわそわあたふたしていたように思う。なにもかも不慣れだった。そのくせ不躾で生意気で不格好であった。あれから十年が経った。

十年のあいだに就職をした。倒れるまで働いた。転職も何回か経験した。ひとりで何度も旅に出た。戦って負けた。勝ちもした。何人もと別れて出会った。道端で泣いた。タクシーで泣いた。酒の失敗もした。人に失礼なことをした。人を失望させた。穴があったら入りたい。また会えるなら謝りたい人もたくさん。それでも楽しいこともたくさんあって、たくさん許され、受け入れられ、いくぶんか必要としてもらってもいた。コネも金も知恵もないまま走り出し、社会の縁石に何度も何度も車体をぶつけ続け、ハンドル握りしめすぎて目の前1メートルしか見えてないみたいな日々。そんな二十代がもうすぐ終わる。


バランス釜のなかでひとり体育座りしていた時から根底は何も変わっていないのに、少しのコネと金と知恵がついた私にはいま夫がいて、気に入った地方都市で暮らしていて、自分にちょうどいい働き方や社会での身の振り方が少しずつわかってきた。見た目も少しは洗練され、余計なことを言わない知恵とか一旦様子を見ることとかを覚えた。

二十歳の私は成人式で「遊び心のある大人になりたい」と言っていた。いまの私を見たら「つまんねー、丸くなりやがって」と言うと思う。お前が馬鹿な過ちばかり犯すから賢くなってしまったのである。

だけど私は知っている。もう十年経てば今の私だって馬鹿な小娘に映るのだ。いまの私が自覚していない愚かさがあって、それをこれから十年かけて気づいて行くのである。楽しみで怖い。

三十代は少し賢くなったつもりでいる私をぶち壊してくれることをしたい。知らないところへ行ってまだまだ恥をかかなければいけない。がむしゃらな季節は終わったが、新しい戦いの気配がする。調子よく、調子に乗らないでいたい。4月が来て、もうじき三十歳になる。また次の十年が始まる。



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