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隣の芝生をのぞくな、上がり込んで茶をしばき合おう

30代に入り、女友達たちとの会話にいよいよ気を遣うようになってきた。

仕事に邁進するか否か、
結婚するか否か、
子供を持つか否か、

それぞれ2×2×2で大ざっぱに8通りある選択肢のなかで、それぞれ道が分岐してくる年代。

誰かの選択は自分が選ばなかった、もしくは選べなかった、はたまた選ぶか否か決めかねている選択なので、自分と違う道を選んだ女の話を聞くのは複雑な気持ちになる。黒い感情が湧くこともしばしば。

私は、「仕事をそれなりに頑張り、結婚をし、子供はどうするかまだ決められないけどナシ寄り7割」というロードを歩んでいるが、そんな自分の話を「仕事をやりたかったのにやれてない」「結婚したいのにできない」という状況の人に話すとマウンティングととられかねないし、
逆に「子どもを産むことが幸せ」と思って疑わない人からは憐れな奴だと思われたりもする。

そして私は私で、子どもを育てている人だけに見えるであろう、幸せの向こう側みたいな感情がまぶしくて打ちのめされたり、独身を謳歌する女にしかないたくましさと軽やかさを、自分にはもうないものとして少し寂しく思ったりして生きている。(もし明日、夫に愛想を尽かされたら再び得られるものではあるが)

8通りのなかでどのルートを選んでも不幸になりうるし、良いことも起こりうるということは分かっているけど、
それでも自分の選んだルートが最善だったと思うために、他のルートを否定してみたりもする。自信がないときはとくに。

そんな調子で、女友達と話すときは、似たようなルートを歩いている人にしか本音を話せないし、違うルートを行く女と話す場合は、必要以上に謙遜するか、天気とご飯の話しかできなくなっていく。

「その女がなにルートなのか」が分かっている場合はまだ良い。問題なのは「本当はどのルートを歩みたいのか」を知らない場合だ。謙遜のつもりがマウンティングになり、なんの気なしの発言が相手を傷つけうる。

さらには、同じルートを選んだ人間同士のはずなのに、結局何も言えなくなるケースもある。
SNSの、「妊活垢」「マタ垢(マタニティアカウント)」「 婚活垢」「子育て垢」などを見たことがあるだろうか。

それらの界隈ごとには「言っていいこと」「言ってはいけないこと」のルールがものすごく細かく敷いてあり、お互いを傷つけないようにという配慮が過剰なまでにされている。

たとえば妊活垢では、妊娠が思うようにできない人を傷つけないために、自分が妊娠したことを「謝罪」めいた文章とともに報告したのち、すぐにマタ垢へ移行するような暗黙の了解があると聞くし、子育て垢では「産後の体型を思うように戻せなくて辛い思いをしている人がいるのだから、子育ての合間の筋トレの様子なんか載せるな」といった内容で炎上したりしている。

こんなふうに、「同じルートを選んだ女同士が集まって、悩みを共有する」ということは、駆け込める場所としての役割を果たしながらも「違うルートを選んだ人間には何も言わない」という状態を作り出し、さらには「同じルートを選んだ人間を傷つけるようなことを言うな」という同調圧力によって、結局どこの誰にもなにも言えなくなるのだ。

そんな調子で、本当は自分も他人も傷つけないために「同じルート組」 ごとに別れていたはずなのに、結局誰も幸せになれないんじゃないか?コレ。みたいな状況をしばしば目にするようになってきた。

「同じルート組」とばかり話すようになると、他のルートを歩んでいる人のことがわからなくなる。
私は子どもがいる人の小さい悩みやつまづきがわからないし、その逆もまた然り。
わからなくなると想像できなくなり、想像できなくなると優しくできなくなる。助け合おうにも、お互いを知らないことには助け合えない。

ある年長の女性が「女友達は20〜30代で選択肢が変わるから一度離れるけれど、子育てや仕事が一段落した中年以後にまた仲良くなれる」と言っていた。

それが現実なのだろうし、希望も持てる話なのだけど、
そもそもなんで女ばっかり分断させられなきゃならないんだろう。男が結婚や子育てで付き合う友達と疎遠になったという話は、女のそれと比べて聞かない。

それは結婚や子育てで「これまでの自分」やそれに伴う交友関係から離れなくてはいけないケースが女の方に多いからだろう。男が受けている「仕事というルートしか選んではならない」という圧力もまた、別の苦しみを生んでいるとは思うけれど。

私たちは違うものを持っている人を恐れすぎている。
他者が持っているものばかりに目を向けて、その後ろの傷とか、汚れとか、あがきの跡とかには気づけない。

隣の芝生は、生け垣の向こう側からのぞき見るから青く見えるのである。いっそのこと、隣の庭におじゃまして、茶でもしばきながらよもやま話をすれば芝生のアラも2〜3は見えるようになるだろう。このへんハゲてるな、とか、意外と雑草生えてるな、とか。

いま私たちに必要なのは、そういう「人んちの芝生で茶を飲む」ような時間だ。

先日、独身を謳歌している女と、子育てに奔走する女と、既婚子どもなしの私、3人で腹を割って話す機会があった。大事にしたのは「それぞれの立場で思うことを語り合うこと」と、「お互い良いことも悪いこともあると理解すること」。

「他のルートの人たちと話すとき、こういうことを言われると正直もやっとする」みたいな本音もこぼれた。
お互いに、「それ、言っちゃったことあるな…」という苦い反省もあったけれど、少し垣根を踏み越えて、靴を脱いで、芝生の上で足を投げ出したみたいな爽快感があった。チクチク痛む人んちの芝生の感覚は、自分というものの輪郭を際立たせるものでもあった。


「人の敷地に土足で踏み込むようなことはするな」という言葉がある。それは本当にそうだ。しかし人生が分岐しすぎる年頃の女たちは、放っておくと自分の敷地にこもって孤独を育ててしまう。

たまには少しだけ境を越えて、隣の芝生同士を行き来して、裸足で車座になって茶をしばき合うようなコミュニケーションをしたい。もちろんお互いへのリスペクトは忘れずに。土足で踏み込むのではなく、ちゃんとノックして。

アカウント分けができない生身の人間としては、そんな関わり方ができる友達が人生のなによりの宝だと思っている。ノックしたり、されたりして、自分の芝生のアラを見せ合える関係性を失くさないでいたい。










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