走馬灯にむかって歳をとる
ひとつ歳をとった。
そのこと自体にはとくに感慨も焦りもなく、いつもどおりの日常が続くのみである。
けれども今年は家族に好きなご飯を作ってもらい、町の美味しいワイナリーのワインを開けてもらい、私と家族が日本一美味しいと思っているケーキ屋さんのケーキを食べて、東京の大好きな花屋さんからブーケを贈ってもらった。いろんなところで出会った人たちがくれたお祝いのメッセージを読んだ。
少し奮発して、お婆ちゃんになってもつけられるピアスを買った。
生きるほどに大切な場所も人もものも増えていくことは嬉しい。
ずっとそんな人やものに囲まれて、好きな場所をあちこち行ったり来たりして生きられたらどんなにいいだろうと思う。
一方で老いることは失っていく過程でもある。
私がいま好きな人やものについて私はいつか忘れ、別れ、行きたい場所に行きたいときに行く体力も失っていくのである。
個人差はあれど皆老いて死ぬ方に進んでいるということを考えるようになった。
間違いなく実家に戻った影響である。
マンションの一室でひとり働く毎日では関わらない、赤ん坊から老人までさまざまな年齢の人間と一緒に暮らしなおすことは、老いについて日々考えざるを得なくする。
人は覚え、成長して変わっていくし、
人は忘れ、衰え、また変わってしまう。
変わっていく過程のなかでも残り続けるもの、
忘れていく過程でも覚えていつづけるものはあるのか。
わからないけれども少なくともいまの私にできることは、いつか忘れるかもしれない人生のきらきらした一片を、覚えていたいと願いながら心に焼きつけて生きるのみである。
たくさんフラッシュを焚いておけば走馬灯は映画みたいに長くなるだろうか?
今際の際にそんなものが見られたら「なにものか」 になれなかったとしても心から良い人生だったと言えるのだろう。
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