お前の好きな色はなんや?

無数の針が肌を優しく、それでいて確かに刺してくるような冷たい空気が身体を包み、その日は目を覚ました。その日は、というよりも、ここのところ毎朝同じような朝だ。1人で過ごすには幾分寒すぎる。瞳を世界に触れさせてやろうと試みるが、瞼は何かで貼り付けられたかのように重い。眉間を必死に上に伸ばしている今の顔は、きっと恐ろしく不細工であろう。この珍妙な顔を見てけらけらと笑う架空の恋人を想像しながら、幸彦は右手の親指と人差し指の腹で目尻から目頭をなぞった。こうすると目やにが取れて気持ちがいい。ひとしきり同じ動作を繰り返し、スマホを探す。いつも寝る時は頭の横に置いているのに、朝になるとなぜかそこにない。片時も手放さぬせいで、俺のことが嫌になり脚を生やして逃げようとしているのかもしれない。薄っぺらい金属の側面から少々毛深い脚がにょきりと生えて、カサカサ動く姿をイメージしては、そのアンバランスないでたちの可笑しさににやけた。少しでも寒さから逃げるように布団の中で上手くもがきながら、手探りかつ足探りする。
コツン
あった、右足の小指が触れた。あまりの移動距離に、先ほどの馬鹿げた仮説が現実味を少し帯びた。右足を浮かせ、5本の指を折り曲げ、指の腹でスマホを体に引き寄せる。毎朝のこの小さな重労働が、寝起きのまだ慣性でベッドに吸い付きたがっている体にとっては大変なのだ。
スマホをようやく手にし、顔の方に傾ける。
朝の明るさに目も慣れてきたころであったが、画面の人工的な光はその慣れをなかったものにした。目をぱちぱちさせ、指で目の下の皮を揉む。通知をスクロールしながら確認していくと、ある一件のメッセージが目に止まった。
「お前の好きな色はなんや?」
その短文の送り主は、加藤だった────



加藤は大学時代の友人である。1回生のころ、どこのサークルにも属せずにいた幸彦に声をかけてきたのが加藤である。加藤は社交的で、その時点で3つのサークルに入っていた。
「おれ、サークル作ろうと思うねんけど入らへん?」
加藤はコテコテの関西弁で、そう話しかけてきた。驚くことに、たまたま講義で隣の席になったのが加藤との最初の出会いであり、これはそのときの加藤の第一声である。
「えっ、サークル…ですか」あまりの唐突さに幸彦は面食らい、間抜けな返事しかできなかった。
「なに、なんも入ってへんの?俺と一緒にサークル作ろうや」加藤はお構いなしに続ける。
「え…まあ…いいですけど…」幸彦は曖昧な返事をした。幸彦はこの時点で加藤に対する不信感が少なからずあった。彼は断ろうと思えば断れた。彼はイエスはなかなか言えないが、ノーははっきりと言える性格だった。しかし、大学に退屈さと窮屈さを感じていた幸彦にとって、この誘いは不信感などどうでも良くなるほど魅力的だったのである。つまり、幸彦にとってノーを言わないということはイエスということだったのである。もちろん、彼自身はそれに気付いていない。
「おお、ノリええやん。ほな、決まりで!」
ノリがいい。そんなことを言われたのは人生で数えるほどである。鮮明に覚えているのは、小学生時代のことだ。当時クラスで流行っていた菌ごっこを、カースト上位の同級生の顔色を窺って、虐められていた子に対してやった時のことだ。あのときのあいつには申し訳なかったが、自己防衛のためである。幼い自らを強大な矛から守るには、強大な盾を持つのではなく矛の向き先を己ではない誰かに向けるしかなかった。
…そういえばあいつの名字も加藤だったな。
「おい、なんか言えや。なんで無言なん?」
少し昔のことを考えてしまった。悪い癖だ。
「あっ、ああ、よろしく」
情けない返事だ。幸彦は自らの発言を自らの耳で聞くのが嫌いである。自分の声が聞こえなくなれば、もっと堂々と生きれるのに。すぐに自己否定してしまうのも、幸彦の悪い癖である。
「ほな、改めてよろしく!」
その講義のメモは、何一つ取れなかった。

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