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自分が死んでも構わないというのは世界中の人が死んでも構わないという事と同じなのか

上手く説明するのが難しいし、かつ自分以外の人も似たように感じているのかは定かではないのだけれど、僕が思うに"鬱"と"悲しみ"は少し違う。

重みに押しつぶされてしまいそうに感じたり、息が出来ないような、とでもいうのか、ゆっくりと溺れていくような気持ちで、刺すような悲しみとでもいうのか、強いネガティブな感情というのとは違うように思った。

逆に、むしろ毎日のように死にたいと思っていた日々の中で"悲しい"出来事というのはあまりなかったように記憶している。

何故なら、死ねば良いから。

いわゆる"無敵の人"という表現があると思うが、この状態と似ている。(個人的にはこの言い方はあまり好きではなくて、敵がないというより全てが敵の人、のような言い方の方が的を得ているようには思うが)

別に自分の人生が今日で終わっても良いと考えている以上、その中でどんな出来事が起こってもそこまで真剣にとらえることはできない。

すぐにでもやめる気でいるゲームをプレイしている最中にゲーム内で強敵が現れたりしてもそれに一喜一憂したりはしないのと同じだ。別にうまくいっても嬉しくないし、逆にうまくいかなくても、どちらにしろクリアしたいと思っておらず、電源を切るタイミングを窺っているだけなのだからゲーム内で躓いても別に悲しいもクソもない。

したがって、人生を終わらせたいという気持ちが非常に強まると人生の中で起きる出来事に対して幸せや悲しみを感じづらくなっていったのだけれど、そんな中でも唯一僕が衝撃的だった出来事、というか自分の中で非常に悲しく思った出来事があった。

出来事というよりも、単なる自分の中での発見なのだけれど。

それは、僕が『世界中の自分以外の人が死んでも特に悲しいと思わない』という事実だった。

今はそんなことはないが、当時は朝起きるたびに今日も目覚めてしまった、憂鬱になり、夜寝る時にこのまま目が覚めなければいいのに、と願いなら眠るみたいな生活をしていて、地下鉄で電車を待つのが少し怖い、というような状況だった。

死ななかったのは単に物理的な障害に阻まれていただけで、24時間死にたいと思っていた。

したがって、上述の通り、既に辞めたいゲームの中での出来事と同じなのだから、世界でどんな不幸が起こっても特に気にならなかったはずだ。

実際に東日本大震災が起こった際に、多くの人が悲しみに暮れ、当時イギリスに居た僕は友人たちから心配の言葉を掛けられたりもしたが、正直この人たちは死ぬことが出来たんだな、『羨ましい』としか感じられず、それがあまりに世間の一般的な反応とかけ離れているので非常に強烈な罪悪感にさいなまれた。

つまり、自分と世界の関係に限って言えば、『自分が死んでもいい』というのは『世界中の人が死んでもいい』というのとほとんど同じなのだ。

世界が自分から去るか、自分が世界から去るかの違いだけで、隔絶という意味で違いはない。

世界で誰がしんだって、友人が死んだって家族が死んだって別に構わない、だって自分も死ぬのだから。

その間実際に誰か身近な人がなくなったり、ということはなかったので実際にそのような事態になっていたらまた感じ方は違ったのか、今となっては知る由もないが、想像上の『自分は死にたいと思っている、というのは自分は世界中の人が死んでも構わないと思っている、と同じことなのではないか』という考えは非常にショッキングだった。

実際に死にたい、のようなことを口にすると数は多くないながらも家族や友人など、生きてほしい、のように引き留めてくれる人だって周りには何人か存在したのに、当時の僕はその鎖を邪魔なものだと感じていた。

自ら死ぬのを止めてほしいと叫ぶような行動をとりながら、同時にお前たちのせいで死ねないではないか、と憎むような非常に矛盾に満ちた考え方をしていた。

あの時の真意が結局どこにあったのかは今思い返してもわからない。結果的には、その時の絆のおかげで僕は世界に引き留められたわけだが、それが僕の人生にとってポジティブなことなのかどうかは未だに判然としない。

いや、別に思い返してそれが嫌なわけでもないのだけど。

ただ、今冷静になって考えると、微妙に心境の変化が生まれていて、現在は恐らく世界がなくなったら悲しいだろうな、とは思う。

未だに自分自身は強く生きていたいとは思えないが、ようやく世界はそれなりに輝きに満ちている、という事実が見えてきていて、別にその輝きを自分が手にしたいとは思わないが、ただそれを望む人はそれを手に入れてほしいし、それが失われても構わないとは思わなくなってきている。

自分の人生に価値が見出せないからといって、他の人の人生に価値が見出せないわけではないようだ。

生きたいと思う人には生きていてほしいと思うし、なんなら死にたい人を見ると本当に心の底から死にたい人なんているんだろうか?と思ってしまったりもして、その人たちにも生きてい欲しいと思う。

それなのに、この見方を何故か自分には適用できないのが不思議というか面白い所だ。

恐らく自分と全く同じようなプロフィールの人間が知り合いに居たら、その人のことを好きになるか嫌いになるかは別として(多分嫌いになる)、彼は死んでも構わない人間だ、とは思わないはずだ。

それなのになぜそれが自分自身のこととなると急に死んでも構わない、となってしまうのか、もう少しよく考えてみる必要がある気がする。





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