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【人生最期の食事を求めて】法善寺横丁に佇む和の情趣。

2023年3月13日(月)
「上かん屋久佐久法善寺店」(大阪市中央区)

大阪の夜をたこ焼きのみで満たしてはならない。
そんな指令が自らに働いているようであった。

ミナミの喧騒と混沌から脱するように、法善寺横丁へと足を伸ばした。
およそ400年の歴史を有するこの横丁は、戦後の無頼派作家であった織田作之助の「夫婦善哉」の舞台としても名高い。
大阪には幾度か来てはいるものの、法善寺横丁は初の試みである。

相変わらず異邦の人々が擦過するものの、その街並みは細長くつづく石畳に反映する均等に並ぶ外灯が、どことなく穏やかな雰囲気を演出していた。
いわば、動の道頓堀、静の法善寺といったことだろうか。

ともあれ目指す店が決められないままでは、この大阪らしからぬ冷厳とした夜風に身を任せるわけにはいかない。
赤と橙の入り混じったような鮮烈な朱色の暖簾におでんという白抜きの文字を見出したのは、寒気をもたらすこの微風のせいに違いなかった。
その横の壁にはどて焼という貼り紙までが寒さを誇張していた。
ほかのどの店も混雑しているような空気に翻弄され、この店内の内部を窺い知るためにも、そっと扉を開けて店内を覗き見た。

店頭だけでは店内の落ち着いた風情を計り知ることはできない。

割烹着を着たしなやかな女性スタッフが柔和な声音でカウンター席に導いた。
それなりに混んではいたが、騒々しい客はおらずどこか落ち着き払っていた。
BGMもない店は心から落ち着くものだ。
しかも割烹着姿の女性スタッフの存在は、ある種大阪らしくない気品と趣を放ち、落ち着いた店内に仄かな艶を施していた。
2月、3月と続けざまに生じた痛風発作の痛切な余韻が左膝に残っているものの、
薬というお守りを過信するようにビールと口走りながら、割烹着姿の女性に一瞥を投げかけた。
その割烹着姿の女性は、果たしてこの店の女将なのだろうか?
注文を忘れて思いに耽っていると注文を促された。
ここは大阪だ。そしておでんもあるし、どて焼もある。
まずはこの店の真骨頂と思われるゆず味噌大根と玉子、そしておからを頼んだ。

しっかりと煮込まれた玉子とともに、ゆず味噌大根が登場した。
寸胴のような大根の頭上にゆず味噌が雲のように揺蕩っている。
割り箸で切り裂く。
すると湯気の噴出が一瞬にして目の前を遮るのだが、一種独特の華麗な風味が立ち込めて、たちまち大根の魅惑に取り憑かれるのだった。

おでんの定番である玉子と歯応えのあるおから。

おからがその脇役としては適任かもしれない。
小刻みに散りばめられたネギやキクラゲが食感を弾ませ、静かに躍動している。

ひろんすという聞き慣れないメニューが矢継ぎ早にカウンターに降りてくる。
それは、餡掛けのがんもどきといったところだろうか。
わさびが餡とがんもどきの媒介となって引き締まった役割を添えている。

新鮮な響きと味わいのあるひろんす。

引上ゆばも同様で、粘膜のように平坦な湯葉が折り重なり、たんぱくな中にわさびの存在が大豆の香りを引き立たせていた。

隣の席から安穏とした関西弁が聞こえてきた。
その抑揚は虚ろだからこそ柔和で、関西弁を愛した谷崎潤一郎の小説のセリフでも語っているように思われた。

風味豊かな引上ゆば。

気がつけば日本酒を差してしまっている自分に気づくと、いよいよどて焼だった。
大阪名物のどて焼きといえば、茶褐色に覆われた牛すじと思いきや、この店のそれはまろやかな黄色で、沸騰止まぬ熱さが見るからに迸っている。
味も至って上品な仕上げで優しさと深みが共存していた。

上品な仕上げのどて焼はオリジナティが高い。

ほんのりと汗を帯びた体はハイボールを誘う。
最後に現れた鯖棒ずしもまたきめ細かい仕上がりを、まさしく締めの役割を果たすにふさわしい。
鯖棒ずしと言えば京都を想起するが、劣らずこの店の大団円としての鯖は、押しの効いたシャリと調和した逸品であった。

鯖棒ずしで大阪の夜を締める。

会計を告げ、レジ前に向かった。
割烹着姿の女性スタッフにレジの前に立っていた。
一瞬目を合わせて会計を済ませた。
次はいつ大阪に来るのだろう?
安穏とした関西弁に未練を感じながら、真冬のような夜風が吹き続ける街を背にするしかなかった…

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