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【人生最期の食事を求めて】仙台牛タンという選択の迷走。(仙台牛タンを求めて編2)

2022年11月15日(火)
「牛たん焼専門店 司 東口ダイワロイネットホテル店」

昨夜のたんや善治郎において「上撰極厚真中(しんちゅう)たん焼き」単品三枚をおかわりした影響は微塵もなかった。
それどころか、この日の午前中に仕事を終えても牛タンへの想いはまだまだ尽きることはなかった。

早朝からの仕事が思いのほか早めに終わった。
移動時間を考慮しても牛タンを堪能する時間はある。
仙台の牛タンはもう最後もしれない、という昨夜の諦念をたやすく打ち消すように足早に仙台駅前に向かった。

仙台駅と言えば行き交う人々が四方八方無秩序に蠢き、空隙を縫うように蛇行しながら歩かなければならないほど混雑するのだが、近年のコロナ禍の影響によってどことなく閑散とその空隙にも余裕があった。

初冬の空が広がるJR仙台駅

歩くほどにまざまざと蘇って来る仙台転勤時の記憶。
人生の低迷期をあれやこれやと試行錯誤し、希望と期待、困難と不安との交錯とせめぎ合いの日々を繰り返し過ごしては、自らを奮い立たせるために牛タンを追い求めたあの頃。

良かれ悪しかれ、組織というものはシステマティックに事象を判別し、無表情のままにその事象が動いていくことに、半ば諦めながらも半ば反感や反発を抱きながらも、情け容赦のない無力感に苛まれ、その度毎に私は牛タンを欲した。
それは私が私を奮い立たせるためではなく、自己憐憫からでもなく、ただ美味こそが数少ない救済のように思えてならならなかったのかもしれない。
私は会社という組織に帰属する私ではなく、私は私であり、そこに会社という組織が付随している、という自己認識から出発したことが、きっと根深い疎外感の核であったことは否定できなかった。

初冬の引き締まった空気も日差しが雲間から顔出すと、春のように穏やかで歩くほどに体が火照っていく感触を捉えた。
その火照りは、もしかすると牛タンへの絶え間ない希求から生じた微熱なのか?

仙台駅東口は相も変わらず無味乾燥とした風情で、西口の活況が嘘のように沈んでいる。
工事車両が行き交い、作業員や警備員が忙しなく寡黙に動き回っていた。
どの街も再開発の動きが活発なのだが、従来のスクラップアンドビルドを繰り返すだけのやり方に唾棄すべき何かに揺り動かされれた。彼らは目の前の与えられた仕事を生活の現実として捉え、資本主義がどうだとか共産主義がどうだとかという観念論ではなく、今この仕事によって衣食住にありつける現実主義者にほかならず、唾棄すべき対象ではないのだ。
私は足早に工事現場を背にした。

見慣れたコンビニエンスストアを通り過ぎる。
するとホテルの1階に、その店はいつもの佇まいで存在していた。
その風貌は以前とまったく変わっていない。
まもなく11時だった。
想像をしていた行列はない。
何の滞りもなく入店することができたのは、禍中の小さな幸いということだろう。

牛タン焼専門店 司 東口ダイワロイネットホテル店

スタッフが素早くテーブル席を案内し、番茶を差し出した。
見慣れたメニューに軽く目を向け、食べ慣れたメニューを選ぶまでだったが、その料金に瞠目した。
「牛タン定食1.5人前」が3,850円に跳ね上がっていた。
だが、この料金に屈して枚数を減らすことは抜き差しならない敗北を意味するのだ。
11時ながら、私は自らの冷静さを取り戻すために生ビールを注文し、意を決して「牛タン定食1.5人前」のライス大盛とオプションのとろろ(363円)を付けて挑んだ。
ジョッキごと冷えた生ビールの爽快さは、注文したことを肯定していた。
一気に飲み進めたいところだが、牛タン定食の到来を待ちわびながら流し込んだ。

躍動する文字は炭と炎の象徴に見える
牛タンはもはや庶民には手の届かない贅沢な逸品である
午前中に飲む生ビールが心地よい罪悪感へと陥れる

さすがにコロナ以前というほどでもないのだが、周囲の空席は気がつくとキャリーケースを手にした来客によって確実に埋まってゆく。

さほど待つことなく、それは以前と同じ姿をして現れた。
茶褐色のバランスよく焼かれた牛タンの肉片、ネギがたゆたうテールスープの馥郁たる香り、鮮やかな玉子の黄身が浮かぶとろろ、そのどれもが以前の記憶を忠実に再現している。

この店の最大の魅力であり「たんや善治郎」とも異なる点は、牛タンをわさびに付けて食する点にある。
牛タンの質そのものや微細な相違点は、正直言って理解できないが、一味唐辛子とは異なる牛タンの旨味を引き出すわさびの効果は著しい。
このスタイルに魅せられて通い詰めたほどだ。
さらにテールスープの奥底に沈む牛タンの断片は柔和な噛みごたえで、それだけでも麦ごはんを楽しむだけの魅力を秘めていた。
かてて加えて、卵の黄身の載ったとろろに醤油をたらし丁寧にかき混ぜて麦ごはんに掛けて頬張るスタイルも牛タンを楽しむための普遍的スタイルとして定着している。
一切れ一切れ肉の断片を、時にわさび、時に味噌南蛮による味の変化を愛おしむように愉しんでは麦ごはんを掻き込み、テールスープで口中を再起動するという、言わば至高の循環に至るまでだ。

申し分のないボリュームの牛タン定食1.5人前
とろけるような食感は自己規制しなければ無限だ

最後の一切れは、当然わさびで締めることも自己規則である。
鼻腔から突き抜ける旨味と辛さの類まれなる融合によって、牛タン定食は完結した。
食後には一点の後悔の余地もなかった。

テールスープの奥底にも肉の塊が眠る

まだ12時前だった。
人によって特権意識の実感は異なるだろうが、私にとって午前中に飲むビールこそ特権階級の具現性である。

店を出て再び仙台駅へと目指した。
優しげに振る心地よい日差しの中を牛タンとビールの余韻に浸りながら、雑踏の中に身を埋めて行くのだった…

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