こんなのどうでしょう [作品を作ってみたい]
ある日の夕方、テレビを観ていたら、漫才師のミルクボーイが出ていた。よくできたネタのフォーマットだなぁとつくづく感心させられる。落語のように何度も聴ける、様式美がある。
ちなみに、初めてテレビで観た時に、内海さんにはデジャヴを覚えた。それはモナカだ、モナカじゃないとひたすら叫ぶ、向かって右手に立つ角刈りの人だ。その内海さんは、なんというか、奇品珍品を辻でひっそり商っていそうな……そうだ、丸尾末広氏の『少女椿』に出てくる山高帽のおじさんっぽい人を想起させる。
いやいや、それはさておき、テレビを観ていたら日が暮れた。辺りが暗くなってきても時間潰しのできるコンテンツは、私たちの身の回りに溢れかえっていることを、痛感させられる。テレビ以外にタブレットやPC。暗い部屋でも、目が悪くなる心配を度外視すれば作業もできるし、遊ぶことだってできる。一人っきりでも、日のある時間帯と同様の作業が続けられる。
とはいえ、暗くなってきたらたいていの人は電気を点ける。自分も普段はそうだ。けれどもピシャっとカーテンを、なんの感慨もなく閉じてしまうと、勿体ない気がした。迫りくる夕闇を体感することなく、今日を終えてしまうこと。それが何だか寂しく思えた。
闇を楽しもうという感情が湧いたのは、直近で読んだ本に触発されたからだろう。ロジャー・イーカーチ著『失われた夜の歴史』は、産業革命以前の欧米世界を生きた様々な階級の人たちの夜の振る舞いを、数多の史料研究に基づいて明らかにした力作である。夕暮れ時の人々の振る舞いについても触れており、今の私たちの暮らしと比べれば、いかに変化したかがわかる。
アイスランドをはじめ、スカンディナヴィア地方の大部分で、日没から暗くなるまでの間、つまり仕事に精出すには暗すぎ、蝋燭やランプを灯すには明るすぎる隙間の時間帯は、「夕方休み」と呼ばれた。人々は、夜の仕事を始める前のこの時間を、休息や祈り、静かな会話に当てていた。 —————— ロジャー・イーカーチ著、樋口幸子ほか訳 (2015) 『失われた夜の歴史』合同出版、169頁
視界が覚束なくなるからこそ、音に人々の振る舞いは依拠したものとなる。それに比べ、現代は視覚が頼りにならない瞬間を探すこと自体、難しいのかもしれない。そして、単に見えるだけでも本当は素晴らしいことのはずなのに、現代人は「視覚的にわかりやすいデザイン」とか「ビジュアル〇〇」のような視覚のクオリティにまで、細かく注文をつけている。
光がもたらした視覚の革命はあまりにも大きかった。この視覚革命は、人々の行動を画一化したふしもある。音を頼りにすれば、各々が想起するイメージに差が出てくる。「百聞は一見に如かず」というように、聴覚情報は事実認識を曖昧にする。ただ、言い換えれば事実認識が多様なわけでもあり、情報を聴いた次の行動も多様化してくる。
そこで、常に光を得た人類は、その性分に従って確かなものを求めるあまり、視覚情報に大きく頼り切るようになった。視覚情報の主流化は、行動の均質化を招いた。光のおかげで昼夜問わず同じこと、他人と比べても同じことができる。極端に言えば、24時間、大勢で同じことができるのだ。均一化された生産活動がノンストップで続けられるのだ。
では、夕暮れ時に電気を封印されると、現代人はどんな行動を起こすのだろうか? 実験をしてみたくなった。唯一の禁止事項は、完全に真っ暗にならないうちに電気をつけること。それ以外なら何をしてもらってもいい。そんな実験に付き合ってくれる人はいないだろうか。自宅と顔が映っても良い人がいれば、ぜひともそれを映像に残して、作品化したいくらいだ。
薄暗くなってゆくと、かつてなら同朋と語り合ったり、瞑想や思索に耽ったりすることに、行動のあり方を余儀なく変えられていたのに、今やその必要が全く無くなった。そんな時代を生きている人間が、薄暗い世界でどのような振る舞いを見せるのだろうか。電子デバイスありの場合と無しの場合の両方で実験してみたい。色々な人で実験し、その様子をアーカイブ化したい。おそらく、人間行動学や文化史学の資料(史料)になるかもしれない。そんな期待だってある。
この趣旨に賛同してくれるひと、誰かいないかなあ。
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