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Stormy Year, 2022

2022年が終わろうとしている。とにかくいろいろあった。世界史的にも、日本史的にも、そして個人史的にも。
 
第一にはやはり悪いことばかり思い出す。戦争、暗殺、襲撃、背信、離別、等々。これまではわりと運良く生きてきたという自覚があるのだが、ここに来て僕の人生はもう運が尽きてしまったのではないかという感じがする。人生は大変だ。この世界にはなぜこんなに悪が多いのだろう。神様はなぜもっとよくできた世界を作らなかったのだろう。そんなことを半ば本気で考える。裏返して言えば、偉大な人間とはこの世の諸問題に対して何か一つでもソリューションを示した人のことなのだろう。
 
来年は、良い年とは言わずとも、もう少し平穏な年になりますように。
自分がこんなセリフを吐く日が来るとは。
 
しかしね、そんなことを言っていても仕方ない。
世界がこれで終わるなら何も考えなくても済むのだが、問題は世界はこれからも続くし、人生もまだまだ続くということだ。

とりあえずは来年もまた生きていかなければならない。そのためには今から少し助走をつけておいたほうがいい。そう言えば、今年は新しく始めたこともいろいろあった。良かったこともそれなりにあった。悪いことを帳消しにするために頑張ったということだろう。

嵐のような2022にも晴れ間があった。そのことをちゃんと記憶しておくために、思い出したまま書いていく。
(※数字は順位を表していません)

1. 濱口竜介の映画

『ドライブ・マイ・カー』、すごく良かった。日本の映画はずっと苦手意識があったのだが、これは良かった。日本映画の何が苦手だったかというと、芝居だ。妙に自然に見せようとする芝居が嫌で、見たいと思わなかった。白黒時代くらい昔の映画だとそうでもないのだが、最近は自然派が多い気がする。偏見かもしれないけど。
ところが濱口監督には独特のメソッドがあって、稽古の段階では感情をまったく込めずに棒読みみたいにして台本を読ませるのだそうだ。そう、感情を込めた芝居も僕は苦手。見てられない。これは歌手にも当てはまる。感情込めて歌うヤツは最低。音楽に対する信頼がないからそんなことをしてしまうのだ。感情は勝手に入ってくるのだから、わざわざ作り込んだ感情を入れないでほしい。
すみません、愚痴が多くなりました。
そのメソッドの効果なのかわからないが、『ドライブ・マイ・カー』は素直にみることができた。とはいえ、かなり独特なセリフ回しではある。村上春樹が原作ということも関係しているだろう。村上春樹の文章は人工的であるとはよく言われることだが、僕もそれがものすごく苦手で、村上春樹の文章は生理的に無理だった。しかし、濱口映画にはそれが妙にマッチしていて、不自然ゆえに自然というか、これは芝居なんだという割り切りみたいなものを感じて、僕はすんなり受け入れることができた。芝居なんだけど、ライブ感がある。濱口自身が文章に書いていたと思うが、映画を撮るというのは、芝居にカメラを向けている時には常にライブでありドキュメンタリーなのだ。そのことに自覚的だからだろうか、濱口が撮るショットには緊張感があり、美しい。奇跡としか言いようのない瞬間が見事に切り取られている。濱口映画で何度泣いたことか。
 
『ドライブ・マイ・カー』を見たちょうどその頃、「言葉と乗り物」という濱口映画特集をやっていたので、映画館に通い詰めてほぼすべて観た(東北地方で撮ったドキュメンタリーだけは見れていない。いつか必ず観たいと思っている)。
それでわかったのは、『ドライブ・マイ・カー』は最高傑作ではないということである。驚くべきことだ。『ドライブ・マイ・カー』はたしかに良い映画だし、クールだし、賞を獲るのも納得なのだが、しかし観ればわかる、濱口の凄さはこんなものではないと。
 
どれも良いのだが、敢えて数作だけ挙げるとすると、まずは『ハッピーアワー』。上映時間はなんと5時間17分。僕が見たときは二回休憩が入った。しかしそんなこととは関係なく、とんでもない映画だ。映画を見てあんなに心を動かされたことはない。皆さんも機会があれば是非、是非、是非観ていただきたい。
 
次に、『寝ても覚めても』。僕はすっかり唐田えりかのファンになってしまった。東出昌大との関係がアレな感じになったため曰く付きの映画となってしまったが、それも含めて良い。「それも含めて」というところが僕にとっては重要である。「現実はどうあれ、映画そのものは良い」という評価の仕方もあるが、僕はそのような意見には与さない。僕はいろいろな騒動があった後にこの映画を観ている。そのため、映画を観ながら現実の二人の関係についてまったく想像しないということは不可能である。それも込みで見ざるをえない。「そんなものは純粋な映画体験ではない」という人がいるかもしれないが、では純粋な映画体験とは何なのか。そんなものはないのではないか。いずれにせよ、後追いで観た僕としてはそんなことはもう不可能なのだった。それで、これは開き直りでも何でもなく実感として、映画を観るというのはそういうコンテクストも含めて観るということなのではないかと思ったのである。
今や素直な気持ちでこの映画を観ることができないという人も多いだろうが、僕はこの映画における唐田えりかは本当にすごいと思う。完璧である。素人くさく見えなくもない演技だが、もはやそういう次元を超越している。誰が何と言おうと、唐田えりかはすごい。
 
ちなみに、あの騒動以来公の場に姿を現していなかった唐田は、つい最近『の方へ、流れる』という1時間ほどの短い映画でカムバックを果たした。とりあえずは、復帰してくれて嬉しい。映画そのものはあまりぱっとしなかったが、唐田えりかの芝居はなかなか良かっと思う。今の唐田が言うからこそ意味がような反逆を感じさせるセリフもあって、「いいぞ!」と思った(脚本自体はだいぶ前から作られていたらしく、現実とリンクしているわけではないという)。まあ、僕はほとんど唐田応援モードで観ていたのだが。頑張れ!

濱口映画は他にもすごいのがいっぱいある。『偶然と想像』も良かったし、『PASSION』『親密さ』『何食わぬ顔』・・・やっぱり全部良い。映画でここまでのことが表現できるのかと驚かされる。ずっと見てると、同じ俳優さんが何度も出てくるので、これも面白いポイント。そういう楽しみ方もあると知った。
それから、濱口竜介は同じような描写を別の映画で何度も撮る人でもある。微妙にシチュエーションが違ったりセリフが違ったりするのだが、基本は同じ構図で同じ意図のショット。何かを撮りたいのだろうけど、まだ納得いっていないのだろう。
扱っているテーマもけっこう同じものが繰り返されている。マンネリということではない。濱口はしつこいのだ。しつこくしつこく同じことを撮り続ける。執念がある。たぶん相当変わり者だと思う。だけど、これは勝手な推測だが、僕と似たような変わり者なのではないかという気がする。そして僕と同じような嫌な目にあっていると思う。「僕のことを撮った映画だ」と思ってしまう。もしかしたら僕と同じような思いで濱口映画を見ている人も多いのかもしれない。その意味では普遍的なテーマを扱っているのだろう。

そんなこんなで、今年は映画に対する関心が戻ってきて、まあまあたくさん観た年だった。映画の見方も変わったし、映画によってモノの見方も変わった。

2. 『ゲット・バック』

なぜかディズニー+で配信されたビートルズの『ゲット・バック』。これもまたすごかった。ポールが神々しい。ベースをベンベン鳴らしながら"Get Back"をゼロから作り上げていくところを捉えた映像が残っているのだが、まるで神の世界創造を見ているよう。歴史的瞬間がこうやって記録されているというのは奇跡としか言いようがない。
スタジオの屋根の上でライブをやるかどうかについて議論する場面もいい。最初は渋っていたメンバーたちだったが、ジョンが「やっぱオレやりたいわ」みたいなこと言い出して、ポールが「お。じゃあやっちゃう?」みたいに嬉しそうな顔になるところ、感動する。
ところで屋根の上でアンプ繋いで大音量で演奏するって、客観的に見たらバカYouTuber同然ですからね。実際警察も出動しているわけだし。だけどあいつら、「最後警察に逮捕されたら映画のオチとしてもちょうどいいし」とか言ってんの。最高!
あの頃はマスコミによってビートルズ不仲説が流されていて、実際けっこう険悪なムードになる場面もあるのだが、いざ屋根の上で演奏始めると、すごく息が合ってる。ビートルズは実は演奏が下手などと言っている人々がいるが、一言で言うと耳が腐っている。リズム感といいグルーヴ感といい、こんなに上手いライブバンドはない。
最初、ポールがちょっと緊張気味で顔がこわばっている感じも微笑ましい。ジョンは、警察がやって来たのに気づいたところでいよいよ調子が出てきた様子。やはり不良である。ジョージはギターのシールドをアンプから抜かれて怒っている。リンゴは寒くて鼻をかんでいる。ラストはアンコールの"Get Back"。解散の危機を前にして「あの頃に帰ろうぜ」という歌として解釈されているが、警察を前にして歌うと「さっさとあんたらの居場所に帰んなよ」と挑発しているようにも取れる。すべてが完璧。これが、The Beatles。あとはこのセッションに関してはビリー・プレストンの攻撃的なエレピも忘れてはならない。

その後、僕は東京に行った際に友達と一緒に品川の映画館で、IMAXの大画面大音量ド迫力でこのルーフトップコンサートを観ることになる。良い思い出だ。

3. 一人行動チャレンジ

「ひとりでできるもん!」という教育番組があった。子供にとってはそれは成長とか自立を意味するが、大人にとってはどうなのだろう。何か侘しさややるせなさや虚勢を感じさせる。
僕は基本的に一人行動は気にしないというか、むしろ一人でいることが好きだ。一人で外食もするし、一人で喫茶店に入ってずっと本を読むのも好きだし、映画も一人で行く。僕と同じような性格の人は「そんなの当たり前だろ」と思うだろうが、そうでない人も案外多いらしい。一人で外食するのは恥ずかしいとかなんとか。まあ場所にもよるのだろうけど。
しかし、一人が恥ずかしい場所もたしかにあるよね。そういうところに果敢にチャレンジしたこの一年だった。
 
一人カラオケ。これ、どうですか。一人カラオケ専用に行っているようではまだまだレベルが低い。普通のカラオケに一人で行くことに意義があるのだ。僕は今年初挑戦しました。そもそもカラオケ自体、人生で数えるほどしか行ったことがなかったのに、意を決して一人カラオケに行ってきたのだ。これはいい!別に誰も気にしてなどいない。慣れればとても快適。僕はフリータイムで5時間ぐらいぶっ通しで歌ってました。ずーっと歌っているとだんだん体の力が入らなくなってくる。そこがポイント。力まないで声を出すことを考えるようになるので、すごく歌が上手くなります。発声のコツがわかってきます。とにかく、意識が朦朧とするまで歌うことが大事です。すべてを身体に委ねること。修行僧のように、歌い続けること。

一人しゃぶしゃぶにも行った。ただし、これは「一人しゃぶしゃぶ」を謳っている店である。なかなか美味かったが、やはりちょっと寂しいか。そこに特別な意義や利点を見出すことは難しい感じがした。
 
今年、一人行動チャレンジに成功したのはこれくらい。来年に残された課題も多い。他に挑戦したかったのは、まず一人ラブホ。古谷経衡さんが一人ラブホの効用についてアツく語っていたので、これはいいかもしれないと思っていたのだが、勇気が出なかった。しかし、旅行をするときに安く泊まれるなど利点ははっきりしているので、トライする価値はある。諦めるべきではない。
 
もう一つは、一人USJ。これも勇気が出なかった。最後に行ったのは10年以上前だろうか。まだバック・トゥ・ザ・フューチャーがあったはず。
ジュラシック・パークに乗りたい。とても好きだった。前回か前々回行った時、5回ぐらい連続で乗った記憶がある。人が少ない平日に行ったのだろう。ともあれ、僕は今とっても、高いところから落ちたい気分なのだ。でもやっぱり、チープでもいいから、落ちるまでのストーリーがあってほしい。高いところから落ちる必然性が欲しい。というわけで恐竜から逃げるために落ちるというの正当な理由になると思うんだよねえ。

4. シラスレビュー

これはデカかった。皆さんからコメントなどいろいろいただいて、本当にありがとうございます。自分の書いた文章を面白がってくれるというのは嬉しいことだ。それだけでなく、なかには「感動した」とか「励みになった」とかそんなことまで言ってくれる人もいて、感謝感謝だ。

こういった反応は主にツイッターでのやりとりによって確認するのだが、ツイッターを始めたのも今年からである。僕はそもそもネット文化をバカにしていたところがあるので、ツイッターなんてネトウヨの巣窟でしかないと思っていたのだが、いろいろあって心機一転アカウント作ってみたら、今のところそれなりに楽しく使っている。
しかし、これもたぶん先にシラスでゆるいコミュニティが作られていたからではないかと思う。シラスのよく設計されたヌクモリティあふれるコミュニティの延長線上でツイッターを使っているために、今のところ変な炎上とかにも巻き込まれずに済んでいるのではないかと考えている。
シラスは僕にとっては新世界発見だった。番組を観て勉強したことも含めて、世界がぐっと広がった。インターネットの可能性を思い知った。また、インターネット文化についてこんなに真剣に考えている人がいるのだと知って、自分の今までの態度を反省した。

5. 散髪レビュー

僕は現在、人とまともな会話をほとんどすることのない生活を送っているのだが(改めて文字にしてみたらだいぶ怖いことを言っていることがわかった)、他人と他愛のない会話をするほぼ唯一の機会が、月に一度の床屋さん。といっても、僕はそんなに会話の上手い方ではないので、気まずい沈黙が訪れることも多い。そうならないために、最近はそれまでの一ヶ月をざっと振り返り要点を整理してから散髪に臨むよう心がけている。

それはそうと、僕はシラスのレビューを書き始める前、手始めにホットペッパーで散髪のレビュー(口コミ)を書いたのだった。分量で言えばシラスレビューの100〜200分の1ぐらいと思われる。そして、これが案外好評だった。それで味をしめたというわけだ。小さなことだが、いろんな媒体に書いてみるというのは大事ではないかと思った。

そこのスタイリストさんはみんな上手だ。僕はそれまで20年近くずっと、家の近くの同じ散髪屋に通っていた。もちろんそれはそれで良かったのだが、そもそも散髪の上手い下手を気にしたことがなかった。だけど、やっぱりあるみたい。カットの手際の良さや、その後の自分でのセットのしやすさなど。大会などもあるらしく、なかなか奥深い世界のようだ。

この床屋はちょっと変わっていて、散髪後(もしくは前)にコーヒーをサービスしてくれる。そして、そのコーヒーが異常に美味い。おかしい。たぶんマリファナとか混ざってる。僕はコーヒーにはうるさい。その僕が言うのだから間違いない。いや、マリファナは入ってないと思うよ。それだけ美味しいということだ。そんな美味しいコーヒーが飲める散髪屋さん、場所は・・・言わない!

今、多様性が大事ということがよく言われている。床屋は実に様々な人たちがやって来る場所だ。老若男女、髪を切らないで済む人はいないからだ。散髪屋さんをやっていたらいろんな立場、いろんな職業の人の話を聞くことができるだろうし、耳学問だけで博学になれるのではないだろうか。
「床屋政談」という言葉がある。もっぱら素人の無責任な政治談義という意味で使われるが、偏見も甚だしい。床屋こそ多様性を体現した場所であり、公共性に満ちた空間である。
僕が大学生だった頃、政治学の授業の先生(男)の髪型が毎週変わっていた。いや毎週は嘘だけど、けっこう頻繁に変わっていた。どんどん短くなっていく。聞けば、フィールドワークをするときには必ずその土地の散髪屋に行って話を聞くのだそうだ。そうするとだいたい、そこがどういう場所柄であるかがわかるらしい。

床屋には未知なる可能性が秘められているかもしれない。

6. 文フリ

文フリ(文学フリマ)にはじめて行ってみた。ブースでたまたまお見かけした佐川恭一さんにサインをもらえて嬉しかった。『サークル・クラッシャー麻紀』は絶対にオススメできないけどオススメ。

文フリでは、プロの作家というよりは、セミプロやほぼ素人の人もたくさんブースを出している。文学の草の根運動みたいな位置付けと考えて良いだろう。
僕は、こう言ってはなんだが、素人の書くあまり上手くない文章を読むのも結構好きだ。なんでもそうだが、洗練されすぎたものはだいたい面白くない。もちろん、素人なのにこんなに良い文章を書く人がいるのかという驚きを感じることも多々ある。しかし、いずれにせよ、書くことに対する情熱が荒々しくそこに現れているような文章に触れることで、こちらもエネルギーをもらえるような感覚がある。手作り感も関わっているだろう。プロじゃなくても、誰でも書く権利を持っているし、書く情熱がある。誰に媚びるでもなく、自分の主張を一生懸命形にしようとする人たちの姿に、僕は励まされる。

入場客もとても多くて、大盛況といった感じだった。書く人がいて、読む人がいる。ただそれだけのことだが、素晴らしいと思った。

7. ゴルフ

6,7年ぶりぐらいにコースを回った。スコアは110。これでも自己ベストだと思う。コースに出るまで数ヶ月、週一で打ちっ放しで練習した。しかし、パターをもっと練習しておくべきだった。来年は100切るぞ!

これから僕は、まだ100も切っていないのに、ゴルフについて偉そうにいろいろ語る。悪しからず。
僕は小・中・高と野球をやっていたので、ゴルフでも打球は一般素人に比べると飛ぶほうだと思う。だけど、やはりゴルフのスイングと野球のスイングは全然違う。
野球では打つことを「攻撃」というのだが、実際にバッターがやっているのは、ピッチャーの投げる球に合わせて対応することである。ピッチャーが投げてくれないと何も始まらない。バッターが能動的にできることと言えば、自分が打ちやすいコースに来るまで待つぐらいのものだ。
ところがゴルフの場合、バッティングと違って、自分から始動しなければならない。その意味では投手に近いところがある。

それから、もっとわかりやすくところで言えば、野球では動く球を打つのに対して、ゴルフでは静止してそこにある球を打つ。そこで野球経験者はしばしば、そこにある球を打つことなど簡単にできると思ってしまうのだが、これがとんでもない勘違いだ。前述したこととも重なるが、動く球を打つというのは基本的に「攻撃」というよりはむしろ「対応」ないし「防御」である。「打ち返す」という言い方をするように、こちらに主導権はないのだ。
また別の言い方をすれば、バッターは相手が投げてきた球の勢いを利用することができるのに対して、ゴルフの場合には球はそこにただ置いてある。この段階ではエネルギーゼロである。すなわち、ゴルフにおける「打つ」の意味は、ゼロからエネルギーを作り出すということである。ゴルフの難しさはこのあたりにある気がする。

それから、ゴルフは再現のスポーツであるということが言われる。繰り返しになるが、野球のスイングは対応型なので、状況に応じてかなりスイングの形が変わる。しかしゴルフのスイングはだいたい型が決まっている。そして、ここが厄介なところである。
何が厄介か。この「再現性」を意識し過ぎるとうまくいかないことだ。これは伊藤亜紗『体はゆく』を読んで僕が考えたことである。とても面白い本で、そのなかの一つの章は桑田真澄投手の投球フォームの研究に割かれている。桑田は抜群のコントロールの良さで有名である。コントロールが良いというと、いつ投げても同じフォームなのだろうと、つまり再現性が高いのだろうと思いがちである。ところが、実際には同じコースに投げていても、その都度フォームが微妙に違うのだそうだ。言い換えれば、投球動作に遊びがあるということである。神経質にガチガチに固めたフォームだと、少し手元が狂っただけで結果に大きな影響が出てしまう。つまり暴投になる。反対に、そもそも最初の段階で遊びをもたせておけば、動作の途中段階で多少狂いがあっても柔軟に対応でき、結果としてコントロールが安定するのである。

これを読んでいて思い出したのは、「百獣の王」武井壮のスポーツ理論である。武井はこれとはまったく逆のことを言っている。武井はとにかくイメージトレーニングを重視する。上手い人の身体動作を観察し、それを自分の身体に重ねてイメージし、そのイメージの通りに実際に自分の身体を動かせるように訓練するのである。武井の場合はそれで実際に成果が出ているのでそういうやり方が合っているのだろう。しかし、本当に武井が自分で言った通りのことをやっているのかどうかについては疑いの余地があると思う。人はしばしば、自分が実際に何をやっているのかがわからない。桑田も、研究成果を教えられるまで、自分のフォームに毎回ブレがあるということに気づかなかったという。そもそも伊藤亜紗の主張の核心にあるのは、自分の身体は自分の思い通りにならないからかそ、そこに「できる」の可能性がある、というものである。

このことは他の分野でも応用可能だろう。例えば外国語を喋ることについてはどうだろう。知り合いの話では、酒を飲んだ時の方が英語が上手く喋れるそうだ。それはおそらく、頭の回転が早くなったのではなく、頭のリミッターが解除されたことによって身体が自由になったのではないだろうか。つまり、この場合は口がいろいろ覚えていて勝手に動くのだろう。
発音もそうだろう。外国語の発音が難しいのは、そういう発声を今までやったことがないからである。つまり、そういう口の形も喉の開きも作ったことがないからである。子供のような柔軟性や慣れということも重要なファクターには違いないが、大人が習得しようと思えば、まずは使ったことのない筋肉を使ってみるとか、身体の可能性を解放する、身体のさせたいようにさせるということが大事なのではないか。

あるいは、思考するということそのものについてはどうか。こうやって文章を書いていてもそうだが、画面を凝視しながら集中しているときは、案外言葉が降りてこない。それよりも、気晴らしに外に出て散歩したり、シャワーを浴びたりするなど、ふと力が抜けたときに言葉がやって来ることがある。たぶん皆さんもそういう経験をお持ちだろう。あれはやはり、何か身体に関係しているような気がする。人間は頭で考えない間にも、身体で勝手にいろいろ考えているのではないだろうか。だから、頭の制御から自由になった身体が、どこかから言葉を連れて来るのではないか・・・。だいぶロマンチックな言い方になってしまったが、そういうことがあるのではないかと僕は最近思っている。

話が逸れたが、ゴルフに戻って、そろそろこの記事全体を締めていきたい。
人生はしばしばマラソンに喩えられる。しかし僕は、人生はゴルフに似ていると思う。まずティーショットを打つ。1打目は緊張するが、とりあえずは打たないと何も始まらない。しかし、いざ打っても、思い通りフェアウェイに球を運べるとは限らない。ラフに入ったり、バンカーに行ったりすることの方が多いだろう。池ポチャもあり得る。ゴルフにハザードはつきものだ。そういうときに「ああ、思い通りにいかなかった」と落ち込まないことだ。ゴルフは失敗の方が多い。大事なことは、そこからいかにリカバーするかである。つまり、1打目よりも2打目にどう臨むかの方がよほど重要なのだ。1打目のミスを引きずったまま打てば、2打目は確実にまたミスる。ゴルフにおいて完璧主義は厳禁である。偉大なゴルファーとはミスショットをしない者のことではない。トラブルショットからの脱出方法を一つでも多く知っている者のことである。

こうして僕たちは、この記事の始めに言ったことに再び戻って来る。
「偉大な人間とはこの世の諸問題に対して何か一つでもソリューションを示した人のことなのだろう」。

神はこの世界を完璧には作らなかった。神はゴルフ場を設計するように、この世界に様々なハザードを設けたのだ。
そして、神よ、あなたは優れたゴルファーであるに違いない。

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