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『観光客の哲学』から考えるレビューの極意(前編)

レビューを書いたことはありますか?

私は放送プラットフォーム「シラス」にレビューを書き始めて約2ヶ月、これまでに18本のレビューを投稿してきた。とても多いというわけではないが、書くことの快感を知らなければこんなに書いていないだろう。

みなさんにも、この快感を知ってもらいたい。そして、もっとたくさんの人にレビューを書いてほしい。いや、書かないのは損だ。なぜなら、レビューを書くことはたんに楽しいだけでなく、配信内容をより深く理解するための助けにもなるからだ。これは私の実感である。「お家に帰るまでが遠足」とはよく言ったものだが、シラスも同じこと。レビューを書くまでがシラス。レビューを書くことによって、あたなもシラスの魅力を再発見するに違いない

観光客のようにレビューを書く

しかし、文章なんて書いたことない、という人もいるかもしれない。書いたことないは嘘でも、何を書けば良いかわからない、という人は多いだろう。大丈夫!だからこその「観光客」である。どういうことか。

私はこの「観光客」という言葉を、東浩紀の著作『観光客の哲学』から借りてきている。東自身がそれをどのように定義しているかについてはまた後で説明するとして、さしあたりは私なりの解釈に基づいてこの言葉を用いることにしよう。

一度も観光旅行をしたことがないという人はたぶんいないと思う。何かしら、地元を離れてどこかに行ったことぐらいはあるはずだ。観光は修学旅行とは違って、あらかじめ学習目標を立てたりはしない。行ってみたら面白かった、結果的に学びを得た、というのが観光である

レビューも同じ。目的なくだらだら書いてみれば良い。案外書けるものである。そして、あなたは驚く。「私はこんなことを考えていたのか!」と。ここがミソだ。意味がわかってもらえるだろうか?
そうなのです。書くということはそういうことなのです。考えたことを書こうとするから難しく感じるが、事実はその反対なのだ。書くことによって考える。書くことによって自分の考えを知る。これが本当だ。書いてみたら意外な発見があった、という感覚。もしその感覚を知ったなら、あなたはもう立派なレビュー中毒者だ。

書くことによって考える。これは私の独自の理論ということではなくて、実はいろんな偉い人たちが同じようなことを言っている。でも、実際に書いてみるまでは実感としてはわからないものだ。私もびっくりした。自分はこんなにいろんなことを考えていたのかと。人間、書き始めると、あれこれといろんなことを考え始める。というか、思い出す。ふだん頭のなかでいろんなことを考えていても、それを表に出す機会がないから、自分は何も考えていないような錯覚に陥っているだけだ。本当は、何も考えていない人間などいない。人は生きているだけでいろんなことを考えている。考えてしまっている。
「そういえばあれ気になってたんだよなー、そうだ、ここで書いちゃえ」。これが私の基本スタイルである。ゼロから書き始めるのは難しくても、配信に対するリアクションなら書くことができる。シラス動画には考えるヒントがそこらじゅうに散りばめられている。刺激的な議論に触発され、レビューを書くことでしまってあった考えを引き出し、いてもたってもいられなくなって、この考えを整理するまでは書くのをやめないぞと頑張っているうちに(実際には頑張っているという意識もそんなにないのだが)、文章にもまとまりが出てくる。部屋の片付けだって、最初はなかなかやる気が起きなくても、いざ始めると綺麗に片付くまでは夢中になってやるだろう。書くこともそれに似ている。ごちゃごちゃになっていた頭を片付け、整理する。それが書くということである。ちなみに、私は今この文章もそうやって書いている。

シラスのレビューには文字制限があるが、上限は4000字となっている。詳しく調べたわけではないが、動画サイトとしては異例の長さだろう。それだけあれば十分に自分の考えを展開できるし、アツい思いを伝えることもできる。というより、たぶんそうすることをシラスが求めている。上限4000字という設定自体に、書きたいことを目一杯書いてください、というシラスからのメッセージを読み取るべきなのだ。私は勝手にそう信じている。

ツイッターなどのSNSをやっていれば、うまくいけば他のシラシーたちから感想をもらえることもあるし、配信者から応答がもらえることもある。私が一番嬉しかったのは、星野博美さんがゲンロンカフェに登壇したイベントにレビューを書き、ご本人から応答をいただけたことである。それはシラスならでは、シラスレビューならではの交流である。先ほど「シラスの魅力を再発見」と書いたが、それはこういうことがあるからである。

書き始める

以上、わかったらさっさと書き始めよう!

さあ、どうぞ!

さあ!

あん?

書けないですよねー。わかります。何事も、始めることが一番難しい。「始めることさえできれば仕事の半分は終わったようなもの」と、誰か忘れたけど偉人っぽい人が言ってました。その通りだと思います。

というわけで、ここでとっておきのエピソードをご紹介しよう。といっても、私自身のものではなく私の後輩の、それも小学生時代の後輩のエピソードである。
そいつは、宿題で出された読書感想文の文章を、こんなふうに書き始めたそうだ。「この本を読んで僕はとても感動しました。言葉にできないほど感動したので、書くことができません。しかしそれでは感想文にならないと思うので、しょうがないから書いてあげましょう」。

ふつうに考えれば減点されるだけだろう。しかし、もし私が小学校の先生だったら、それを許してあげたい気がする。しょうがなくであれ何であれ、それでそのあとの文章をちゃんと書くことができたのであれば、何も書かなかったよりはよほど良いではないか。

彼は自分に弾みをつけるためにそんな文章から書き始めたのではないだろうか。書き始めは誰でも難しい。村上龍はエッセイのなかで、人間にとって書くという行為は不自然である、と言っている。村上は、クラシックとかジャズとか何か特定の音楽、それも特定のアーティストの曲を聞かないと、書くということを始められないらしい。
また同じ村上でも村上春樹は、彼は彼で弾みをつけるためのお決まりのパターンの文章があるらしい。私は村上春樹がものすごく苦手なためよく知らないので、これは内田樹が言っていたことの受け売りなのだが、とにかくそれを書かないと物語を始められないみたいな、そういうパターンが村上春樹の文章には見られるらしい。

大作家でもそうなのだから、私たち素人が文章を書き始めるのに多少億劫になるのは当然のことだ。かく言う私もそうである。何かの病気なのではないかと疑うほど、私は書き始めるのが苦手である。どういうわけか、書くことに恐怖がある。そういうとき私は、先ほどの私の後輩の例を思い出して自分を鼓舞する。
といっても彼は小学生なので、私たちはもう少し大人風に書いてみると良いかもしれない。例えばこんなふうに。「この番組で議論されていることに、私は深い感銘を受けた。しかし、私はそれをうまく言語化する自信がない。もし私が感じたことの半分でも言葉にできたなら、私としては十分に満足である・・・」。こんなふうに書き始められていた文章があったら、私なら「おう?なんだろう」と思って読み始めてしまう気がする。
もっとくだけだ文章でも良い。「すごい感動しました。とにかくすごいと思います。なんと言えばいいんだろう、今までの私の考えがひっくり返されたような感じがします。今まではもっと〇〇○みたいに考えていたのですが、別の見方があるんだと今回知りました・・・」。
なんでも良いので、とにかく自分を励ますために書くのだ。書いてみれば、次何を書くべきかが見えてくる。

思考の過程も書く

こうやって文章化してみると、「ところで、なんで自分は今まで〇〇○みたいに考えていたのだろう」とさらに考えるきっかけができる。そうしたら、それもそのまま書いてしまえば良い。先の文章は次のように続いていくことになる。「今まではもっと〇〇○みたいに考えていたのですが、別の見方があるんだと今回知りました。ところで、そもそもなぜ私は今まで〇〇○みたいに考えていたのだろう。それはたぶん、△△△という固定観念があったからだと思います。それには、昔こういう体験があって、こういう思いをして、それが影響しているような気がします。今回の番組は、その固定観念を打ち破ってくれました。なんでそんな発想がでてくるのだろう。×××さんには×××さんの原体験があったのだろうか。そうだ、そうかもしれない。番組のなかでも、□□□さんはそのようなことを言っていた・・・」。
です・ます体と、だ・である体が混ざっているが、気にしない。そのほうが書きやすいなら、とりあえずそれで書く。あとで気になったら、そのときに修正すれば良い。
まずは、自分が書きやすい文体で書くことだ。硬い文体の方が文章がドライブする人もいるだろうし、人に話しかけるように書くほうが書きやすい人もいるだろう。大阪弁で書いても良いし、長崎弁で書いても良い。それはそれで味が出る。これは私も最近レビューを書きながら気づいたことだが、自分の母語である大阪弁で書くと、するする言葉が出てくる。ふだんは気にしたこともなかったが、母語を抑圧して標準語で書くということは思っていた以上にストレスが溜まるらしい。思考にブレーキがかかってしまうのだ。最近では、思考は大阪弁、文章は標準語という切り替えもだいぶ上手くなったとは思っているのだが、行き詰まると大阪弁丸出しで書いて放置することも多い。
ただ、それは読ませるためというよりは、自分が書きやすいからそう書くのだ。

文章というのは面白いもので、言葉が言葉を呼び、文が文を呼ぶ。これは実際に書いてみるとわかる。そもそも言葉というものは他の言葉との関係性の中で意味をもつので、これは当たり前のこととも言えるのだが、そうだとしても面白い。慣れてくると、爽快感がある。さきほど「ドライブ」という言葉を使ったが、本当にそんな感じだ。ただ、そのドライブ感をそのまま放っておくと交通事故を起こすこともある。いわゆる「脱線」だ。そうならないために文章を制御する技術も身につける必要がある。技術というか、慣れですね。
しかし、それについては今の段階で考えることではないだろう。実は脱線こそが面白かったりもするので、とりあえずは気にしない。アウトバーンを時速180kmでかっとばす気持ちで、まずは爽快感を楽しもう。

と言いつつ、試しにここでちょっと脱線してみようか。今、「言葉が言葉を呼び、文が文を呼ぶ」と言った。これに関連して、私は最近こんなことを考えた。ツイッターを連続で投稿することを「連ツイ」と言うが、この連ツイ、自分のツイートに返信をすることと仕様上は同義である。私はツイッターを始めてまだ一年も経っていない新参者なのだが、この仕様に最初はすごく違和感を覚えた。しかし、少しして、これは文章を書くことの本質に触れているのではないかと思い始めた。文章を書くとは、自分が書いた文に返信をすることなのではないか。そう思い始めたのである。一文書く。そうしたらその一文に返信する。「それどういうこと?」とか「もっと詳しくいうと?」とか返信してみる。そうするとまたなんらかの答えが返ってくるはずだ。それが次の一文になる。こうやって、言葉が言葉を呼び、文が文を呼ぶことによって、文章が生成していくのである。カッコよく言えば「自己内対話」だが、要は「連ツイ的対話」である。

だから、文章が続かないという人は、ツイート感覚で書いてみるといいかもしれない。というか、実際に連ツイしてみたらどうだろう。最近ではツイッター文学なるものも現れ始めた。麻布競馬場(作家名です)という人が『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』という本を出版したが、これももとはツイッターで書いていたらしい。wordで書いてそれをペーストしたとかではなく、たぶんいきなりツイッターで書き始めたのだろう。新しいメディアからは新しい文学形式が生まれる。面白い。新聞連載や雑誌連載は昔からあるけど、これは日本独特の形態だったわけだ(と、あずまんが言っていた気がするが記憶が定かでない)。この連載形式も、ある意味では応答型である。一回書いたら、次はそれに応じる形でまた書かないといけないのだから。連ツイ=ツイッター連載は、この連載形式の最小単位と考えることができるだろう。

うーむ。読者の期待に沿ったことを私は書けているのだろうか。心配になってきた。もっと大事なことがあるような気もする。もっと簡潔に書くこともできたのではないか。このレビューを読んだ人は、このあとレビューを書いてみる気になるだろうか・・・。

はい、これは私が今、実際に感じたことである。こんなふうに、思ったら書いてしまう。それが次の文へとつなげるための弾みになる。ただし、自分で書いたことには、自分で答えなければならない。

中間的まとめ

書いていたら予想外に長くなってしまった。このまま続けてもいいのだが、連載という言葉も出てきたことだし、一旦ここで中断して、後半は次回に持ち越したいと思う。ここまでの私たちの議論にしたがえば、次回の記事は今回の記事への返信として書かれるはずである。何を返信すべきか・・・。「東浩紀の『観光客』の定義はどうなったの?」そうだ、予告していたにも関わらず、私はまだそれを説明していなかった。次回はそれを確認するところから始めよう。


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