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イチロー引退会見に思う

周回遅れのタイトル、悪しからず。

スーパースターの引退

さぞかし荘厳な雰囲気のなか執り行われるのだろうと思っていたら、全然そんなことはなかった。拍子抜けするほどラフでフレンドリーな雰囲気。らしいっちゃらしい独特の和やかな引退会見だった。

イチローの言葉で私が特に考えさせられたのは、「おかしなこと言ってます?」・・・ではない。今のメジャーリーグは「頭を使わなくてもできる野球になりつつある」という言葉だ。「日本はそれに追随する必要はまったくない。日本の野球は頭を使う面白い野球であってほしい」とも。

野球とベースボールは別のスポーツだ——昔からある常套句である。アメリカのベースボールはパワー勝負。ホームランが最も喜ばれる。日本の野球はバントをしたり足で仕掛けたり、小技をよく使う。スモール・ベースボールと呼ばれたりもする。

しかし、「頭を使う」という観点から日米の違いについて言及されることは、これまであまりなかったように思う。

もちろん、パワー勝負ということのなかにすでにいわゆる「脳筋」的な意味が含まれているだろうし、小技を使う=頭を使うという意味も含まれて入るかもしれない。

しかし、イチローが言いたかったのはそういうことだろうか。イチローは、メジャーに渡った2001年からこの引退会見があった2019年までのメジャーリグの野球の変化について言及した際に、この発言をしていた。

データ野球

となると、イチローの言う「頭を使わない野球」とは、データ至上主義の野球のことではなかっただろうか。

メジャーリーグでは各球団が相手選手に関する膨大なデータを蓄積している。それをコンピュータに分析させれば、このバッターはどこに打球を飛ばしそうだということが数値として現れてくる。それにしたがって、例えば一二塁間にショートを移動させるというような極端な守備シフトを敷くことが戦略として可能になるわけだ。そして、それはけっこう成果を出しているようである。大谷翔平が打席に入った時にそういう極端なシフトが敷かれるのを見たことがある人もいるだろう。それで、ヒット性の当たりも内野ゴロになったりしている。

また、近年は「フライボール革命」と呼ばれるようなスイングの変革も起こっている。従来はバットは地面と並行に振るレベルスイングあるいはダウンスイングの意識で振るのが良いとされていたのだが(私自身はダウンスイングが良いという考え方に対しては疑問をもっているが)、この革命的理論によれば、バットを下から出すアッパースイングの方が理にかなっているとされる。ビッグデータによって、打球がどの角度で飛べば最も距離が出て最もホームランが出やすいかということが明らかになっているので、それに合うようにスイングを改造していくなら、必然的にそのようなスイングが正しいということになるわけである。そして実際、メジャーリーグでは総本塁打数が鰻登りに増えている。

どうだろう。スポーツと科学の素晴らしいマリアージュだと思われるだろうか。人間知性が生み出した素晴らしい成果だと思われるだろうか。

ID野球とは何だったか

イチローは会見で、日本の野球はメジャーに追随すべきでないと述べていたが、実際にはメジャーで流行った理論は、翌年か翌々年には日本にも「最先端の理論」として取り入れられることが多い。それくらい、日本プロ野球はアメリカの野球の影響下にある。したがって、多くの日本人選手がこぞってフライボール理論を取り入れて、スイング改造に取り組んでいる。

データを重視する野球は、昔ながらの根性一筋精神論一辺倒の軍隊的野球に比べればたしかに進歩しているということは、認めなければならない。

しかし、どこか疑問も感じる。

データ重視野球といえば、はるか昔に野村克也監督が日本でいち早く「ID野球」(ID=important data)を唱えて、弱小球団ヤクルトを見事優勝に導いたという歴史がある。その意味では、日本はアメリカに先んじていたと言うべきかもしれない。
しかし、当時はデータといっても、当たり前だが、今のようなビッグデータとは比べ物にならない。それはおそらく、もっと人力の要素が残った、アナログで地道なものだったはずである。要は、データ野球とは、データを頭に叩き込んで、頭を使って野球をしろ、ということ以上のものではなかった。それは、身体的な優劣の差は頭の使い方次第で打ち勝つことができる、という野村の思想、雑草魂に根ざした考え方だった。

これに比べると、現代のビッグデータ野球は、賢く見えて、実際には自分の頭で考えていない。極論を言えば、それはむしろ頭を使うな、データにまかせろ、という思想に裏打ちされた野球観である。イチローはそのことを危惧していたのではないだろうか。

少し、私の経験を話させてほしい。
私も高校まで野球をやっていた。ポジションはセンター。センターは、その名の通り、ホームベースを視界の中央に眺めることができるポジションで、バッターを観察するには一番適した位置を守っている。だから、私は守りながら、「このスイングだと引っ張りは無理だな。よし、ライト寄りに守ろう」などと自分の頭で考えて守備位置を変えていた。もちろん、データなどない。あるとしても、このバッターは前の打席でどういう打球を打ったとか、その程度だ。しかし、だからこそそれも大事な情報として頭にインプットする。逆にデータがあったら、自分の頭で考える前にベンチから守備位置を支持されて、それにしたがって動くだけだろう。

最近では、強豪私立ではない国公立の高校野球部員がデータの分析に取り組んでいるなどというニュースも耳にする。特にそれが進学校だったりすると、「さすが、頭を使った野球ですね」とニュース解説者が言ったりしている。

本当にそうだろうか。「頭を使う」「考える」ということについて、みんなあまりにも安易に考えすぎていないだろうか。

コロナ時代に考える

話は飛んで、現代社会の考察へ。

コロナ時代において「頭を使う」「考える」とは何だろうか。

コロナ禍は今も続いているが、この時代ほど「科学」や「データ」や「AI」が我が物顔で社会をまかり歩いた時代もないだろう。今がチャンス!とばかり科学者たちがメディアに露出した。メディアは、彼らの声に耳を傾けることこそが「正しい」態度であり、頭のいい振る舞いであるというような空気を醸成し続けた。そこでは、私たち人間の持つ肌感覚での実感は軽視された。それは、私たちが自分の頭を使って考えることが悪とされたようなものではないか。「考えるな。専門家の言うことを聞け。データとシミュレーションに身を委ねろ」ということを私たちは言われ続けてきたようなものではないか。

そうして私たちは、本当に考えない習慣を身につけてしまったように思う。今や、いつどういう状況でらならマスクを外すべきか、事細かに政府に指示してもらうことを求めるようになっている。自分の感覚的な判断を、自分で信用できなくなっている。
「合成の誤謬」という用語があることぐらいは私も知っている。中央集権的な判断がにしたがって皆が画一的な行動をとるほうが良い結果を生むことがあることももちろんあるだろう。

しかし、それも行きすぎると危険である。人間の感覚によるフィードバックがなければ、やはり私たちの社会は判断を誤ってしまう。


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