伊能忠敬、貝原益軒、与謝蕪村…「大器晩成」だった日本の偉人 #2 武士はなぜ腹を切るのか
「日本人は、もっと日本人であることに自信をもってよい」。そう語るのは、歴史学者の山本博文先生。江戸時代の専門家である先生は、著書『武士はなぜ腹を切るのか』で、義理固さ、我慢強さ、勤勉さといった日本人ならではの美徳をとり上げながら、当時の武士や庶民の姿をいきいきと描いています。昔の人はカッコよかったんだなあ、と素直に思えるこちらの本。一部を抜粋してご紹介します。
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日本人は昔から「学び好き」
「学び好き」の日本人について、いくつか話をしてきました。
このテーマの最後に、私見を加えておきます。江戸っ子たちはもちろん、これは日本人の本当に偉いところだなと、かねがね思っている点です。
とくに私が感心しているのは、ある程度の年齢になってから、独学で大成する江戸っ子が多かったという事実です。
たとえば、全国を測量し、日本地図を作製した伊能忠敬は、もとは佐原(現・千葉県香取市)の名主でした。天文学好きが高じて、天文学者の高橋至時に天文学と測量術を学ぶために、五十歳を過ぎてから江戸に出てきたという遅咲きの学者です。それから全国津々浦々を自分の足で歩き、精度の高い日本地図を完成させたというのですから只者ではありません。
また、忠敬が師事した高橋至時も、もとはといえば独学タイプ。同心(江戸幕府の下級役人で、庶務・警察などの任務に就くもの)として大坂町奉行所に出仕しながら、好きな天文学を極めて天文学者になったという変わり種です。
学者ではありませんが、貝原益軒なども、大器晩成型のひとり。
益軒は七十一歳まで城勤めを続け、そこから著作業に入ります。藩命で遊学したりもしているので、学びのスタートは必ずしも遅かったというわけではありませんが、著述を行ったのは隠居後です。
そのテーマは多岐にわたっていて儒学はもちろん、本草学、医学、地理、歴史、文学、農学などにもおよび、幕末に来日したシーボルトが「日本のアリストテレス」と評したほどでした。
学ぶのに遅すぎることはない
また、庶民向けの実用書なども手がけ『養生訓』は大ベストセラーとなりました。生まれつき虚弱だった益軒は、成長してからもさまざまな病に悩まされましたが、養生をした結果、晩年は比較的、健康だったようです。
『養生訓』は、その益軒が身をもって実践した健康法の集大成です。食事は腹八分目がいい、薬には頼るななど、現代にも通用しそうな考え方がたくさん書かれています。
ちょっと話がそれますが、江戸時代は出版文化が非常に華やかに花開いた時代です。『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)などの黄表紙のほか、『豆腐百珍』といった料理本、『都風俗化粧伝』といった美容本までありました。とくに『都風俗化粧伝』は大正時代まで版を重ねた、大ロングセラー本です。
閑話休題。
江戸時代に活躍した俳人・与謝蕪村は、五十歳以降の人生しかわかっていません。絵師としての作品が残っているのも四十歳くらいからで、「菜の花や 月は東に 日は西に」の名句が生まれたのは五十九歳くらいでした。
このように、日本人には、年を重ねてからひとかどの功績を残した人がいます。
勉強は、もちろん、ただ好きでするのでいいのですが、それだけではなかなか継続は難しいでしょう。ときに、何のために学んでいるのか、わからなくなることもあるはずです。
現代でも、還暦を過ぎてから大学に通う人がいますが、忠敬や益軒、蕪村の晩年の活躍は、こうした人たちにとっても、いい励みになることと思います。
学者のひとりとして、私はこのような日本人を、とても誇りに思っています。
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