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この男は純粋すぎる…医療制度の深部を鋭く描いた人気シリーズ! #3 孤高のメス

当麻鉄彦は、大学病院を飛び出したアウトサイダーの医師。国内外で腕を磨き、一流の外科医となった彼は、民間病院で患者たちの命を救っていく。折しも、瀕死の状態となった「エホバの証人」の少女が担ぎ込まれる。信条により両親は輸血を拒否。はたして手術は成功するのか……。現役医師でもある大鐘稔彦さんの人気シリーズ『孤高のメス』。その記念すべき第一巻の冒頭を、特別にご紹介します。

*  *  *

武者修行

「そうか、どうしても覆らんか?」

嘆息混じりにつぶやくと、羽島は窓へ視線を流した。一週間前窓にちらついていた雪は嘘のように桜が芽ぶいている。

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「申し訳ありません」

当麻は深々と頭を下げてから、自分も窓に目を流しやった。

「武者修行と言ったが……」

と羽島は、噤んでいた口を開いて正面に向き直った。

「取り敢えずは、どこへ行くつもりだね?」

「癌研の梶原先生のオペを見たいと思っています」

「なるほど」

羽島が呻くように吐いた。

「さすが、目のつけどころが違うな」

当麻は少しはにかむように微笑した。

「ウチの若い奴にもな、梶原さんのオペを見に行きたいから紹介状を書いてくれと言ってくるのがいる。練士の分際でだ。バカ、お前みたいなペーペーが梶原さんのオペを見たって何の役にも立たん、人の技術を盗み取るには、手前にもそれなりの経験と技量の積み重ねがいるんだ、オペの基礎もまともに出来とらん奴に、大家のオペなど到底盗み取れん、豚に真珠、猫に小判だ、と言ってやるんだ、ワシぐらいになってやっと梶原さんのオペを見てみたいと思うんだ、てな」

「先生は鋏の名手ですが、梶原先生は、噂に聞くところでは、電メスの達人だそうです」

「そうらしいな」

「一方で、乳房のオペは電メスは一切使わず、普通のメス一本でやり遂げると聞いています」

頷いたものの、羽島の顔に、素直に納得したという風情はなかった。若い日には手をつけたが、山中と去就を共にして関東医科大消化器病センターに移ってからは、乳癌に手を染めたことはない。

手術の速さにかけては、羽島は既に師の山中の域に達している。否、今やそれを凌ぐ、とさえ言われている。が、消化器以外にも広くレパートリーを誇っていた山中や、山中と共に日本の外科の一時代を画した梶原のオールラウンドな才能には及ばぬとの引け目があった。

「君は、消化器以外、たとえば、マンマにも手をつけたいのかね?」

心なしか咎めるような口吻で、羽島は若い門下生の顔を窺い見た。

「はい、マンマを扱うのが外科医である限り、手をつけない訳にはいかないと思います」

当麻は臆せず言い放った。

「ここにずっといれば、何もマンマまで手を染める必要はなかろうに」

「それは確かに、そうですが……」

羽島は相手が二の句を継ぐのを待ったが、当麻は視線を落としたまま唇を結んだ。

「どうやら、君の決意は半端なものじゃなさそうだな」

「御恩に報いられず、申し訳ありません」

当麻の顔が正面に戻るのを待って羽島は言葉を継いだ。

「だがな、物事は考えようでね。イソップ物語のウサギとカメじゃないが、君はただただ亡き兄さんの怨念を晴らさんものと、ひたすら、ウサギのように走っている」

かすかに首を傾けて問いた気な表情を見せた若者の澄んだ目を眩しく感じた。

「三十年という時の流れを、君は忘れていないかね?」

「どういう、ことでしょうか?」

「君が兄さんを失った当時、君の郷里のような医療過疎地は全国到る所にあっただろう。つまり、君にとっては唯一かけがえのない兄弟だったろうからこんな言い方は酷かも知れんが、君の兄さんのような犠牲者は、当時では氷山の一角に過ぎなかったと思われる。しかし、今日では、無医村と言われる地区はほんの数えるほどになってるはずだ。交通網も発達した。医学はさらに進歩し、少なくとも、虫垂炎を誤診して手遅れにしたというお粗末な状況はそうそう見られなくなった、と言ってもいいんじゃないかね?」

「そうでしょうか。都会と地方の医療レベルの格差は依然として変わらないような気がします。現に、このセンターには東京以外の近県から、どんどん患者が紹介されてきます。無論、先生を始め優秀な先輩方の実績、名声を慕ってのことでしょうが、それにしても、それほど地方には患者の信頼を集めるに足る医者が少ないのかと、悲しくなるのです」

「ま、現実はその通りなんだろ。ここでやってるようなオペをやれてる所は、東京だってそうザラにはないからな。まして地方においては、というところだが、地方と言ったってこれだけ交通が便利になった現在、患者にさほど不便を強いることはないんじゃないかね? 入院してしまえば、遠かろうと近かろうと、さして変わりはない」

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「患者が遠くから来る、そのこと自体はいいのです。でも、たとえば、このセンターでも、入院待ちの患者が何人もいます。進行癌であれば、ベッド待ちをしている間に確実に病状は進みます。地方のがんセンターなどでもそんな現象が起きているようです。

がんセンターの医者の技術が際立っている訳ではないし、そこでなければ癌が治らないという訳でもないはずですが、それでも人々は“がんセンター”という名に惹かれ、いわば“寄らば大樹の陰”的発想でそこへ群がるのです。そして、何日も、いや時には何カ月も待たされることになります。本当に患者のためを思うならば、癌の手術は他でも出来るからベッドの空いている所で早くしてもらいなさいと言ってあげるのが医者の良心ではないでしょうか?」

「しかしな、ワシなんかもそういう自負があるからよく分かるが、がんセンターの医者も、自分のところで引き受けるのが患者にとって結局は最善だ、と思うから敢えて他に回さないんだよ」

「そうでしょうか? 私にはどうも、それ以外の邪心が潜んでいるように思われて仕方がないのです」

「邪心?」

一歩も譲らない若者の熱い息吹を、羽島はいくらか息苦しく感じ始めていた。

「医療者が患者のこと以外に思いを馳せて為すことは、すべて邪心と呼んでよいのではないかと思うのです」

「たとえば?」

「たとえば、学会などで優越を得んがため、症例を他施設より少しでも多く集めようとすることです。そのために他へ回すべき患者をいつまでも待たせておくとしたら、これは医道にもとること、邪心に則ったことと言われても仕方がないと思うのです」

羽島は返す言葉を失った。

(純粋過ぎる! 確かにこの男は大学には不向きかも知れん)

まだまだ翻意させる余地はあると考えていた羽島の自信は、俄にぐらつき始めた。

(ここまで確固たるアイデンティティを持ってしまっては、もう自由にしてやるしかないか……)

「君の言っていることは確かに正論だよ」

羽島は、ややトーンの落ちた口吻でおもむろに口を開いた。

「だが、そのことと、君がここを出て野に下らんとすることと、どう結びつくのか、そのへんがもうひとつ分からんのだ」

「私は、そんなふうに、たとえばがんセンターのベッド待ちをしている間にどんどん悪くなっていく患者を救いたいのです」

「がんセンターの医者と張り合って、という意味かね?」

「そうではありません」

「どうももうひとつよく分からんな。君自身は、たとえばがんセンターに勤めようとは思わないのかね?」

「はい」

「何故? 大学病院は性に合わない、しかし、高度の医療はやりたい、それとも地方で、ということなら、がんセンターなどは最も相応しい職場だと思うんだがね」

「がんセンターにはそれなりのレベルの医者が集まっているでしょうから、敢えて私がそこへ行く必要は感じないのです。それよりも、がんセンターで対応し切れない、より多くの患者を引き受けるべき周辺の地域の病院が、がんセンターと同等、あるいはそれ以上のレベルを持つことこそ、これからの日本の医療界の課題ではないかと思いますし、私は、そういう病院でこそ働きたいのです」

「何となく分かってきたが、しかし、君も体は一つだ。癌患者は手に負えぬ、何でもがんセンターにと、送り医者に徹している地方の病院は数知れない。君はその内の一つにしか身を置けないんだよ。と、なれば、君の孤軍奮闘も焼け石に水のような気がするが……。

ワシは、君の才能をそんな所で浪費して欲しくないんだよね。むしろ、ここに留まってスタッフとなり、幾多の有能な後輩を育てて地方に送り込む方が、時間はかかるが、君の意図するところをよほどよく達成できるんじゃないかね? つまり、ウサギよりカメになることだが……」

「先生の仰ることもよく分かります。ただ、このセンターで育まれるのは消化器外科のエキスパートです。私が研修医時代を送った母校の関連病院、さては、練士の間に出向を命じられた地方の病院には、“外科”の看板を掲げている限り、ありとあらゆる患者が飛び込みます。練士六年で修めるレパートリーでは到底応じられない多彩さです。そして、その多彩さに追いつけずアップアップしているのが地方の病院の実態です」

「ウーン。良く言えば完全主義者、悪く言えば欲が深いんだよ、君は。一人で何もかも究めようとしても、これだけ疾病動態が複雑化している今日、ほとんど不可能じゃないのかね。重箱の隅をつついておればいい、とは言わんが、余りに手を広げ過ぎると、とんだ落とし穴にはまりかねん。

君がいかに有能でも、所詮一人の人間のやれることには限界がある。君は消化器外科に徹したらいいんじゃないか。膀胱や子宮にまで手を染めようなどと考えない方が……」

「先生は、地方の病院の実態を、本当にはご存知ないのです」

当麻の白皙の額に苦渋の影が走った。

◇  ◇  ◇

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孤高のメス 外科医当麻鉄彦 第1巻

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