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病院はサービス業なのか?…現役医師が描く感動のヒューマンミステリ #4 ディア・ペイシェント 絆のカルテ

内科医の千晶は、日々、押し寄せる患者の診察に追われていた。そんな千晶の前に、嫌がらせをくり返す患者・座間が現れる。彼らのクレームに疲幣していく千晶の心のよりどころは、先輩医師の陽子。しかし彼女は、大きな医療訴訟を抱えていて……。現役医師、南杏子さんの『ディア・ペイシェント 絆のカルテ』は、現代日本の医療界の現実をえぐりながら、医師たちの成長と挫折をつづったヒューマンミステリ。その一部を抜粋してお届けします。

*  *  *

陽子とともにコンビニでサンドイッチを買い、医局へ戻る。雑然とした部屋の中央にあるソファーに座った。テーブルの上を占拠する医学会誌や新聞をどけてレジ袋を置き、ひと息つく。

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「Mの下」やL患者との会話は、へたくそなキャッチボールを続けているようなものだった。医療に対する誤解、無秩序な薬の服用、検査拒否……。一生懸命に説明を尽くしても、患者の心へは届かない。受け止めてもらえなかったボールは遠くへ流れ、ときには目の前で叩き落とされる。

大学病院ではどうやっていただろう。大学の看板や、細分化された専門性に守られていたことに改めて気づかされる。

父は診療所でどう対処しているのか。

「陽子先生は患者さんたちから何か言われませんか?」

陽子の表情が一瞬、固まった。

「私、患者さんからのクレームが多くて参りそうなんです」

千晶がこぼすと、陽子はため息をついた。

「病院がデパート化したからね……」

「デパート化、ですか?」

陽子は暗然とした顔でうなずく。

「昔は、『治療さえ受けられればいい』というのが世間の空気だった。けれどデパートみたいに綺麗なインテリアに囲まれて、『病院はサービス業』というイメージが強くなったからクレームが増えたって聞いたわ」

「サービス業だから、サービスに不満があれば苦情を言うのは当然、ということですか」

「簡単に言えば、そうね。患者さんに悪気がある訳じゃない。医者が歩み寄らなければ」

陽子の言葉は、どこか自分に言い聞かせているようにも思えた。昔がいいとは思わない。だが、わざわざ患者のクレームを誘発しているような現状もしっくりこない。

「さ、食べよ、食べよ!」

陽子が「体力もたないよ」と言いながら、千晶の手にサンドイッチを載せる。陽子の明るい声に励まされるように、千晶はサンドイッチの包装を開ける。卵サンドをほおばりながら、ふと陽子の手元を見た。サラダに野菜ジュースだけだ。

「それだけ、ですか?」

「ほら、この間の健康診断のせいよ。体重が去年より増えちゃって……」

陽子はたいして大きくもない腹をさする。

「主人は、このままでいいって言ってくれるんだけどね」

たまにある陽子ののろけ話だった。

「ご主人、基礎系の研究されてるんですよね?」

「そうよ。医大の細胞免疫学教室に残って研究員やってるのよ。ちっとも稼がないで、論文ばっかり書いてる。子供がいないからいいけど、一緒に食事する日も少なくて。千晶先生、結婚の予定は?」

「結婚する気なしです。だってこの忙しさ、無理ですから」

口元を拭ったウェットティッシュを小さく折り畳みながら、千晶は首を振った。過去に恋人がいなかった訳ではない。けれど仕事を優先しているうちに、自然に消滅した。それで良かったと思っている。精進と言うと格好良すぎるかもしれないが、まずは自分が納得できるまで全力で仕事をしたい。

「あら、そうなの? 私はまだ子供をあきらめてないわよ」

陽子が少し恥ずかしそうに笑う。

「ご実家、富士五湖の近くって言ってたわよね?」

飲み会か何かの席で話したことがあった。

「ええ、向こうで父が診療所をしていまして。母はちょっと体調不良なんですが、代わりに妹が医療事務も一手に引き受けています」

「お父さんと一緒に働く予定は?」

不意を突かれた。何と答えるべきだろう。「昼休み」の時間はほとんど残されていない。昨晩の留守電の件を長々と話す訳にはいかなかった。それにまだ、この病院は勤め始めたばかりだ。少なくとも数年間はここで学びたいと思っているし、やる気を疑われたくもない。診療所を継ぐとしても、ずっと先の話だ。それでいいのかという気持ちもかすかにあるが。

「……いやいや、全く考えていません。父の医療は古臭くて学ぶところがないんです。それに、限界集落っていうんですか? 樹海の近くにある村里は閉塞感が強くて。そこそこ患者さんは来てくれるから経営は成り立っているんですが」

父があと三か月半で辞めると言ったことは話さないでおく。迷いの存在を知られたくなかった。いや、千晶自身も本当に迷っているのかどうかすら分からない。

「お父さん、おいくつなの?」

「七十四歳です」

他に誰もいない医局に沈黙が流れた。

「……まあ確かに、親子二代でうまくやっている病院なんて見たことないから、無理することもないわね」

そう言って陽子は、千晶にいたずらっぽく笑いかけた。

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拡大医局会議は、物々しい雰囲気で始まろうとしていた。会場に指定された七階の院内ホールには、内科、外科など各診療科の医局に所属する医師三十八人全員が集められている。ここに各科・各病棟の看護師長、事務職員らが加わって開会を待っていた。異例の形で開かれるこの日の会議では、病院のサービス向上をさらに推し進める方針が打ち出されると聞いていた。医師の態度をとことんまで矯正し、患者の前にひざまずかせる――。だが、そんなことが本当に患者のためになるのだろうか。この種の院内会議は、出席するたびに憂鬱になるばかりだった。千晶はぎりぎりまで病棟の回診を続け、最後列に座る陽子の隣にすべり込んだ。

午後三時半きっかり、佐々井記念病院の理事長兼院長である佐々井宗一郎と事務長の高峰修治が登壇した。五十四歳の佐々井より何歳か年下のはずだが、高峰は身長で院長を大きく上回り、押し出しもいい。先代の院長、つまり佐々井の父親から全面的な信任を得ていることが院内で大きな力になっていると聞いた。

佐々井院長が開会の辞を述べた後は、高峰事務長が、マイクを握って会議を仕切った。 それはもはや、事務長による一方的な宣言とも言えるものだった。

今後は、週二回のペースで「患者様プライオリティー推進委員会」を開催する。特に医師は必ず出席すること。委員会では、「患者様プライオリティー」の質を高めるための方策を議論し、院内全スタッフに対する徹底を目的とすること――などが言い渡された。

「現代の高度医療社会にあっては、患者様の医療機関への期待値は非常に高い。物心両面、すべてにおいてです。情報力のある患者様の目と耳は肥え、病院が提供するサービスと成果に対する評価は、日に日に厳しくなっています」

それは千晶も痛感している。背景にあるのは医療情報の洪水だ。各種の病院ランキング本、「名医」や「神の手」が毎日のように登場するテレビ番組、玉石混淆のウェブサイトを通じて、強固に理論武装している。

「一方で、医療リソースの地域的な偏在は顕著で、首都圏にあっては、病院間の過当競争が熾烈を極めております。当地・川崎市も同様であります」

都市部では病床が余っている。病院の会議では、耳にタコができるほど聞かされていた。川崎市内では、国が約四千と定めた基準病床数に対して約八百床が「過剰」とされている。精神科の病床も含めると、県内全体で過剰なベッドは約千五百床にのぼると聞く。

「これに診療報酬のマイナス改定が加わり、病院同士がしのぎを削る患者争奪戦は、絵空事ではありません。時代に取り残された病院では、すでにリストラ、吸収合併、閉院、自主廃業が現実のものとなっています。だからこそ当院は、他院と差別化を図るべく、患者様プライオリティーの戦略を最大限に活用しなければなりません。受診患者数の維持はマイルストーンに過ぎず、撤退する病院の受け皿として五割増しを見込んでいます」

前列に座った年配の医師が、隣席の医師に小声で尋ねた。

「マイルストーンって何?」

「日本語なら一里塚。プロジェクトの中間目標ってことですよ」

そう答えたのは、カネゴンこと金田直樹。千晶と同じ内科所属で二年上の先輩だ。

「ふうん、銀行屋らしい言い回しだなあ」

高峰事務長は確か、四菱銀行の出身者だ。本店の営業部長を務めたものの早期退職。先代の院長から三顧の礼で佐々井記念病院に迎えられた元エリート金融マンという話だった。

「医局にある先生方の机は、畳半畳分です。その土地代は、先生たちがいない時間も病院が負担しなければならないんです。皆さんがいるだけで、必要経費が発生しているんですよ」

しわひとつない白いワイシャツにはカフスボタンが、ネクタイにはタイピンが付いている。革靴は先が細く、光っていた。隣に座る佐々井院長の、白衣の下にはポロシャツという機能重視のスタイルとは大違いだ。

「利益を生まなければならないというのは、経営のいろはの『い』ですよ。赤字になって、どうやって皆さんの給料が出ると思っているんですか、セ・ン・セ・イ・ガ・タ!」

マイクを持つ手首に巻き付いたロレックスが激しく揺れた。院長はどこか憮然とした表情でマイクの主を見上げる。人の好い三代目院長は、かつて脳神経外科医としては知られた存在だったが、マネジメントはあまり得意ではないという。病院経営の主導権は、完全に高峰事務長に握られている。

やがて壇上の事務長は、演説の締めくくりに入った。

「……今日この瞬間から患者様プライオリティーは、単なる運動やかけ声ではなくなります。これは、佐々井記念病院の生き残りをかけた経営戦略です。先生方の生活を安定させるためにも、どうぞしっかりご認識ください」

閉会の言葉と同時に、椅子と床の擦れ合う音があちこちで響いた。医師たちの顔はどれも暗然としているように見える。病院という職場の中で、医師や看護師、介護士の多くは「転職組」だ。組織への忠誠心以上に、仕事そのものへの情熱が身を支えている面が大きい。一方で機敏な動きを見せるのは、事務局の職員たちだった。事務職員も別の業界や他の病院での勤務を経た人が少なくないはずだが、高峰は彼らをきっちり統率している。こういうのがマネービジネスの世界で身に付けた力量なのか。

「恐怖政治かよ――ったく、むかつくな」

ギャラリーのようなホール前室を抜けて階段を下り始めた千晶と陽子に、後ろから声がかかった。スタバのグランデカップを手にした金田だ。

「クレーマーみたいな奴らも患者サマなのかねえ。そこからお手当てをいただいてるって、俺らは立派なお医者様だな」

金田の言葉はいつも以上に冷たく、皮肉っぽかった。

「クレーマーって疲れるよね、カネゴン」

面と向かって金田を「ウルトラQ」の怪獣名で呼べるのは、陽子くらいだ。

「クレームなんて、しょっちゅうですからね。僕は慣れちゃいましたよ。あいつら、言わなきゃ損だっていうくらいの勢いですから。こっちもそう思って対応すればいいだけです」

「ど、どう対応すればいいんでしょう?」

千晶は思わず身を乗り出した。

「クレーマー対応の方法? そんなの配られたマニュアルに書いてあるんじゃない?」

金田が言うのは「佐々井記念病院 患者様対応マニュアル」のことだ。高峰事務長の発案で、全職域の職員向けに〈What to do / How to do〉がまとめ上げられたものだった。黒表紙の大冊で、題字横には「院内限り」の文字が赤く印刷されている。

「俺、暇じゃないし。そもそも新人の指導料なんて一円ももらってないから」

金田は引きつったようなせせら笑いをし、千晶たちを追い抜いていった。

「カネゴンはホントにカネゴンだわ。千晶先生、気にすることないからね。あの性格は手の施しようがないから」

金田の背中を見送りながら、陽子がため息をつく。

「カネゴンも彼なりに患者のことを考えてはいるんだと思うけど」

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