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離婚、再婚、不倫は当たり前?…意外とおおらかだった江戸時代 #3 武士はなぜ腹を切るのか

「日本人は、もっと日本人であることに自信をもってよい」。そう語るのは、歴史学者の山本博文先生。江戸時代の専門家である先生は、著書『武士はなぜ腹を切るのか』で、義理固さ、我慢強さ、勤勉さといった日本人ならではの美徳をとり上げながら、当時の武士や庶民の姿をいきいきと描いています。昔の人はカッコよかったんだなあ、と素直に思えるこちらの本。一部を抜粋してご紹介します。

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不倫で「死罪」になっていた?

江戸時代、武士の結婚は家同士のものでしたが、町人たちは結構自由にしていたようです。ただし、相手は親が選ぶ場合がほとんどで、恋愛結婚は珍しかったといわれています。

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この頃の結婚適齢期は、女性に限っていえば十六~十七歳。年増といえば二十歳過ぎの独身のことを指し、いまの感覚からは相当ズレがあります。

一方男性はというと、一生を独身で過ごすものも少なくありませんでした。というのも、江戸には男性の数が女性に比べて圧倒的に多かったのです。

また、職人は一人前にならないと妻子を養うことができず、商家の奉公人は住み込みがふつうでした。つまり、どうしても晩婚化してしまい、十代半ばで嫁ぐ女性とはかなりの年の差が出ます。そうすると結局は、不倫が起こります

不倫は江戸時代、「密通」と呼ばれ、発覚すれば極刑に処せられました。幕府の基本法典である「御定書百箇条」には、「密通した者は男女とも死罪」とはっきり定めています。死罪とは、斬首のうえ死体を刀の試し斬りにされる刑のこと。逆にいえば、密通現場を押さえた夫が、その場で妻と相手の男性を斬り殺しても、罪には問われませんでした。

とはいっても、さすがに幕府も不倫くらいで殺すのは忍びないという思いがあったのか、示談にする方法もとられています。示談金を払えば、死罪を免れることができたのです。

示談金は七両二分、いまのお金で百万円くらいです。そのため、七両二分を貯めてから不倫相手を探すといったふざけた人もいたほど。まぁ、それは冗談にしても、江戸時代は、現代の私たちが思うよりもガチガチではなかったようです。

「三行半」は江戸時代に生まれた

また、離婚・再婚がそんなに珍しいことではなかったため、不倫する前に三行半を交付して自由の身になり、あたらしい相手と結婚するといったことも、たくましくも行われていました。

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いまでも離婚届のことを「三行半」といったりしますが、これは江戸時代、離縁状を三行半で書いたことに由来しています。

内容は「私の勝手(都合)で離縁するのであって(あなたのせいではありません)、今後、あなたが誰と結婚しようとかまいません」というもの。離婚の本当の理由は書きませんでした。子どもを産めないとか悪い病気があるとか、嫉妬深いなどの理由があったとしても、妻を傷つけることになるため「縁がなかった」とだけ記すのが通例だったのです。

どうしても相手(とくに男性)が離婚に応じない場合、いまのように裁判はありませんが、駆け込み寺がありました。有名なのは鎌倉の東慶寺(神奈川県鎌倉市)と上州の満徳寺(群馬県太田市)。

縁切寺に駆け込もうとしてうしろから追いかけてきた夫に門前で捕まりそうになったときは、草履やかんざしなど、身につけるものを門のなかに投げ込めば、駆け込んだとみなされました。そして、寺に入れば足かけ三年の奉公で離婚が成立したのです。

一方、未練を残す夫に因果を含めて無理やり縁切状を書かせて離婚し、ほかの男性と結婚した女性もいます。先述のように、江戸の町では女性の数が圧倒的に少なかったため、離婚してもすぐに相手が見つかったからでしょう。

ただし、離縁状は庶民だけの習慣であって、武士たちの場合は妻が実家に戻って、その後は両家がよく話し合って離婚が成立しました。妻が家に帰ると、その後はふたりが二度と顔を合わせることはありませんでした。

当時は家格のつりあいを重視した結婚が多かったため、いざ添ってみれば性格の不一致、という悲劇も多かったようです。

「二夫にまみえず」などといわれる江戸時代ですが、このように離婚も再婚も不倫も、ふつうにありました。江戸っ子たちはそういう風潮のなかで、思いっきり、泣いたり笑ったりしながら、一生懸命生活していたのでしょう。

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