『真夜中の底で君を待つ』#1
序章 真夜中のくらげたち
◇
夜になると、くらげがやってくる。
いつも、眠りの森から追い出されたように、ふと目が覚める。カーテン越しに見える暗い空や、闇の中で微かに光る時計の針の位置を確認して、まだ真夜中だと悟る。
ああ、また起きちゃった、と思う。
世界は静まり返っていて、家の中も耳がきいんと痛くなるほど静かで、私はまるで夜の遊園地にひとり取り残された子どものように、膝を抱えて天井を見上げる。
するととたんに、生温い薄闇の中から、次々にくらげが生まれ、何千、何万という大群になって、津波のように一気にこちらへ押し寄せてくる。
瞬く間に私の身体は、透明のゼリーみたいなぶよぶよの物体に包まれ、もちろん顔にも何十匹ものくらげが貼りついて、身動きもとれず声も出せず、それどころか呼吸さえできないような、そんな気持ちになる。
息が苦しくて、本当に苦しくて、私は反射的に胸元に手をやり、ぎゅっとつねる。左右の鎖骨の間の、少し下のあたり。
空洞が、そこにある。
それを、服の上から爪を立てて、強くつねる。
子どものころから続く儀式みたいなものだ。そうすると少しだけ、息苦しさがましになるような気がするのだ。
酸素を求めて喘ぐような浅い呼吸を繰り返しているうちに、ふと、窓辺の黒猫と目が合った。
あの日の記憶が甦がえってくる。
私はふらりと立ち上がり、黒猫の前に立った。空洞をつねっていた指の力を緩め、色褪せてしまった小さな頭をそっと撫でる。
目を閉じて、瞼の裏で記憶をなぞる。もう何度も何度も、擦りきれるほどに思い返している記憶。
そして、『秘密のおまじない』を心の中で唱える。
深呼吸して、とんとんとん。深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。目を瞑ったまま、軽く握った手でかたわらの机に触れ、そっとノックをするように三回叩く。
悪いことが起こりませんように。何もかもうまくいきますように。たくさんの幸せが訪れますように。大丈夫、大丈夫。もう何も怖くない。
もう何百回、何千回と繰り返してきたから、おまじないの言葉は、まるで息をするようにすらすらと出てくる。
こんなおまじない、効果なんてない。祈りも励ましも、意味なんてない。
そう分かっているのに、気がつくと私はいつも、誰もいない部屋の片隅で、ひとり机を叩いている。
深呼吸して、とんとんとん。深呼吸して、とんとんとん。
静かすぎる暗闇に響く柔らかい音の余韻に包まれて、私はまた浅い眠りについた。
◆
とうとう世界が終わったのか、と思った。
束の間の夢から醒さめて、ゆっくりと目を開けたとき、視界のすべてが澄んだカナリア色の光に満たされていた。
部屋の中に視線を巡らせる。天井近くの明かり窓から、外の光が射し込んでいた。
明け方の青白い光でも、真昼の真っ白な光でも、夕暮れどきの真っ赤な光でもない、透き通るような薄黄の光。
ひどく美しかったが、どこか不気味だった。
見慣れた天井が、見慣れない色に染まっているのを見て、不思議な浮遊感とかすかな焦燥を覚える。惰眠を貪っている間に地球が滅亡してしまったのかと錯覚してしまうほどの、異様な光景だった。
滅びゆく星は、きっとこんな薄気味悪い色の光に満ちているのだろう。
もやが立ち込めたような起き抜けの鈍い頭で、そんな幼稚な幻想を抱く。
少し頭がはっきりしてくると、なんのことはない、ただの気象現象だと冷静になった。
激しい雨が止んだあとや、台風の目の只中など、荒天がふいにおさまったときに、このような色に空が染まることは、ままある。ちょうど黄昏どきに多いような気がする。思えば今日も、朝方ベッドに入ってから、窓に打ちつける雨の音で、何度も眠りを妨げられた覚えがあった。おそらく昼中降っていたのだろう。
身を起こして枕元に目を向け、もうずっと埃をかぶったままの目覚まし時計で時間を確認すると、16時を回っていた。
ベッド横の窓のブラインドを少し上げてみる。雨はすでに止んでいたが、世界はまだどこもかしこも湿っていた。分厚い雨雲に濾過された太陽光が、雨上がりの街を黄色く染め上げている。しばらくしたら夕焼け色に変わるのかもしれない。
ふう、と知らず溜め息が洩もれた。
また一日が終わっていく。
刻々と変わりゆく世界が映し出された青白いスクリーンをぼんやり眺めながら、自分だけがいつまでも、どこにも行けないまま、何も変わらないまま、ひとり時の止まった世界の片隅に座り込んでいる。
1章 黒縁さんのこと
◇
私の一日は、まるで時間割のようにきっちり決まっている。
6:30、起床。小学生のころからずっと同じ時間に起きているので身体が覚えてしまったのか、夜どれだけ眠れなかったとしても、朝になるとスマホのアラームが鳴る前に自然と目が覚めるようになった。
起きたらすぐに制服と通学鞄を持って部屋を出て、洗面所の横を通るときに制服を衣装ケースの上に、鞄はリビングの入口に置いておく。トイレを済ませたら洗面所に戻って、さっと顔を洗い、適当に寝癖を直す。
前は寝癖なんて気にもとめなかったけれど、バイトを始めてからは最低限の身だしなみは整えなくてはいけないかなと思うようになった。と言っても、顔を洗うついでに濡れた手でぱぱっと撫でつけるくらいだけれど。
今日の寝癖はなかなかしつこい。
6:35、パジャマを脱ぎ、洗濯かごの中の汚れ物とまとめて洗濯機に投入。洗剤と柔軟剤と漂白剤を入れ、スタートボタンを押す。制服に着替える。
6:40、台所に移動して、ふたり分の食事を作る。私の朝ご飯兼お父さんの晩ご飯。メニューはだいたい毎日同じようなものばかりだ。ご飯に味噌汁、玉子焼きとほうれん草のおひたし、炒めたウインナーと焼き魚。あとは海苔の佃煮や納豆、漬物などを冷蔵庫から出すだけ。見た目や栄養バランスよりも、とにかくさっと用意できることと、傷みにくいことが最優先だ。
ふたり分の皿に盛りつけ終わったら、余ったおかずは弁当箱に詰めていく。
6:50、朝ご飯を食べる。終わったら、食器を洗う。そのあとお弁当の粗熱が取れているのを確認して、蓋を閉めて保冷剤と一緒にランチクロスで包み、通学鞄の中に突っ込む。
7:05、洗濯機のブザーが鳴ったら洗面所に行って、洗濯物をかごに移す。濡れた服って、どうしてこんなに重いんだろう。ベランダに移動して、物干しざおにかけていく。
毎日まったく同じ時間に、まったく同じことをしている。時計を確認しなくても、何も考えなくても、身体が勝手に時間をカウントして、勝手に行動している感じだ。
ときどき、ふと、ロボットの中にいるみたいな気分になる。一日の動作すべてがプログラムしてあって、自動で次々に動いてくれるロボット。私はそれを操縦する必要もなく、ただぼんやり座っているだけでいい。なんにも考えなくていい。
すべての家事と身支度を終えると、家の中から音がなくなる。
洗濯機が回る音も、蛇口から水が流れる音も、コンロの火の音も、調理器具や食器が立てる音も、洗濯物を叩いてしわを伸ばす音も、歩き回る自分の足音も、すべて消える。
耳が痛い。軽く頭を振ってから、静寂を振り払うように、シャッと音を立ててカーテンを閉めた。
7:15、火の元と戸締まりを確認してから、家を出る。アパートの駐輪場にある自転車にまたがり、最寄りの青南駅に向かってペダルを漕ぐ。けっこう飛ばすので、髪やスカートがばさばさと風に躍る。
7:30、駅の駐輪場に自転車を置き、定期で改札を通り抜ける。三番ホームに行き、下りの準急に乗る。満員電車というほどではないけれど、基本的に空席はない。吊り革にぶら下がり、窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめる。
7:50、瀬山駅で電車を降りて改札を出ると、同じ制服の人たちの波に乗って、高校に向かう一本道を歩く。
8:00、校門をくぐって靴を履き替え、教室に入って席についたら、ホームルームが始まるまでの間、ざわめきの中で宿題や小テストの準備をして過ごす。
教室は騒がしいからいい。家で勉強していると静かすぎて集中できず、妙に落ち着かなくなって呼吸がうまくできなくなる。だから、宿題が多くてどうにもならないとき以外、基本的に勉強は学校で空き時間にやると決めていた。
クラスメイトたちの絶え間ない話し声が、私の頭上を飛び交う。
私には雑談をするような友達はいない。家に帰っても誰もいないので、口を開くことはない。バイトがなければ、一日中まったく声を出さないことも珍しくなかった。
授業中はひたすら板書をノートに写し、指定された問題を解く。教室移動のない休み時間は教科書を見ながらチャイムが鳴るのを待ち、昼休みになったら窓の外を見ながら機械的にお弁当を口に運び、また午後の授業を黙々と受ける。
そして帰りのホームルームが始まるころから、またエンジンがかかり出す。ここからが私の一日の本番みたいなものだからだ。
「起立、礼。ありがとうございました」
15:45、号令に合わせて軽く頭を下げたら、帰り支度を済ませておいた荷物を持ってすぐに席を離れる。
朝と同じように、飛び交う言葉の下をくぐり抜けるようにして早足で歩き、放課後の教室を出る。まるで吹いても気づかれないくらい弱い風みたいに、誰も私の存在に注意を払わない。それがとても心地よい。本当に誰からも忘れられて、空気のようになれたら楽なのに。
「白川。おーい、白川」
このままそよ風になってひっそりと廊下を吹き抜けようと思っていたとき、突然後ろから名前を呼ばれた。
「……はい」
振り向きながら答えた声は、ひどくかすれてしまっていた。
そういえば今日初めて声を出したな、と思う。授業で指名されなかった日は、だいたいそうだ。
呼びかけてきたのは、クラス担任の中野先生だった。数学の先生なのになぜかいつも上下ジャージを着ていて、声が大きいし、よくしゃべる。そのせいか圧迫感があって、私はいつもこの先生の前ではうまく話せなくなる。
「三者面談の希望日時、まだ出てないぞ」
「……はい、すみません」
そう呟つぶやくと、先生が少し眉をひそめた。
「ちゃんとお母さんに渡したか?」
私はうなずくことも首を振ることもできず、黙って硬直した。
中野先生とは去年までは接点がなく、二年生に進級したこの四月から担任になったので、私の家庭環境を把握していないのだろう。
「まだなのか。提出物は配られた日にお母さんに渡すこと! で、すぐ記入してもらって翌日には持ってくる。これから進路関係で大事な書類も増えてくるからな、そういう事務的なことがきちんとできないと、大学受験では取り返しのつかないことになる場合もある。ちゃんと管理できるように今から気をつけておかないと。お母さんたちも大変なんだから、そんなことで困らせたらだめだぞ」
先生が早口で言う。厳しい口調ではないけれど、責められているような気がして、さらに身体が動かなくなってしまった。
うちにお母さんはいない。小学生のときからお父さんとふたり暮らしだ。
自動車部品の工場で夜勤の仕事をしているお父さんが帰ってくるのは朝8時、私が家を出たあとだ。そして昼間に寝て、夜8時ごろに出勤していく。
私は毎日学校から直接バイト先に行き、家に戻るのは夜なので、平日は基本的にお父さんと会うことはない。顔を合わせるのは週に二、三回、計数時間くらいだ。
だから、学校で配られたプリントをその日のうちに見てもらって次の日に提出するなんて、物理的に不可能だった。
でも、そんなうちの事情をこの場ですらすらと分かりやすく説明するなんて、私にできるわけがない。
どう答えればいいかと思い悩んでいると、中野先生が怪訝そうに顔を覗き込んできた。
「ん、どうした? 大丈夫か?」
「いえ、別に……」
そもそも今説明する必要もないように思えて、私はぼそぼそ言いながら小さく首を横に振った。
先生が少し黙り込んでから、今度はどこか心配そうな声で訊ねてくる。
「本当に白川は大人しいなあ。ちゃんとクラスに友達はできたか? 友達は宝だからな。来年の受験戦争を勝ち抜くためにいちばん力になるのはやっぱり仲間だよ。支え合って切磋琢磨して、みんなで一緒に学力を伸ばしていくんだ。だから、今のうちからひとりでも多く友達を作っておいたほうがいいぞ」
「……はあ」
あまりにもたくさんの言葉が飛んできたので、私はぼんやりと呟くように答えることしかできない。
「……うん、まあ、何か困ったことがあったらいつでも先生に相談しろよ。勉強でも進路でも人間関係でも」
先生は呆れたように、というか諦めたように軽く肩をすくめて、そのまま立ち去っていった。
その背中をちらりと見送り、ふうっと息を吐き出す。
私は人と話すのが苦手だ。『はい』『いいえ』以外の返事をしないといけないような複雑な言葉を投げかけられると、どう反応すればいいか分からなくなる。
授業で質問されたときや、バイトでのお客さんとのやりとりなど、元からしゃべる内容が決まっているときは、なんとか言葉が出てくる。でも、グループ学習の話し合いのように自分の意見を求められる場面や、世間話や雑談のようにはっきりとした正解や見本がなく、しかもどんどん話題が変わっていく会話では、何を話せばいいのかまったく思いつかないのだ。
言うべき言葉は自分の中にあるはずなのに、どこにあるのか分からなくて、全然見つからなくて、口に出そうにも出せなくて、何かが喉につかえたようになんにも言えなくなる。何か言わなきゃと言葉を探しているうちに、相手は私の答えを待ちきれずに他の人と次の話に移っているか、私に話しかけたことを後悔したように顔を歪めて去っていく。私はぽつんと取り残されて、ただぼんやりと佇たたずむ。
だから、黙って飲み込むしかない。何を飲み込んだのかも、自分ではよく分かっていない。
うまく飲み込めないときは、いつもの儀式をして、喉のつかえをとる。
そして、秘密のおまじないをする。深呼吸して、とんとんとん。
背中を預けていた壁をこぶしで軽く叩き、ゆっくりと息を吐き出した。
願いも祈りもない、ただの癖みたいなものだけれど、気持ちを切り換えたいときにはちょうどよかった。
15:50、学校を出て瀬山駅へ。今日は先生に呼びとめられたせいでいつもより遅くなってしまったけれど、小走りで駅に向かったおかげで、なんとかいつもの電車に間に合った。
16:20、青南駅で電車を降り、駅前にある喫茶店に入る。『珈琲カナリア』、ここが私のバイト先だ。
16:30、休憩室で店の制服に着替えてから、タイムカードを押す。ホールに出て、お客さんに水や料理を運んだり、注文をとったり、レジ対応をしたり、手が空いたら洗いものをしたりする。閉店時間まで、黙々とそれを続ける。
これが私の一日。平日はずっと同じスケジュールの繰り返しだ。
学校が休みの日は、昼からラストまでのシフトに入っている。
同じことの繰り返しだと、何も考えなくても毎日が流れていく。
それがとてもいい。