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石破茂を政治の道へ歩ませた、田中角栄の「殺し文句」とは? #4 田中角栄 上司の心得

菅義偉、岸田文雄と、どこか迫力に欠ける感のある最近の日本の総理大臣。国難の時代にあって強いリーダーシップが求められている今、再注目されているのが、永田町に数々の「伝説」を残した政治家、田中角栄です。なぜ彼は人を惹きつけ、人を動かしたのか? その秘密が書かれた『田中角栄 上司の心得』より、私たちの仕事、人間関係、子育てにも役立つ「角さんの教え」をご紹介します。

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もしあのとき出会っていなかったら……

「『いいか。次の衆院選に出ろ。おまえが親父さんの遺志を継がなくて誰が継ぐんだ』と、田中角栄先生は私の顔を正面からジッと見すえて言われた。あのとき、田中先生に出会っていなかったら、私は政治の道に入ることはなかった

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石破茂。自民党幹事長はじめ、防衛・農水・地方創生の各大臣を歴任、令和2(2020)年9月の自民党総裁選では菅義偉に敗北したが、まだ「ポスト菅」を虎視眈々と狙う姿勢が見受けられる。

その石破は、昭和61(1986)年7月の衆院選で初当選、田中派入りをして今日に至っている。筆者は以来、何度も取材で会っているが、石破から冒頭のような話を初めて耳にしたのは、いまから20年ほど前にさかのぼる。

冒頭の話に至る経緯は、次のようなものだった。

石破の父・二朗は、建設省事務次官を辞めたあと鳥取県知事を15年、その後、参院議員に転じて田中派入り、7年務めたあと、昭和56(1981)年9月に他界した。田中はその石破が亡くなる2週間ほど前に、鳥取市内の病院に見舞いに来た。喜んだ石破は、田中の手を握りながら、こう言った。

「一つだけ、願いを聞いて欲しい。いよいよのときは、あんたに葬儀委員長をやってもらいたい。最後の頼みだ」

この時期の田中は、精神的に相当参っていた。ロッキード裁判を抱える一方、「盟友」の大平正芳首相が急死、政権への影響力温存から後継として担いだ鈴木善幸の世論の評判もイマイチ、田中派内も竹下登の勢いが増すなどであったためである。

さて、こうした中、石破の「最後の頼み」に頷いた田中だったが、亡くなった石破の葬儀が、知事をやっていた関係で鳥取県民葬となったことで、葬儀委員長は当時の鳥取県知事が務めることになり、田中は友人代表として出席、弔辞を述べるにとどめたのだった。

ここから先が、泣かせる「角栄流」となる。

石破茂は後日、県民葬出席の礼のために田中邸を訪れた。県民葬には3500人もの弔問客があり、盛大に父親を送り出すことができたなどと頭を下げる石破に、田中はそばにいた秘書の早坂茂三にこう命じたのだった。

おい、青山葬儀所をすぐ予約だ。県民葬が3500人なら、ここに4000人を集める。石破二朗との葬儀委員長の約束は、県民葬という筋から果たせなかったが、青山では『田中派葬』でやる。ワシが葬儀委員長だ」

時に、自民党葬の話もあったのだが、党葬になれば葬儀委員長は自民党総裁でもある鈴木善幸首相になってしまう。ために、当時の田中派は衆参両院議員合わせて100人を超えていたが、なんともべらぼうに田中はこの全員を「発起人」とする、前代未聞の「派閥葬」とすることにしたのだった。

田中はこの席で、葬儀委員長として涙を浮かべながら弔辞を読んだ。石破茂は、田中の弔辞に胸が熱くなった。

「石破君。君との約束を、私はいま今日こうして果たしている……」

後日、石破は改めてこの「田中派葬」の礼のため、再び田中のもとを訪れた。慶大法学部を卒業、三井銀行(当時)に入行してまだ間がなかった石破に向かって、田中が言ったのが冒頭の言葉だった。

石破は、田中の言葉に“殺された”と言ってよかった。石破は父親を失い気持ちが落ち込んでいる中で、「おまえが親父さんの遺志を継がなくて、誰が継ぐんだッ」と、絶妙のタイミングで琴線を揺さぶられてしまったということだった。

こうした「殺し文句」の一つも使えないような上司は、上司としての強い求心力は得られない。部下の上司への印象もまた、極めて薄いものになることを知っておきたい。

角栄の巧まざる人心掌握術

しかし、田中の「殺し文句」は、決して恣意的なものではなかったことが重要だ。波乱の人生で身についた、“巧まざる人心掌握術”と言ってもよかった。大蔵大臣の頃、こんな光景があった。

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新幹線の車中で、ある社会党のベテラン代議士と乗り合わせた。国会の論戦では、丁々発止、ケンカ腰になることもある相手である。支援の労組幹部と一緒のその代議士を見つけた田中は、自らツカツカとその人物の席に歩み寄り、言ったのだった。

「参った、参ったよ。予算委員会では、すっかり君にうまいところを突かれたなァ。(労組幹部に向かって)彼がもし自民党にいたら、とっくの昔に大臣か党三役くらいはやっている器だよ

後日、東京に戻ったこの代議士、このときの話が労組全体に知れ渡り、「先生は本当はなかなかの人物なんだ」と、大いに株を上げたというのである。以後、この代議士は田中に頭が上がらなかった。国会での政府追及も、どこかキレ味が鈍ったものであった

「殺し文句」の効用を知るべしである。

ちなみに、その後、石破は田中の言に添って〈鳥取全県区〉(中選挙区制)から初出馬、父親の「弔い合戦」も手伝って当選を飾っている。しかし、その前年、すでに田中は脳梗塞で倒れており、政治家として、直接、田中の薫陶を受けることはなかったのである。

「それが、心残りだった」と、石破は瞑目したものだった。

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田中角栄 上司の心得 小林吉弥

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