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汚名をすすぎ、責任を取る…切腹は「ただの悲劇」ではなかった #4 武士はなぜ腹を切るのか

「日本人は、もっと日本人であることに自信をもってよい」。そう語るのは、歴史学者の山本博文先生。江戸時代の専門家である先生は、著書『武士はなぜ腹を切るのか』で、義理固さ、我慢強さ、勤勉さといった日本人ならではの美徳をとり上げながら、当時の武士や庶民の姿をいきいきと描いています。昔の人はカッコよかったんだなあ、と素直に思えるこちらの本。一部を抜粋してご紹介します。

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彼らは「自主的に」腹を切った

もうひとつ、切腹の話をしましょう。さきほどお話しした切腹は、自分や家、主君に降りかかった「汚名を雪ぐ」ことが目的でしたが、もうひとつの切腹の理由に「責任を取る」という意味合いがあります

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責任を取るための切腹といえば、「宝暦治水事件」が有名です。

宝暦(一七五一~六四)は、江戸時代中期ごろ。薩摩藩が幕府の命令で濃尾平野の治水工事を行っていました。

洪水をくり返していた木曽川、長良川、揖斐川の三河川の分流工事だったのですが、この工事期間中、幕府の役人との軋轢や現地の農民との対立が原因で、五十四名もの薩摩藩士が切腹しました。そのほか三十三人の病死者も出しています。そのうえ、たいへんな難工事で、四十万両近くの工事費がかかってしまいました。

藩財政を悪化させ、多くの犠牲者を出してしまったということで、総責任者だった家老・平田靱負も、工事の完了直後に責任を取って腹を切って果てました。

また、文化五年(一八〇八)に起きたフェートン号事件でも、責任を取るための切腹が発生しています。

事件の発端は、イギリス船フェートン号が、長崎湾内に侵入して長崎出島のオランダ商館員二名を拉致したことです。交渉の結果、オランダ人は解放され、フェートン号は薪水、食料などを得て退去しましたが、外国船の狼藉を許したことに責任を感じた長崎奉行の松平康英は、事件を江戸幕府に報告したあと、奉行所の庭で切腹して果てました

現代の人たちはこれらの事件を聞くと、悲劇だと思うことでしょう。腹を切らされるなど、むごいことだと思うはずです。

しかし、これは強制された死ではありません。彼らは自主的に腹を切っています。つまり、武士は自分で責任を取れるだけの身分だった、逆にいえば、自ら判断して責任を取らなければならなかった、ということになります。

死人に鞭を打たない日本人

武士は何といっても江戸時代における為政者であり、いちばん高い身分の者。それ以外の身分の者とは違う、高い道徳意識、倫理観をもっていましたし、またもっていなければならない存在だったのです。

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だからこそ、失敗を犯したり、不都合が起こったりした場合に、それに対して自分で責任を取った。その手段として、武士には切腹が許されていたのです。

これは日本特有の考え方です。死ねば許される。

もちろん、切腹したからといって、事態に根本的な解決がなされるわけではありません。しかし、命を絶ったものに、もはや責任を問うわけにはいかないと感じてしまいます。それは、「死人に鞭打つ行為」を、日本人は卑しいことだと考えているからにほかなりません。

一方、東アジアの国々では、すでに埋葬されていた死者を掘り起こして、改めて刑罰を与えることさえあります。ヨーロッパではそこまでの話は聞きませんが、それでも、死ぬことが、イコール責任を取ることにはなりません。

もしかすると、日本人、とくに武士にとっては、自分よりも家が大切だからこそ、成立した考え方なのかもしれません。

自分が死んでも家は残ります。失敗や不名誉の根本的な解決にはならないものの、死ねば責任が問われることがないのであれば、子々孫々、末代まで影響することはなくなるわけです。そういう意味でも、切腹こそは日本人独特の、責任の取り方ということができる。

現代でも、亡くなった人に鞭打つような行為は、日本人は絶対にしません。それこそが、この厳しい世の中を生き抜いた先達、あるいは死という「いつか行く道」を先に行った先輩に対する、日本人なりの敬意なのだと私は思います。

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