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湯の道へ、ようこそ…笑って泣いて心がととのう感動物語 #1 湯道

建築家として独立した三浦史朗。しかし最近、仕事がうまくいかない。実家の「まるきん温泉」は父亡きあと、弟の悟朗が継いでいる。時代遅れの銭湯を畳んで、不動産で儲けようと考えた史朗は、父の葬式にも帰らなかった実家を久しぶりに訪れるが……。

クリエイターの小山薫堂さんが企画・脚本を手がけ、主演に生田斗真さんを迎えた、いま話題の映画『湯道』。二月からの公開を記念して、文庫『湯道』から一部をご紹介します。

*  *  *

古くから日本人は、自然を敬いながら生きてきた。
 
自然を手本として運命に抗うことなく、ただひたむきに精進する……それを人は道と呼んだ。
 
茶道、華道、香道、そして湯道……。
 
日本には様々な道が存在するが、そこに到達点はない。
 
日々の暮らしの中に己の道を見出し、それを磨き続ける。
 
その向上心こそが、人生を輝かせるのだ。
 
そう、この物語のように。

プロローグ


もう一度川へ行けば、準備は整う。
 
まだ太陽が完全に姿を現さないうちに、男は茶屋を出て3度目の水汲みに川へ向かった。早朝の山は手つかずの新鮮な空気で満ちていて、呼吸をするたびに心地よく、体の中が洗われていくようだった。
 
数分で川に着くと、男は大きな石に片足をかけ、注意深くバランスを取りながら川の緩やかな流れに桶を入れ、水を汲んだ。そしてその水を河原に置いた大きな樽に注ぎ入れた。これを何度も何度も、繰り返した。樽がいっぱいになると来た山道を戻る。水でたっぷり満たされた樽はかなりの重さがあるが、男はその重みをまったく感じさせない様子で、でこぼこした山道を歩いて行った。
 
厨に繋がる茶屋の裏口から入り、それぞれ片手に携えていた桶と樽を置く。
 
あとは火だ。
 
厨の竈に薪を一つひとつ丁寧にくべていく。藁に火をつけ、あっという間に燃え上がったそれをすばやく薪に移した。しばらく薪の様子を見てから、男は次に釜を手に取った。黒々した、よく使い込まれている釜。それを軽くなでるように手で擦ってから台の上に置き、樽から柄杓ですくった水を注いだ。半分ほど水を入れた釜を竈の上に置いて、沸くのを待つ。
 
戸を一枚隔てた部屋の向こうから、女のうめき声と、幾人かの声が重なって聞こえてくる。
 
男は竈の火に目をやった。ここまで集中するのは、久しぶりだった。


釜の湯が沸くと、湯杓ですくってたらいに移した。樽に残っていた水もそこに少し注ぐ。時々、高い位置から熱い湯を湯杓で落とし、冷ましながら、たらいの湯を最良の湯加減に導いていく。
 
集中していると、水がまるで生き物で、それを手懐けているような気持ちになる。ただただ湯の声に導かれるように、男は湯を調えていく。
 
戸の向こうから聞こえるうめき声が一層大きくなった。そして、ほんの一瞬の静けさののち、赤ん坊の産声が響いた。ああ、ついに生まれた。男は一瞬、湯杓を持つ手を止めた。すでに日は昇り、山は朝を迎えていた。窓からたらいへ陽が射して、きらきらと喜ぶように湯が光っている。
 
やがて厨に、生まれたばかりの赤ん坊を抱えた助産師が入ってきた。
 
「女の子です」

赤ん坊は真っ赤な体を震わせながら泣き声を上げている。男がうなずくと、助産師はそっと赤ん坊をたらいの産湯に入れた。男の右手が赤ん坊の頭を支える。たらいの中の湯が赤ん坊の全身を包んだ。
 
数秒も経たないうちに赤ん坊はピタリと泣き止んだものの、少し顔を歪めた。ああ、また泣いてしまうと男は少し焦ったが、しかし赤ん坊はふにゃふにゃと、気持ち良さそうに口を動かした。男は赤ん坊の頭を支えながら、湯杓でお湯を優しく、生まれたばかりの体にかけていった。赤ん坊があまりに気持ちよさそうな顔をしたので、男もついつられて微笑んだ。ふと顔を上げると、初老の女性が、穏やかな笑みを浮かべながら部屋の入り口に立ち、男と赤ん坊を見つめていた。
 
赤ん坊に産湯をかけていくうちに、自分自身の体や、思考にまとわりついていた濁った澱のようなものまで、剥がれ落ちていく感覚があった。この子はきっと、風呂が好きになるのではないか。いや、なってほしい。赤ん坊の穏やかな顔を見て、そう感じた。
 
「湯の道へ、ようこそ」と、男はそっと赤ん坊にささやいた。

◇  ◇  ◇

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湯道


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