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今日も医療現場は戦場だった…現役医師が描く感動のヒューマンミステリ #1 ディア・ペイシェント 絆のカルテ

内科医の千晶は、日々、押し寄せる患者の診察に追われていた。そんな千晶の前に、嫌がらせをくり返す患者・座間が現れる。彼らのクレームに疲幣していく千晶の心のよりどころは、先輩医師の陽子。しかし彼女は、大きな医療訴訟を抱えていて……。現役医師、南杏子さんの『ディア・ペイシェント 絆のカルテ』は、現代日本の医療界の現実をえぐりながら、医師たちの成長と挫折をつづったヒューマンミステリ。その一部を抜粋してお届けします。

*  *  *

第一章 午前外来

高台へと続く道を一気に上った。少し息が切れて立ち止まる。

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道脇のヒマワリはほとんど花弁を失い、下を向いていた。夏の盛りを過ぎた九月の半ばだ。

坂の上には、医療法人社団医新会・佐々井記念病院があった。七階建ての病棟は最新の医療をアピールするかのように光沢を帯びた外壁で覆われている。道行く人に、あらゆる治療が可能だと錯覚を抱かせるには十分な外観だった。

振り返ると、眼下には住宅街が果てしなく広がっている。

この坂の下、川崎市矢上区に住む人たちが今日も病院に押し寄せてくるのだ。区内に二十万人、市内全体では百五十万人、そして神奈川県内には……。

そう思うだけで、真野千晶は動悸がしてきた。

千晶は約半年前に、佐々井記念病院の常勤内科医になった。

ここはいわゆる市中病院と呼ばれる民間の総合病院だ。ベッド数百五十の中規模医療施設で、地域医療を支えている。

診療だけでなく研究や教育も比重が大きい大学病院に対して、市中病院は診療が主な機能になる。医学部を卒業して以来、三十五歳の誕生日を迎えるまで大学病院で勤務を続けていた千晶にとっては、戸惑いが多かった。

大学病院と市中病院では、与えられた機能以上に、何かが明らかに違う。その一番の違いを、いままで千晶はうまく説明できなかった。

大学病院に所属するかたわら、いくつもの市中病院で夜間や週末にスポット勤務をこなしていたときには、うっすらと感じてはいても、言葉にできなかった。

けれど、いまなら分かる。

「万里です。今日はお姉ちゃんに大事な話があるんだけど。お父さん、診療所の仕事を年内に辞めるって決めたから。山梨に戻ってきてくれるかどうか、今月中にちゃんと返事をください――」

昨晩遅くにタクシーで武蔵小杉のマンションへ戻ると、ソファーに置いた電話機の小さい光が点滅していた。実家の妹からだった。一分一秒を争う用件でなければ、携帯にはかけないでほしいと言ってあった。

少し改まった妹の声が、とがめるような口調だったことが思い起こされる。年内といえば、あと三か月と二十日しかない。

千晶はフッフッフッと小さな呼吸を繰り返した。気持ちを落ち着かせるために。

佐々井記念病院の駐車場を抜ける。パーキングロットには、すでに何台もの車が駐められていた。足取りは重い。午前七時半を少し回っていた。

正面玄関の前に立つ。大きなガラスの自動扉が開いた。目の前に楕円形の案内カウンターがあり、キャビンアテンダントのような制服に身を包んだ事務職員たちがほほ笑む。天井は、見上げなければ目に入らないほど高い。クリスタルの天窓を通してやわらかい光が降り注ぐ。カラフルな案内板、落ち着いた色の絵画、木目調のカウンター……。まるで高級ホテルか老舗デパートのような雰囲気だ。待合室にはピンク色の長椅子が並ぶ。

千晶は、患者の視線が自分に向けられるのを感じた。すでに、二十人以上はいると思われる患者が目の前で順番を待っている。にこやかな笑みを浮かべる職員たちと対照的に、彼らの多くは一様に無表情で、中には露骨に顔をゆがませている者もいる。

それは、体の不調や病気からもたらされたものだけではない。自分よりも医師の登院が遅いことに対する不満の表明だ。

そうなのだ。

これまで千晶が勤務した大学病院では気づかなかったが、佐々井記念病院でほとんどの時間を患者と向き合うようになって知ったこと――それは、患者たちの不満だった。

妹が残した昨晩の留守録が再び思い出された。

「――そっちの病院で、モンスターみたいな患者を毎日相手にして燃え尽きる前に、早く診療所を継いでよ。やせ我慢もほどほどにして。お姉ちゃんだけの体じゃないんだからね。じゃあ返事、待ってるから」

千晶は、視線を足元に落としながら足早に待合室を走り抜ける。午前九時の外来診療開始までは、まだ一時間半近くもあった。

佐々井記念病院は一階が外来診察室で、二階に検査室と医局がある。三階はフロア全体が手術室、四階から六階までは入院病棟、七階は院内ホールという造りになっている。

コンビニとスターバックスの脇を通り、自動販売機コーナーの陰にある扉を開けた。職員専用の裏階段があるのだ。

職員は、基本的には裏階段を使う。エレベーターは患者や見舞い客のものとされているから。何よりも患者の利益を優先するという「患者様プライオリティー」を唱える新事務長の方針は、病院のすみずみにまで行き渡っていた。

確かに体の不自由な患者が申し訳なさそうに乗り込んでくるのに、元気なスタッフがエレベーターを占領している様はみっともない。けれど当直明けで、めまいやふらつきがあるときは体にはこたえる。

二段飛びで二階に上がり、千晶は医局の手前にあるロッカールームで白衣に着替えた。

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医局に入ると、千晶の机の上には新しい医学雑誌や学会費の請求書が届いていた。その下には、保険の書類依頼が数枚、カルテとともに積み重ねられている。急ぎの用がないのを確かめ、千晶は部屋を出た。まずは病棟へ行き、受け持ちの入院患者二十人をすべて回診するためだ。

ナースステーションから、唱和する声が響いてきた。いつもの朝のミーティング風景だ。

「かしこまりました」

「承知しました」

「ありがとうございました」

「申し訳ございません」

「ただいま参ります」

看護師や介護士が輪になり、壁に貼られた「言葉遣い標準」を読み上げている。

この病院に着任して初めて見たときはぎょっとした。毎日聞いているうちに慣れはしたものの、違和感は残る。

「ウイ・スキー、ウイ・スキー、ウイ・スキー、ウイ・スキー、ウイ・スキー……」

「笑顔トレーニング」が始まった。何度となく、ゆっくり「ウイ・スキー」と発音し、メンバー全員の目尻や口元が自然な笑みを作り出していることを互いに確認している。

昨晩は、目が冴えてなかなか寝つけなかった。深夜にワインを多めに飲んでしまった千晶は、アルコール臭のする単語の復唱に軽い吐き気を覚える。

ミーティングが終わると、通常業務の開始が宣言された。

「真野先生の患者様は皆さん、落ち着いていましたよ」

当直の看護師から申し送りを受けた師長が千晶に報告してくれる。

千晶が帰宅してから今朝までの間に、担当患者には大きな変化はなかったようだ。少し安堵しつつ、ナースステーションから病棟へ向かう。

「具合はいかがですか?」

千晶は患者の部屋を回り、ひとりひとり様子を尋ねる。

「呼吸は楽になりましたか?」「お腹の張りはとれましたか?」「痛みはいかがですか?」「つらいところはありませんか?」など、声かけは患者の容態に応じて進めていく。

患者にとって、入院中に自分の病気が回復していくのは、至極当たり前のプロセスだ。医学の進歩と健康情報の流布を背景に、治療の成果に対する期待値は驚くほど高くなっている。

そして、調子が悪くない患者ほど病気以外のことを口にする。

「食事がまずい」

入院患者の不満は、これが一番多かった。

「隣のベッドのいびきがうるさくて眠れない」「天井の電気を消してほしい」「エアコンが利いていない」「エアコンが利きすぎている」などといった不平が続き、千晶のメモ帳はすぐにいっぱいになる。

病状の面では、受け持ちの入院患者二十人が全員、安定しているのを確認した。何人かの患者からは、「ありがとう」や「おかげさまで」という言葉もあった。

千晶の気持ちは少し晴れてくる。妹の万里が留守番電話に吹き込んだ辛辣な言葉が、千晶の毎日を言い当てているとは限らない。やせ我慢などではないはずだ。

裏階段をすばやく下りる。三階から二階にさしかかったところで、小さく折られた紙が落ちているのを見つけた。

広げると、A4サイズのカルテ用紙で、心臓血管の図解だ。上部には、「言」「宅」「言」と読める大きな文字が横に並ぶ。図解の周囲には、びっしりと細かい書き込みがあった。患者の病状に関する説明用のメモだろうか。字はひどく乱れており、心臓の「心」は一筆書きのようになっている。

それ以上、吟味する時間はなかった。千晶は紙を折ってポケットに入れる。

「真野先生、今日も多いですよ」

一階の外来診察室に駆け込んだところで、看護師に声をかけられた。同情の目をしている。ワゴン式の書架に並べられた受診患者のカルテを確認した。千晶に振り分けられた予約だけで、三十七人分のカルテがある。さらに予約なしの患者も加わる。

内科の診療ブースは全部で五つある。今朝使われているのは三ブースのみ。千晶の他に二人の内科医が外来患者を診る。千晶は消化器が専門だが、大きな病院ではないため専門以外の患者も回ってくる。

この日午前中の外来患者は、百五十人になる見通しだった。つまり内科医ひとりで五十人を診ることになる。

午前中の外来診察は九時から十二時までの三時間しかない。単純計算で三時間を五十で割ると、ひとり当たり三分半強だ。すべての患者の診療をその時間内で終えられるはずもなく、結局、正午までに全員をこなせることはめったにない。今日も午後二時までに終了できればいい方だろう。

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