汚れた金でつかんだ成功…青年実業家の復讐と野心を描くミステリー巨編 #4 天国への階段
家業の牧場をだまし取られ、非業の死をとげた父。将来を誓い合った最愛の女性・亜希子にも裏切られ、孤独と絶望だけを抱え上京した柏木圭一は、26年の歳月を経て、政財界注目の実業家に成り上がった。罪を犯して手に入れた金から財を成した柏木が描く、復讐のシナリオとは……。ハードボイルド小説の巨匠、白川道さんの代表作として知られる『天国への階段』。ミステリ好きなら一度は読みたい本作より、一部を抜粋してご紹介します。
* * *
厨房から死角になった一番奥のテーブルに腰を下ろす。
「最初に社長に声をかけられたのもこの席でしたね」
「おい、ここでは『圭ちゃん』だ。そのほうが落ち着く」
柏木のことばに中条が笑みを洩らした。
「メニューもむかしのままですね」
壁に貼られた品書きを中条が懐かしそうに見回している。
「また、トンカツか?」
冷やかすようにいい、柏木はビールと適当なつまみも合わせて注文した。
ひとしきり、想い出話に花を咲かせた。中条はビール二杯でもう酔いが回った顔になっている。
「ここで、圭ちゃんに声をかけてもらっていなかったら、今のぼくはなかった……」
しみじみとした口調で中条がいった。
「そんなことはない。おまえさんの才能をもってすれば、俺と出会っていなくても、きっと成功していたさ。感謝しなきゃならんのは、むしろ俺のほうだ。おまえの才能が俺の事業を躍進させる礎を作ってくれたんだ」
「そういってくれるのはうれしいけど、誰でもできることじゃないとおもう。コンピューターなんてことにはまるっきり興味がないのに、圭ちゃんはぼくのことばを信用して資金を出してくれた。それも親の遺産だったという大切なお金なのに……」
中条の才能は信じていた。しかし、その才能に賭けてみたかったからだけではなかった。あの金は、そんなふうに使うのがふさわしい、とおもったからだ。だいいち親の遺産というのも嘘だった。
この食堂で中条と初めて口をきいたのは、W大の二部に合格した年の秋、柏木が二十三歳のときのことだ。
二十歳になったばかりの年の暮れにそれまで住んでいた南品川の青物横丁の街を逃げるようにして飛び出し、この近くの神田川沿いのボロアパートに転がり込んだ。
それからというもの、昼は四谷の不動産会社に勤務し、夜は受験を目指すというハードな生活を二年ほどつづけ、やっとのおもいで志望のW大学への入学を果たした。
そのころの柏木は出勤前の朝食やたまの休みの日の夕食に、この千草食堂を度々利用していた。いつもひとりで来ては黙々と食事をしている中条の姿に気づいてはいた。朴訥な田舎の若者――。中条に抱いた第一印象は、それだった。特に親しくなりたいとおもったわけではない。中条と口をきいたのはふとしたことがきっかけだった。
もらった招待券で映画を観に行く予定が、急な用事で行けなくなった。しかし映画はその日で終わりで、招待券は紙屑同然となる。朝食を摂ったあと、ごく自然に柏木はテーブルに座っていた中条に声をかけていた。
中条が同じW大の学生であることは見当がついていた。理工学部です――。はにかんだような顔をして答えた中条に柏木は親近感以上のなにかを感じた。それ以来、中条とは急激に親しくなった。
時々遊びに訪れた中条の下宿先には、ソフトウエアやハードウエア関連の本が山積みされていた。柏木はコンピューターなどという類の物にはまったくといっていいほどに興味はなかったが、その世界の未来図を熱い口調でしゃべる中条の話を聞くのは好きだった。それについて語るときの中条の顔は光り輝いていて、柏木は、彼のことばのなかに、自分とはまた別の夢を感じ取ることができた。
三年生になった六月、柏木は大学の卒業を断念して退学届を提出した。そのころの柏木は、不動産業の世界で身を立てるべく日夜走り回る生活を送っていたからである。
中条もまた柏木同様の苦学生だった。岩手の田舎町の貧農の三男坊だった中条は何度も卒業をあきらめようとしたが、その都度、柏木は彼に救いの手を差し伸べて学業をつづけさせた。こんな生活をしているが、俺には遺産相続で得たまとまった金がある。出世してから返してくれればよい――。そのことばを中条は素直に受け取ってくれた。
しかし結局中条もまた、柏木のあとを追うようにして、柏木が退学した年の秋に退学届を提出した。
これからはコンピューターソフトの時代、それも家庭が舞台です――。そう熱っぽく語った中条の夢と信念にこれっぽっちも疑いは持たなかった。誰にも教えていない隠し預金が七千万ほどあった。柏木は中条に会社を設立することを申し出た。
圭ちゃんとぼくの未来をかけて――。中条の提案で、会社の名称は「フューチャーズ」とした。
その年の十二月十日、明大前の小さな事務所で「フューチャーズ」は、産声をあげた。しかし当初は苦難の連続だった。だが柏木は中条の才能と彼の夢を信じた。そのために注ぎ込む金を惜しいとおもったことなど一度としてなかった。
設立して五年ほど経ったとき、市場に参入してきた大手メーカーの開発したファミリーコンピューターが爆発的なヒットを飛ばし、それと同時に「フューチャーズ」も上昇気流に乗っていった。
時計を見ると、七時半になろうとしていた。イライラしながら自分の帰りを待っている横矢の顔が目に浮かぶ。
想い出話に区切りをつけ、残ったビールで乾杯してから腰を上げた。
表通りに出て、ふたたびタクシーを拾った。
「ところで、きょうはうちの会社を見るためにわざわざ出て来たわけじゃないんでしょう?」
過ぎゆく車窓の風景を目で追いながら、中条が訊いた。
「じつは、競馬場に行って来たついでだった」
「競馬場? 珍しいですね。そうか、奥さんのオヤジさんと一緒だったんですね」
「その予定だったが、スッポかした」
横矢が競馬好きなことは中条も知っている。たぶん無理やり誘い出されたとでもおもったのだろう。だが柏木は、競馬場をのぞいた本当の理由を中条に話す気にはならなかった。だいいち中条には、江成のことなどなにひとつとして教えてはいない。
競馬場をのぞいてみる気になったのは一昨日のことだった。
横矢と知り合ってから過去に一度だけ、一緒に競馬場をのぞいたことがある。以来、横矢とは馬の話をすることすらも避けていた。その理由を彼は、単に自分が競馬に興味がないからだとおもっているにちがいない。その横矢が久々に広尾の柏木の会社を訪れて、社長室に入って来るなり競馬の話を切り出したのだ。オークスに江成達也の馬が出走するという。
江成達也――。貸しビル業の大手「江成興産」の実質的オーナーであると同時に衆議院議員の肩書きを持つ。牧場経営に手を貸す彼はむろん何頭かの競走馬を所有している。しかし持ち馬の名前までは知らなかった。
適当に横矢の話を聞き流していたとき、柏木の目が手渡された競馬新聞の一点に釘づけになった。8枠17番の江成の持ち馬の欄だった。
ホマレミオウ。母カシワヘブン、父ブリティシュワンダー。馬主江成達也。
母馬、カシワヘブン――。柏木にとっては忘れようにも忘れようのない名前だった。
信じられない気持ちだった。カシワヘブンに子供がいた……。薬殺処分にはならずに、元気に子供まで産んでいたのだ……。
オークスにも馬券にも興味はなかった。だが柏木はただひと目、カシワヘブンの血を受け継いだホマレミオウという馬をこの目で見てみたいという衝動を抑えることができなくなっていた。それに馬主席には江成と一緒に亜木子も来ているのではないか……。
観戦したい、という柏木のことばに、一瞬横矢は怪訝とも半信半疑とも見える表情を浮かべた。しかしすぐにそれを満面の笑みに取って代えた。
横矢の胸のうちはわかっていた。
良い馬を持ちたい、というのが今年還暦を迎える彼の、長年持ちつづけている夢だ。そのための資金を義理の息子である自分に期待しているからにほかならない。
「しかし、今度のやつにはだいぶ気合が入ってるようだな」
新ソフト「プロミスト・ランド」に話題を振ってやると、中条が嬉々とした表情で彼が一番気に入っているというアイデアポイントについて話しはじめた。
「ちょっと寄ってゆきませんか」代々木上原のマンションに近づいたとき、中条がいった。「圭介はもしかしたら寝てしまってるかもしれませんが……」
気持ちが少し動いた。圭介の顔を最後に見たのは、今年の正月だ。それに中条はまだまだ「プロミスト・ランド」について語りたいようだった。
「いや、やめておこう。じつは、家で横矢が待ってるんだ」
「そうですか。きょうはとても愉しかったですよ」
中条のマンションの前で車が停まった。
白い歯を見せて背をむけた中条がマンションのなかに消えるのを見届けてから、柏木は中目黒にやってくれるよう運転手にいった。
山手通りを走る車の外に流れるネオンの明かりに見るともない視線をむける。
誰も知りはしない……。胸でつぶやく。
柏木グループの礎となった七千万余の大金――。元をただせば、捨ててしまいたい気持ちを抱いてひそかに隠し持っていた汚れた金がおもわぬ形で化けた代物だった。
その捨て場所を得たとおもったのは、不動産会社に勤める競馬好きの同僚が広げていた翌日開催の競馬の予想紙を目にしたときだった。大井競馬の第九レース。おもわず我が目を疑った。カシワドリームの子供であるカシワヘブンが掲載されていたのだ。数日来の雨で馬場は泥んこ状態だった。雨嫌いのカシワヘブンがまちがっても一着で来ることはない。
柏木は押入れの奥底から汚れた金を持ち出していた。
◇ ◇ ◇