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私、一度も真剣に愛されたことがない…30歳になった同級生4人の物語 #4 世界のすべてのさよなら

会社員としてまっとうに人生を切り拓こうとする悠。ダメ男に振り回されてばかりの翠。画家としての道を黙々と突き進む竜平。体を壊して人生の休み時間中の瑛一。悠の結婚をきっかけに、それぞれに変化が訪れる……。『世界のすべてのさよなら』は、芥川賞候補に選ばれ、ドラマ化もされた『野ブタ。をプロデュース』で知られる白岩玄さんの新境地ともいえる作品。その中から、第2章「翠」のためし読みをお届けします。

*  *  *

「ねぇ、巧」

呼びかけてはみたものの、そのあと言おうとしたことは口から出てこなかった。二人の将来について尋ねたら、不機嫌になって喧嘩になるか、はぐらかされるかの二択になるのはわかっている。でも自分の気持ちをぶつけても呑み込んでも、苦しむことになるのなら、私はこの悩みをどうやって解消すればいいのだろう? 今はまだそのときではないと、泣きわめく自分に言い聞かせ、巧がわけてくれる水をこぼさないように飲みながら、この干上がった大地を歩き続けるしかないんだろうか?

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「どうかしたん?」

巧が不思議そうに私を見ている。この男は本当に私の老いが見えているんだろうか。瑛一が言っていた通り、男が付き合っている彼女の老いに理解がないのは、単に相手のことを真剣に考えていないだけなのかもしれない。

「なんかわかんなくなってきちゃった……」

「何が?」

「巧との関係が。好きだけど、一緒にいたらつらくなる。巧がまだ若いのも、もちろん全部わかってて付き合ってるんだけどさ、なんかときどき、無駄な時間なのかなって思っちゃって」

巧はその一言でだいたい察したようだった。ベッドの上に沈黙が降りて、面倒くさい女だと思われているのがわかる。あるいはそう思っているのは私なのかもしれなかった。私は彼氏に求めてしまう弱い自分が嫌いだ。

「っていうか急にどうしたん? 俺らまだ付き合って一年経ってへんねんで? おまけに遠距離なんやしさ、まだまだお互いのこと知ってく段階じゃないの?」

傷口をさらすと、そこに塩を塗り込まれる。目を閉じて耳をふさぎたかったが、そんなことをしても現実が変わるわけではなかった。だいたいお互いのことを知るってなんだ? 私にはそれは買う気がない人の試食や、気に入らなかったら返品してもいいクーリングオフと同じに聞こえる。

重苦しい空気を断ち切るように巧がわざとらしく溜め息をついた。スマホを取り上げ、悪いけどもう出る時間だからと私に言う。勤め先であるバーの店長の腰がまだ良くなっていないから、彼は今日も店番をすることになっていた。

「話の続きは明日しよう。とりあえず仕事行ってくる」

巧はベッドから降りると外行きの服に着替え始めた。動かなくなった私を無視したまま、財布やたばこケースなど、必要なものを拾い上げて家を出ていく。玄関の扉が閉まると、冷たく固い静寂だけがあとに残った。

逃げたか……。

同じようなことが過去の恋愛でもあったからか、自分がまるで学習をしない愚かな生き物みたいに思えた。特別仕事に打ち込んでいたわけでもないくせに、二十代の十年間で何をやっていたんだと言われたらぐうの音も出ない。たぶん私はアホだったのだろう。リスクを恐れず、自分が好きになった人を信じて、いつか自分は幸せになれるとどこかでそう思っていた。

巧のために買ってきた大量のシャグや巻紙はベッドの上に打ち捨てられたままになっている。いっそ火を点けて全部燃やしたかったが、荒れ狂った魔女のような妄想は頭の中で消えていくだけだった。報われないのに、こんなものをたくさん買ってバカみたいだ。

ふとひらめいてベッドから降り、部屋の明かりを点けてクローゼットの取っ手を引いた。上に掛かっているたくさんの服を意味なく眺め、少しためらいはしたものの、透明なプラスチック製のチェストを開けて中を探る。お目当てのローリングマシーンはすぐ見つかった。銀色に光る表面を覗き込むと自分の顔が反射して映っている。

ローテーブルの上を片付けて、広いスペースを確保し、シャグや巻紙を傍らに置いて、準備万端で作業に挑んだ。前に巧がやってみせてくれた記憶を頼りに、裏面についている布を指でローラーに押し込み、できたU字形の溝に開封したシャグを詰める。

フィルターと巻紙をセットし、ゆっくりふたを閉めたものの、出てきたたばこは接着されずにくるんと元に戻ってしまった。そうか。巻紙の糊面を濡らすのを忘れていた。もう一度セットし直して、今度は忘れずに糊を唾液で濡らしてからふたを閉めた。記念すべき最初の一本はまずまずの出来だった。でもまだまだ改良の余地はありそうだ。

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その後はただシャグと巻紙を無駄に消費するためだけに手巻きたばこを作り続けた。七、八本作った頃にはもうすっかりうまくなり、美大時代の感覚が戻ってきて、久しぶりに集中力が高まっていくのを感じる。糊面に唾液をつける工程が毎回時間を食ったので、台所に行って食器棚から小皿を拝借し、そこに薄く水を張って海綿代わりに使うことにした。量産体制ができてしまえばこっちのものだ。

映画の内容や瑛一に言われたことに影響されて不安をぶつけるなんて、我ながら情けない話だった。でもいざ冷静になってみると、不安になったそもそもの原因は巧ではなく、今までの恋愛の敗戦の積み重ねによるものなのかもしれなかった。頑張っても頑張っても成果が出ない負け戦の連続に、私はもう疲れているのだ。そうなると、私が不安をぶつけたのは、実際には巧じゃなくて、巧を含む、私を愛してくれなかった男たち全員なんだというふうにも思えてくる。

延々とたばこを作りながら思い出すのは、こないだ竜平の誕生日にみんなで飲んだ日の朝、悠が私に言ったことだった。美和子ちゃんの元恋人の墓参りに行くなんてやめておけと私が止めたとき、あいつは「俺らにはそれが必要なんだよ」と言った。あれが私にはなかなかのハードパンチだったのだ。

別に自分だけの欲で言っているわけじゃない、二人の未来を考えた上での行動であることを感じさせたあの言葉が、私には確かな愛の言葉に聞こえた。もっと言えば、私は男の人から一度も真剣に愛されたことがなかったんだと、あのとき思い知らされた。

悠のことが今も好きなわけではないし、嫉妬に苦しんでいるわけでもないのに、悠の存在だけが変わらず心に刻まれているのは私にとっても不思議なことだった。きっとあいつの中にある何かが、私の心の柔らかい部分をがっちりとつかんでいるのだろう。悠との思い出で残っているのは、大学時代に二人で遊んでいたときのいくつかの淡い記憶だけれど、卒業旅行で瑛一や竜平と四人でパリに行ったとき、エッフェル塔に二人で登ってパリの夜景を見たことは今でも鮮明に覚えている。

あのとき悠は、夜景のきれいさにはしゃいでいた私の手をつかんで「あんまり乗り出すとあぶねーぞ」と気にかけてくれたのだ。そしてその手は展望台にいるあいだ、ずっとつながれたままだった。建物の高さが揃っているとか、道路の敷き方がきれいだとか、眼下に見えるものの感想をうわべで言いながら、私の意識はつながれた手の方にずっと留まったままだった。

今思い返せば陳腐で苦笑してしまうような思い出だけど、そういうのが意外といつまでも残っているものなのだ。でもだったらどうする? 過去を懐かしんでみても、私に残されている選択肢は今をどうするかだけだ。

テーブルの上に山のように積み上げられた手巻きたばこを眺めていると、瑞穂が印象に残ったと言っていた映画のワンシーンが思い浮かんだ。愛する人から自分の求める愛情を得られなかった主人公は、鏡に映る自分に向かって何度も同じことを問いかける。What do you want? 何が欲しい? 最初は寂しげだった彼の目は、いつしか自分が本当に求めているものを勇気を持って明らかにしようとしている人の目に変わっていた。そこに甘えはなかったはずだ。


定員が三人くらいなんじゃないかと思うような異様に狭いエレベーターの中で、赤いランプが「3」のところまで進むのをじっと待つ。扉が開くなり足を踏み出し、店の名前が書かれたドアを開けると、入ってすぐのテーブル席に座っていた顔見知りの常連さんが「おー」と私を迎えてくれた。

とっさに巧の彼女の顔になって会釈する。小さな店だが、他の客の話し声がうるさいせいか、巧は私には気づかずにカウンターでお酒を作っていた。大学生くらいの女の子二人に、自分のたばこケースを見せて何やらレクチャーのようなことをしている。

ナンパの道具に使うなよ。

私はまっすぐに巧のところまで歩いていくと、手に提げていた紙袋から、口を縛った大きめのビニール袋を取り出した。これまでの怨念を込めて作り上げた大量の手巻きたばこ。私が三時間かけてこしらえたそれは全部で百本はあるだろう。

巧は呆気に取られた様子でカウンターに置かれた気味の悪い土産物を見つめていた。さっきの女の子たちが巧と私の関係性を察したのか、他人の修羅場に巻き込まれてフリーズするような(でもそれをちょっと楽しんでいるような)顔をして交互に私たちに目をやっている。私はなんとなく勝利した気持ちになって仁王立ちのまま巧のことを見据えていた。

◇  ◇  ◇

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