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少年のころ大同江(テドンガン)のほとりで感じたこと

濁世(じょくせ)には濁世の生き方がある————。コロナ禍で再注目された累計320 万部超の大ロングセラー『大河の一滴』(五木寛之、1998年刊)から試し読みをお届けします。

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中学一年の夏、私は現在の平壌(ピョンヤン)街で敗戦を迎えた。学校が閉鎖され、思いがけない自由で混沌(こんとん)とした日々がはじまった。そんなある日、大雨で増水した大同江(テドンガン)のを泳いで渡ってみようと試みたことがあった。

この大同江(テドンガン)という川は不思議な川で、ときどき流れが逆流することがあった。河口の鎮南浦(チンナムポ)(現在の南浦)の海が満潮のときにそういう現象が起こるらしい。水流の表面と底のほうでは複雑に変化するらしいのだ。川幅も広く、とても泳ぎ切る自信はなかったが、十三歳の私はなぜか無鉄砲な冒険に賭(か)けてみたいという衝動を抑えることができなかったのだ。

しかし、途中まで泳いでいったとき、不意に底知れぬ恐怖感におそわれて、あわてて岸へもどった。水温と流れが急に変わったのである。手足はこわばり、あやうく下流まで押し流されそうな具合いだったが、なんとか溺(おぼ)れずにすんだ。岸にはいあがって、増水して黄色く渦巻く川の流れを日が暮れるまでじっと眺めていた。そのうちに、自分の体と心がその大きな水流のなかに吸いこまれて、一緒にどこまでも流れていくような異様な感覚をおぼえた。

少年の私が「運命の力」とでもいえるような大きな目に見えない流れをぼんやりと自覚したのは、たぶんあのときがはじめてだったような気がする。

あのときの不思議な感覚を、私はいまでもときどき思いおこすことがある。それは自分の存在が目に見えない大きなリズムにのって、無限に延長していくかのような奇妙な感覚だった。

そのころから今日まで、たくさんの川を見てきた。郷里の矢部川、筑後(ちくご)川、そして筑豊(ちくほう)の遠賀(おんが)川やその他の九州の川。やがて仕事で各地を旅するようになって、この国のさまざまな川を眺め、いつも川岸に立っては少年のころと同じ感覚をあじわった。

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(写真:iStock.com/marinhosmart)


インドの川、ロシアの川、中国の川や中南米の川、さまざまな川のほとりで水の流れを飽かず眺めたこともあったし、また戒厳令下の深夜のプラハで、カフカの小説のなかの主人公が渡っていく橋の上から、ヴルタヴァ川の黒い流れを何時間も眺めてすごしたこともあった。

そんな時間がとまったような無為(むい)の状態のなかで、いつも心に響(ひび)いてくる呪文(じゅもん)のような言葉がある。それは「大河の一滴」という、じつに月並みな文句だ。

「人はみな大河の一滴」

それは小さな一滴の水の粒にすぎないが、大きな水の流れをかたちづくる一滴であり、永遠の時間に向かって動いていくリズムの一部なのだと、川の水を眺めながら私にはごく自然にそう感じられるのだった。

孔子(こうし)や、鴨長明(かものちょうめい)や、そのほかのいろんな人が川の流れに托(たく)してさまざまな感想を語っている。それらの先人(せんじん)の言葉のようにかたちのととのった思索にはほど遠いが、私にも体の奥で血管の脈動のようにズキンズキンと響いてくる感覚がたしかにあるのだ。

人の死を「海への帰還(きかん)」という物語として思い描く。そして、さらに「空への帰還」を想像し、ふたたび「地上への帰還」を空想する。

私たちはそれぞれの一生という水滴の旅を終えて、やがては海に還(かえ)る。母なる海に抱(いだ)かれてすべての他の水滴と溶けあい、やがて光と熱に包まれて蒸発し、空へのぼっていく。そしてふたたび地上へ。

子供の絵のような幼い比喩(ひゆ)だが、私にはそれがたしかに目に見えるような気がするのである。

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