第16回_定期開催_映画祭__4_

自分だけは味方でいてあげよう┃整形アイドル轟ちゃん

嫌なものから目を背けるのも努力。現実逃避を非難する人もいるが、味わう必要のない苦しみからは逃げてもいいと私は思っている。

いじめられて死にたいと願いながら学校に行く必要はないし、セクハラをする上司のいる職場に留まる必要もない。立ち向かうことだけが正義だと言う人もいるけど、そんな根性論で一生もののトラウマを作るくらいならすべてから逃げるべきだ。

私は顔にコンプレックスを抱え始めた中学2年生から10年近く、自分の顔を否定し続けた。そんな私が一人暮らしを始めてから癖になったのが、鏡を見ることだ。

家にいる時は常にローテーブルの上に鏡を置き、ご飯を食べる時も、テレビを見る時も、友達と電話をしている時も、数秒おきに自分の顔を確認していた。「ああ、この鼻がもう少し高ければ横顔が気持ち悪くなくなるのに」とか「つり目すぎて怖いから睨んでるとか言われるのかな」とか、さまざまな角度から色々な行動をしている自分の顔を見て、常に否定しては改善点を探していた。

家の中では誰にも見られることなく、冷静に自分の顔を否定することができた。家の外で鏡を見て、「ブスのくせに顔を気にしている」と言われるのが怖かったので、家の中では思う存分眺めて、粗探しをした。

そして一点が気になり出すと止まらなくなり、クリニックへと足を運び整形をした。次々とコンプレックスを潰していく過程はある意味「努力」だったし、行動力と決断力には長けていた。でも私は一向に幸せにはなれなかった。

いくら鏡を見ようと、整形をしようと、コンプレックスがなくなることはなかったからだ。「整形は一回したら他のところが気になって止められなくなる」と言うが、その通りだった。始めは「二重になれば可愛くなれる」と思っていたのに、次は鼻、次は唇、次は輪郭と、終わりは見えなかった。

毎日、どんな角度から鏡を見たところでブスはブスだった。今日「ああ、ブスだなぁ」と気づいたところで、明日には改善されているという話でもない。見れば見るほどコンプレックスは強くなり、私は私をどんどん殺していた。

ある日、朝メイクをした後慌てて家を出たので、鏡をどこかに置いてそのまま見つからなくなった。いつもあるテーブルの上の鏡がなくて、落ち着かない。テレビが暗転するたびに画面に映る自分の顔を確認した。やはりその姿はブスだった。輪郭がごつい。でも、いつもとは違い、テレビの画面は鏡より鮮明に私の顔を映さなかった。「見られない」状況であるその日はなんだか精神が楽だった。 

私が嫌いな私の顔はいつもと同じく現実としてあるのに、「見ない」だけですごく楽だった。気になってそわそわして数回お風呂まで顔を見に行き絶望はしたものの、リビングに戻れば鏡はない。

1人暮らしを始めてもう5年ほど経つが、未だに鏡を見る癖は抜けきっていない。精神が特に弱っている日には「今日は見ない」と決めて出来る限りそれを守っている。

私にとって「今日もブスだ」という確認作業はもはや精神安定剤の代わりだった。小さな絶望を積み重ねることで大きな絶望を迎えた時に備えられる。自分のことをブスだとわかっていれば集合写真を撮った時に他人と比べて落ち込むこともない。

しかし今になってそれは違うとわかる。絶望を小刻みに味わって自分を慣らすことは無駄だった。鏡を見るだけの何の生産性もないあの時間は、見れば見るほどダメなところに気づいて落ち込ませるだけだった。それがわかっているのに見ることをやめられなかった。

改善しようのない現実と向き合い続けるのは、苦しい。それは、他人からの評価をどう受け止めるかという話とも繋がっている。
他人からの賞賛も非難も、それを絶対的なものだと思い込まないこと。私は変わらなくても相手が変われば簡単に評価は変わるだろうし、その逆も然り。いただいた意見はリアルタイムの声、それ以上でも以下でもない

だから私は、褒められようと、貶されようと、その声が私の未来を決めるものではない、ということを忘れない。

現実逃避も時には必要で、自分を否定する全てに立ち向かっていけるほど時間はないし、心もそんなに頑丈に作られていない。だから「向き合うべき現実」と「向き合わなくてもいい現実」の線引きをきちんとしよう。
どんなに努力しても変えられないものもある。「のれんに腕押し」で腕を痛めるだけだ。
 

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(次回は近日公開予定)

12月19日発売
イラスト@おさかなゼリー

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