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火葬を深く考える…じわじわ笑える旅エッセイ! #2 わたしの旅に何をする。

ヒマラヤ、ミャンマー、インド、ブルネイ。ある日、サラリーマンがたいした将来の見通しもなく会社を辞め、東南アジアの迷宮へと旅立った……。旅を中心に、ジェットコースター、巨大仏、ベトナムの盆栽、迷路のような旅館、石まで、一風変わったテーマで人気を誇るエッセイストの宮田珠己さん。今回は初期の傑作として知られる、『わたしの旅に何をする。』をご紹介します。

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人間の体は意外と燃えない

アジアを旅する以上、一度は決着をつけておかなければならない情景がある。

火葬だ。

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火葬と言えば、ガンジス河に臨むバラナシのマニカルニカーガートが有名であるけれども、そこは写真撮影禁止なので、写真を撮って自慢したりそれをネタに通ぶって人生観変わったとか言いたい人には、カトマンズのバグマティ河に臨む、パシュパティナートがお手軽である。

しかし、相手は火葬である。そんないい加減な気持ちで写真撮っていいのか、見世物じゃないぞコラ、という問題がある。何しろ人の死にかかわる問題であるから冗談ではすまされない。そこで今回は特別に、火葬について真面目に考えてみたいと思うのである。

さて、パシュパティナートに私はいる。

ここでは観光客はガートのすぐ横の橋からそれを間近に眺めることができる。

バグマティ河は河幅が狭いので、対岸からでも写真を撮ることができるが、どちらにしても写真を撮る場合、お気楽記念スナップという感じではちょっといただけない。もちろん笑ったりピースしたりしては不謹慎である。事態はピースどころではない。死んでるのだ

まあ現地の人はそんなことにお構いなく、笑うべきときはドヒャドヒャ笑っていたが、われわれはなるべく深刻な顔の方が良いだろう。参考までに白人の観光客を見るとさすがに心得たもので、皆一様に眉間に皺をよせ顔をしかめて、灰が自分の方にふわふわ漂って来ないよう手のひらで、エイ、エイ、とあおいでいた。

河岸に設けられたコンクリートの小さなステージのような場所に薪が積まれ、そこに白い布でくるまれた死体が載せられ、さらに上に藁が被せられて火が点けられた。

私はそれを見ながら、人間の体というのはなかなかパッと火がついて燃えるものでもないんだな、とまず感じた。燃えているのは下に敷かれた薪や死体に掛けられた衣服であって、死体はその中でだんだん膨張し、全体的にはやはり人間の形のままやがて白い肉汁が染み出してくる。指などはいつまでも五本なら五本、燃えないままある。

私は哲学的に考察しようと思うのだが、科学的に観察してしまい、脳の人生観とかがある領域になかなか思索が達しない。たぶん燃えているのが知らない人だからであろう。知っている人に突然火がついて炎上したら私ももう少し真剣に考えるかもしれない。が、その前に火を消して救急車を呼ぶだろう。

さらに火葬を眺めながら、本来こういう場面で人は何を考えるのだろうかと考えた。その考えの深さが顔ににじみ出て、そういう自分が結構素敵なのではないかとも思った。日本ではただのボンクラのようだが、実はこうして深く考えているのだ、なめんなよ上司とか、金返せ鈴木、などと哲学的に考えていた

人生観は変わったのか?

燃えていないようで、死体は着実に姿を変えていて、気づくといつの間にか黒いパンパンの塊になってしまって、おっさんが竹竿でつついてまとめようとしてたりする。死体の方は、そうはいってももともと誇りもプライドもあった人間であり、そんな簡単に小さくまとまるわけにはいかんワシにも意地があるぞやめんかいやめんかい、という感じで剛直に抵抗している。

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その剛直さと、なんとかまとめようとするおっさんの力が拮抗して死体がぐるっと回転しブレイクダンスみたいになったりする。そのうち脚とか腕とかがポキッと折れて、だんだんやっぱり小さくたたまれてしまう。思わず、おい、まだ若いんだから小さくまとまるんじゃないぞ、と応援したくなるが、若くなくて死んでるのだった

それでまあ大体燃えてしまうとザアッと河へ流してしまうのだけれども、どうも私の見る限り、流してしまうにはまだ指とかきちんと燃えていないのではないか。全体的にはもうわからないが、手や足の部分なんかはまだ人間のものとわかると思うのである。

そしてそのまま流してしまうその下流で、一般庶民が洗濯したり沐浴したり歯を磨いたりしているのはお馴染みの光景なのだが、つまりあれはプールで小便するようなもので、まあ水もたくさんあるし薄まるから大丈夫という公式の見解なのであろう。あるいは河幅十メートルに対し死体三つまでなら可とか、小学生以下の子供は大人同伴なら一人分タダとか決まっているのかもしれない。

このような生活の場でもあるバグマティ河に手や足の形をした黒い塊が流れていくのか沈んでしまうのか、とにかく洗濯物のジーンズに紛れ込んでいないことを祈るばかりである

以上が火葬のあらましというわけだけれども、思えば深い思索を巡らす前に死体は流れていってしまった。人が死んでいるのだから、もう少しいろいろ考えようがあったのではないかと思わないでもないが、指の形とか見ているうちに終わってしまった。少し後悔しながら周囲を見回すと、最初並んで見ていた白人観光客などは飽きてどこかへ行ってしまい、私ももう一体あらためて見るというのも何だか退屈な感じで、どうやら私は人生観が変わる機会を逸してしまったようであった。

というよりも、もともと変わる原型となるような人生観があったかどうかも疑わしく、ただまあ思ったことがあるとすれば、自分が死んで燃やされるときは、焼却炉だと何かのはずみで颯爽と生き返っても出られないので、なるべくならこうして外でぐわああっと燃やされる方が、途中でちょっと待ったできるからいいな、ということであった。

そして火葬で葬られたのが知っている人だったらと想像してみると、もはや燃やされたのは物であってその人でなく、想いは記憶の中を巡るだけなのではないか、とちょっと真面目に思ったのである。

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