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ブッダは究極のマイナス思考から出発した

濁世(じょくせ)には濁世の生き方がある————。コロナ禍で再注目された累計320 万部超の大ロングセラー『大河の一滴』(五木寛之、1998年刊)から試し読みをお届けします。

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毎日の暮らしのなかで、あまりにも人を無視した乱暴な扱いを受けることがある。なんてひどい連中だ、と腹から怒りがこみあげてくることもある。以前、共産党の独裁下の旧ソ連を旅していると、一日に何度となくそういう目にあったものだ。官僚たちだけでなく、ごく一般の庶民の端々にまで小権力をふりまわすいやな男や女たちがたくさんいた。しかし、そんな社会の片隅で、ときどき驚くような率直な人間性や、自然にあふれでる優しさと出会うこともしばしばあった。そして、そういうときのうれしさは、たとえようもなかった。

〈旱天(かんてん)の慈雨(じう)〉という言葉があるが、からからにひび割れ、乾ききった大地だからこそ降りそそぐ一滴の雨水(あまみず)が甘露(かんろ)と感じられるのだ。暗黒のなかだからこそ、一点の遠い灯(ひ)に心がふるえるのである。

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(写真:iStock.com/Gaschwald)


私たちは、人生は明るく楽しいものだと最初から思いこんでいる。それを用意してくれるのが社会だと考えている。しかし、それはちがう。

シェークスピアの『リア王』の登場人物がつぶやくように、「人は泣きながら生まれてくる」のだ。私はこれまでもくり返しそのことを書きつづけてきた。この弱肉強食の修羅(しゅら)の巷(ちまた)、愚かしくも滑稽(こっけい)な劇の演じられるこの世間という円形の舞台に、私たちはみずからの意志でなく、いやおうなしに引きだされるのである。あの赤ん坊の産声(うぶごえ)は、そのことが恐ろしく不安でならない孤独な人間の叫び声なのだ、と嵐(あらし)の荒野をさまよう老いたリア王は言う。

これをネガティブで悲観的な人生観と笑う人もいるかもしれない。しかし、かつてはブッダ(仏陀)の出発点も、「生老病死」の存在として人間を直視するところからだった。この「生老病死」を人間のありのままの姿とみる立場こそ、史上最大のマイナス思考だといっていい。

問題は、そこから出発する、ということではないだろうか。「泣きながら生まれてきた」人間、「生老病死」の重い枷(かせ)をはめられた人間、そのような人間のひとりとしての自分が、それでもなお、豊かに、いきいきと希望をもって生きる道があるのか。それともないのか。答えのないその問いに全存在を賭(か)けて二十九歳の青年ゴータマ(ブッダ)は旅に出たのだ。妻を捨て、子供を捨て、地位と名誉と平安な生活を捨てて、彼はひたすら人間探究の道を歩みつづける。

いまこそ私たちは、極限のマイナス地点から出発すべきではないのか。人生は苦しみの連続である。人間というものは、地球と自然と人間にとって悪をなす存在である。人は苦しみ、いやおうなしに老い、すべて病(やまい)を得て、死んでいく。私たちは泣きながら生まれてきた。そして最後は孤独のうちに死んでいくのだ。

そう覚悟した上で、こう考えてみよう。

「泣きながら生まれてきた」人間が、「笑いながら死んでいく」ことは、はたしてできないものなのだろうか。

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(写真:iStock.com/Olga Ignatova)


それはなかなかむずかしいことのような気がする。しかしマイナス思考の極(きわ)みから出発したゴータマは、少なくとも微笑(ほほえ)みながら病で死んだ。その臨終の物語は、彼が自分の上に影をおとす樹々(きぎ)の姿を「世界はすばらしい」と讃(たた)えつつ自然に還(かえ)っていったことを述べている。最大の否定から最高の肯定へ、マイナス思考のどん底から出発して、プラス思考の極致(きょくち)に達して世を去った人間だったからこそ、二千年後のいまも、多くの人びとはブッダの生涯に熱い心を寄せるのではあるまいか。

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