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「地獄は一定(いちじょう)」と思いたい

濁世(じょくせ)には濁世の生き方がある————。コロナ禍で再注目された累計320 万部超の大ロングセラー『大河の一滴』(五木寛之、1998年刊)から試し読みをお届けします。

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極楽浄土と一般に重ねていうところから、浄土と極楽は同じ世界のような受けとられかたをしがちだが、私はそうは思わない。

浄土は極楽ではない。地獄・極楽とは人が生きている日々の世界そのもののことだろう。「地獄は一定(いちじょう)」という『歎異抄(たんにしょう)』の中に出てくる有名な言葉を、死んだらまちがいなく地獄へ堕(お)ちるこの身、という読みとりかたは私はしたくない。

「一定」とは、いま、たしかにここにある現実のこと、と読む。

我欲に迷い、人や自然を傷つけ、嘘(うそ)を重ね、執着(しゅうじゃく)深きおのれであるがゆえに、死んだあとの地獄行きを恐れているのではない。

救いがたい愚かな自己。欲望と執着を断つことのできぬ自分。その怪物のような妄執(もうしゅう)にさいなまれつつ生きるいま現在の日々。それを、地獄という。

私たちはすべて一定、地獄の住人であると思っていいだろう。死や、病への不安。差別する自己と差別される痛み。怒りと嫉妬(しっと)。

しかし、宗教とは地獄にさす光である、と親鸞は考える。苦しむ魂を救うためにこそ信仰はあるのだ。それゆえに地獄に生きる者すべてはおのずから浄土に還(かえ)る。日々の暮らしのなかでも、一瞬、そのことがたしかに信じられる瞬間がある。それが極楽である。しかし極楽の時間だけが長くつづくことは、ほとんどない。一瞬ののちには極楽の感動は消え、ふたたび地獄の岩肌がたちあらわれる。

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(写真:iStock.com/nattya3714)

現実に生きるとは、そのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還(おうげん)(ゆきき)しながら暮らすことだ。

そして「浄土へ往生する」という意味は、生前どのような人であったとしても、すべての人は大河の一滴として大きな海に還り、ふたたび蒸発して空に向かうという大きな生命の物語を信じることにほかならない。親鸞が最後に到達した「自然法爾(じねんほうに)」とは、そのような世界だと私は思う。

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