見出し画像

ベルトコンベアには乗らない…医療制度の深部を鋭く描いた人気シリーズ! #2 孤高のメス

当麻鉄彦は、大学病院を飛び出したアウトサイダーの医師。国内外で腕を磨き、一流の外科医となった彼は、民間病院で患者たちの命を救っていく。折しも、瀕死の状態となった「エホバの証人」の少女が担ぎ込まれる。信条により両親は輸血を拒否。はたして手術は成功するのか……。現役医師でもある大鐘稔彦さんの人気シリーズ『孤高のメス』。その記念すべき第一巻の冒頭を、特別にご紹介します。

*  *  *

修練士

数日後、「修練士」六回生の修了式が滞りなく終わった。修了証書を得たのは十八名で、当初二十名入った内の二人は脱落していた。

画像1

この「修練士」制度は関東医科大消化器病センター独自のものであったが、そもそもは、羽島富雄の恩師に当たる現所長山中重四郎が欧米のレジデント制をモデルに作ったものである。

山中は、明治の黎明期以来ドイツ医学を継承してきたことが日本の臨床医学を著しく立ち遅らせてきたと考えていた。

試験管を振り、マウスやラットをいくら殺したところで、病人を診る目が肥え、腕が上がる訳ではない。殊に外科医は、メスを執って実践を積まなければ、およそ臨床医としての技量識見は培われない。

患者もろくすっぽ診られない者が、重箱の隅をつつくような基礎的な研究で、大した独創性も臨床応用出来る見込みもない小論文を作りあげて博士号を得、それを吹聴し、肩書に冠し、開業や宣伝に用いようとする魂胆こそあさましい。

基礎と臨床は自ら道を異にすべきであり、臨床医を目指すならば、体力的にも最も無理が利き、知識欲も旺盛な卒後数年間はひたすら患者を診ることに徹すべきである、と山中は事ある毎に自論を展開した。

だが、山中の奉職していた房総大は、ドイツ医学の伝統を遵守する国立大であり、外科のスタッフも、基礎医学的な論文の多寡によって昇進が左右された。

山中は、そうした国立大の因習にあらがい、臨床の実績によって周囲を屈服させてきた極めて稀な存在であった。

彼の名を一躍高らしめたのは、それまで惨憺たる成績でほとんど絶望視されていた食道癌の手術成績を飛躍的に向上せしめたことである。

食道は消化管の中でも特有の構造を持ち、胃や腸の外壁を成す強靭な漿膜を欠いているためにもろくくっつき難い。血行もまた胃や腸に比べて乏しい。従来の外科医達は、だからこそ食道と他の消化管をつなぐ時はより細かく縫い合わさなければと考えた。

だが、多くの例で縫合不全を免れず、一旦吻合部が裂けると、現在のように、中心静脈栄養なる手だてで外部から一日の必要カロリーを補って局所の栄養も保てる画期的な手段はなかったから、患者は栄養失調に傾き、傷口はさらに広がり、重篤な肺合併症や敗血症、さては腎不全を併発して敢えない最期を遂げて行った。

山中の発想は、まったく逆であった。漿膜を欠き血行も乏しい食道をギューギューしめつけるように縫ったらことさら血行不全を助長するばかりだ、と考え、吻合は出来るだけラフに行った。結果は縫合不全の激減をもたらした。実に五十数例連続して成功を収め、山中重四郎の名は日本のみならず世界にも轟いた。

彼はまた、手術時間の短いこと、即ち、クイック・ハンドとして世に知られた。胆摘は四十分、単純胃切は一時間、胃の全摘でも、吻合を最も多く要するρ吻合をもっぱらとしながら三時間そこそこでやり遂げた。

五十歳までに、彼は国手としての名声をほしいままにし、まさしくそのメスの際立ちで外科学界に君臨した。

だが、青天の霹靂が起こった。部下の助教授が薬の治験と引きかえに依頼主の製薬会社から法外な謝礼を受け取り、それを猫糞していた収賄事件が発覚、マスコミにスッパ抜かれたのである。

山中は潔かった。この不祥事を一つの転機と捉え、あっさり房総大から身を引いた。まだ五十代半ばで、メスの切れ味はいささかも衰えておらず、むしろ円熟の極みにあった。

国公立の大学病院や大病院からはお呼びがかからなかった。私大や私立の病院のいくつかが山中の名を欲しがった。

後者の中に、私大の関東医科大があった。本学と道一つ隔てた土地に、既に建設済みの「循環器病センター」と隣り合う格好で「消化器病センター」を建てたい、ついてはセンター長を引き受けてもらえないか、という、理事長直々のラブコールであった。候補者は他にも何人か挙げられていたが、山中の去就を知るや、彼の名が急浮上したのである。

理事の中には、いくら直接関わっていなかったからといって、いずれ部下の助教授は有罪の実刑判決を免れないであろう、と、なれば、収賄事件の責任者たるダークイメージは拭えない、そのほとぼりが冷めやらぬまま新規スタートのセンター長に収まるのはちょっとまずいのではないかとクレームをつける面々も半数近くあった。

しかし、山中のネームバリューはその一件でかえって増した、部下の尻拭いを自ら買って出たことは、山中の男を上げ、マイナスどころかプラスに作用した、と理事長は考えた。他の候補者が大方定年退職を間近に控えた高齢の教授達で、単なるお飾り的存在とみなされたのに反し、山中は尚現役の外科医として配下の者をリードして余力充分であり、それが何よりの魅力である、と口をきわめて力説した。

山中も関東医科大からの勧誘には大いに心を動かしたが、

「引き受けるについてはかねてよりの腹案がある。それを御容認頂けるならば」

との交換条件を持ち出し、表敬訪問した理事長にこう語った。

画像2

ドイツに代わって、今や世界の医学界のリーダーシップはアメリカがとっている。日本もいよいよ彼国の医療に範を求めるべきである。一言で言うなら、それはプラクティカルな医療、つまりは臨床医学の優先にある。その具体的なシステムが卒後のレジデント制であり、最低五、六年かけてみっちりオールラウンドに技術、知見の研鑽に努め、しかる後専門医の道を歩む。

一方我が国では、レジデント制に毛の生えたようなインターン制を一年設けているのみで、ほぼ一カ月単位で十いくつもの科をローテートするだけである。そうして一年後には、何を専攻するかを決めて一つの医局に入らなければならない。そこで教授を頂点とする教室の研究テーマの下働きをし、大した臨床経験も積まないうちに、下働きのお駄賃として学位(博士号)をもらう。

それを唯一の肩書に世の中へ出ても、およそ力不足で、第一線の臨床医は務まらないだろう。一番無理の利く、エネルギーが横溢した時代に体で覚えるトレーニングを受けなければ、少なくとも外科医として一本立ちは出来ない。

故に、自分としては、欧米のレジデント制に準じた、あくまで臨床主体、実践を重んじた卒後教育のシステムを設けたい。何故なら、私学である関東医科大の学生の大半は開業医の子弟であり、いずれ家業を継ぐことになるだろう。大学の助教授クラスの実力を持つ彼国の開業医のレベルを望むことは無理としても、何とかそれに近い実力をつけさせたい。欧米の物真似も癪だから、「レジデント」とは称さず、純日本風に「修練士制度」と名付けたい――。

「修練士」などといささか前時代的な名称に違和感を覚え異論を唱える理事も二、三あったし、独自のそんな称号が果たして市民権を得るのか疑問である、いわば私家族、自己満足的な称号に魅力を覚えて集まる新卒者がどれだけいるだろうか、と危惧する意見も飛び交ったが、これを呑まなければ来ない、と言うんじゃ仕様がない、ま、しばらくやってみて、思惑通りにいかなければ山中さんも途中で引っ込めるだろう、との結論に落ち着いた。

だが、山中の読みは当たった。

採用者二十名の枠は、関東医科大の卒業生だけでほぼ埋まった。これに他学からの志願者が二十余名加わり、競争率は二倍近くに及んだ。山中は、自校の卒業者を優遇することなく、筆記と口頭試問で公平に選りすぐった。

修練士の日常はハードを極めた。出勤は午前七時、すぐさま入院患者の採血業務に当たる。七時半からは講師以上のスタッフの回診に付く。八時半から手術患者のプリメディ(術前の準備)にかかり、九時には手術室に入る。麻酔に付くか、手術の第三、第四助手となる。

羽島富雄は門下生の中でも出世頭だった。論文を書くことは余り得意ではなかったが、そのメスさばきは若い時から山中の目をひいた。助教授が収賄事件を起こした房総大時代、羽島はまだ筆頭助手だった。山中が引責辞任するや、羽島も去就を共にした。山中はすぐさま羽島を助教授に引き上げたが、自分について来たという論功行賞だけではなかった。

羽島の手術の巧みさには、山中も早くから注目していた。食道よりも惨憺たる成績に終わっていた膵臓をやってみろと、山中はこの愛弟子にのれん分けを宣した。

羽島は期待に応え、最低八時間はかかるのが常識だった膵頭十二指腸切除を、五時間余りでやってのけて周囲をアッと言わせた。

消化器病センターには手術室が八部屋あって、手術は午前九時から一斉に始まったが、ここを見学に訪れた者は、たちまちある特異な現象に気付いた。八つの手術室の内、術者の姿がかき消されんばかりに人だかりのしている部屋が二つあった。山中と羽島が執刀している手術室である。

当初は、山中の七光りに甘んじていたキライもあったが、やがて、羽島は山中を凌ぐ国手、まさに“出藍の誉”であるとの評価が次第に高まって行った。

修練士の第一回卒業生を出す頃には、関東医科大の消化器病センターは、押しも押されもせぬ日本の消化器外科のメッカになっていた。年間の手術件数は日本で最多を数え、関東はもとより全国各地から患者が集まった。政財界、芸能界の有名人も、山中の房総大時代よりも多く集まった。

修練士の志願者も全国津々浦々から集まるようになった。

六年の修業を終えた修練士達は、三分の一はそのまま医局員として大学に残りスタッフ入りを目指した。三分の一は郷里に帰って地元の病院に勤めるか親の開業先におさまった。残りの三分の一は、二人三人と気の合った連中がかたらって病院を開設した。

当麻鉄彦は、この三つのいずれにも属さぬ道を選ぼうとしていた。その選択に驚いたのは、ひとり羽島だけではない。何故なら、同期生達は皆、彼がそのまま助手として大学に残り、間違いなくエリートコースが約束されたベルトコンベアに乗るものだろうと予測していたからである。

◇  ◇  ◇

連載はこちら↓
孤高のメス 外科医当麻鉄彦 第1巻

画像3

紙書籍はこちらから

電子書籍はこちらから

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!