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退職、それからの私…じわじわ笑える旅エッセイ! #3 わたしの旅に何をする。

ヒマラヤ、ミャンマー、インド、ブルネイ。ある日、サラリーマンがたいした将来の見通しもなく会社を辞め、東南アジアの迷宮へと旅立った……。旅を中心に、ジェットコースター、巨大仏、ベトナムの盆栽、迷路のような旅館、石まで、一風変わったテーマで人気を誇るエッセイストの宮田珠己さん。今回は初期の傑作として知られる、『わたしの旅に何をする。』をご紹介します。

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体力が足りない

会社を辞めるぐらいのことは、傍から見れば、今どきたいした事件ではないが、本人にしてみるとちょっとした一大事である。何よりも収入がなくなるのが痛い。

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私としては退職したぐらいのことで、給与の振り込みが打ち切られてしまうのは感心しないし大いに遺憾であるが、それが世間の常識である気もする。だがそれより本当に遺憾なのは、退職してからも住民税がガンガンかかってくることで、私は六月に退職したが、その年いっぱい税金を払わされただけでなく、収入のまったくないその翌年にもどーんとナマハゲのように振込用紙が送られてきたのである。おかげで退職して一年半もの長きにわたり、私は一方的に税金を振り込み続けたことになる。何でもこれは、入社一年目に支払わなくてよかった分を退職後に払っている理屈らしいが、私は一年半払い続けたのである。おかしいではないか。

おまけにただ生きているだけでもずいぶん金がかかる。これでは貯金も予想外の早さで目減りすると思われ、いつまでも旅行してないで、さっさと社会に復帰しなければならない感じである。考えるだけで頭が痛い。痛いけれども、しょうがない。

もちろん今後一切働きたくないというわけでもない。一度社会に出た人間として世の中の厳しさもよくわかっているので、長い旅さえできたなら後は贅沢は言わず、また働くつもり。さんざん外国でぶらぶらしてきた私をVIP待遇で迎えてくれて、しかも仕事は簡単で、収入は普通のサラリーマンぐらい確保でき、かつちょっと尊敬されたり、女にもてたりするそんな一流会社なら文句なく再就職し、控えめに働く覚悟はできている。あるいは小さな会社でも、将来有望なベンチャー企業から役員として迎えたいと言われれば、謹んでお受けしてもいいとまで思っている。

このように私はやる気だけはあるので、帰国後はそれで乗り切っていくしかないだろう。

とにかく、今さらガタガタ言っても仕方がない。もう辞めてしまったのだ。心配はこのへんにして、出発へ向け、話を加速することにする。

旅……。人はなぜ旅をするのだろう。

なんてことはまったく知ったことではないけれども、長い旅に旅立つに当たって私がひとつ懸念していたことがある。

体力だ

何しろ何カ月も旅行するのは、今までサラリーマンであった私にとって、初めての経験である。とりたててハードな旅をするつもりはないが、長旅は思った以上に体力を消耗すると考えられる。しかもサラリーマン時代は深夜残業の連続で、仕事から帰って床に就いても、気が張っているせいか神経質な性格のせいかなかなか寝つけないことが多かった。夜遅くに食事を摂るため、ベッドに入っても腹が張って重たく、それも眠れない一因となった。おかげで翌朝になると腹がこなれて仕事中はよく眠れた。

スポーツジムへ通うも……

私のいた会社では、毎年春に体力測定が行われており、そこでは自転車を漕いで持久力を測定するのだが、たしか三年ほど前、ふらふらになって漕いでいると、限界点を超えたのだろうか、ふとペダルが軽くなったので、

「おお、これはランナーズハイだ。私の底力が目覚めたのだ」

と思い、

「さすがむかし鍛えただけのことはある。残業なんか屁でもないぞ。世の軟弱な男とは出来が違うのだ。うりゃうりゃ」

とぐんぐん加速してみたが、なんだか自転車がピーという音をたてており、インストラクターが集まってきた。私の凄さを一目見ようと集まってきたのかと思えばそうではなく、心拍数が上がって危険信号が出たため測定中止になっていたのだった。

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それ以来、私の持久力は十段階評価でずっと一である。世の軟弱な男とは私のことであった。

ただし私の名誉のために付け加えておくが、それはあくまで持久力に関してだけのことで、例えば体前屈では指先が地面に届かないなど、硬派な一面も見せている

私は旅に向けて体力を増進すべく、短い期間だが、フィットネスジムに通うことにした。退職前から、仕事は二カ月近い有給休暇の消化期間に入ったので、平日の昼間だけ利用できる平日会員(会費が安い)になり、週五日毎日通って一気にバージョンアップする作戦である。

あくまで目的は体力の増進なので、つくってもらったプログラムはムキムキの筋肉をつけるのではなく持久力アップが中心だ。

ざっと説明すると、まず最初に軽くプールで三キロぐらい泳いでウォーミングアップとする。そのあとベルトコンベアみたいなマシンで五キロほど走って汗を流した後、今度はストレッチで体をほぐして柔軟性を高め、しばらく休憩してから、最後に十キロぐらい走れば本望である。だが、他の客とのバランスもあるので、一日に走る距離は全部で三キロ程度とし、そのぶん水泳面で、プールに似たジャグジーバスにできるだけ長くつかるというハードな内容に変更した。さらに灼熱のサウナに出たり入ったりするという、より厳しいメニューも自主的に追加した。トレーナーにエアロビクスも勧められたが、エアロビ専用のフロアに見学に行くと、みんな激しく動き回りながら笑っていたので、これについては怖くなって帰ってきた。

とまあ、大体このようなトレーニングを自分に課し、これを土日を除く週五日のうち、用事のある日、雨の日、寝坊した日、気分が乗らない日以外は毎日続けたわけである。やはり毎日続けることが何事も大切である。

実際、根気よく通い続ければ、インストラクターの女性に顔を覚えてもらったり、受付の女性とだんだん打ち解けるなど、めざましい効果が期待できる。一方でそうなると、みんなが五キロ十キロ走っているのに自分だけ三キロしか走らないのではかっこ悪く、いきおい走る距離が長くなるというデメリットや、プールへ行けば今度は別の女性インストラクターが水着で監視しているので、水の中で逆上してしまい、泳ぐどころの騒ぎではなくなるというメリットもあったが、それはフィットネスジムに通う以上は避けて通れない問題である。もちろん私は常識ある社会人なので、プールで逆上したときは、冷静に隣のコースを泳いでいるブヨブヨのおばはん等を凝視して気を静めた

何のためのフィットネスジムだったか忘れてきたが、とにかくこのたゆまぬ努力のおかげで、私はかなりの体力を取り戻したように思えてならない。

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