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珠季は一人、二瓶や桂との過去に思いを巡らせながら……。 #5 メガバンク全面降伏 常務・二瓶正平

東京、銀座並木通り。
路面に外国時計店や高級ブティックが続くその通りは、特別な贅沢さを感じさせる場所だ。
昼から夜になると別の姿が現れる。
通りの両側に建ち並ぶ雑居ビルには高級クラブが多く入り、昔から社用族の接待と憩いの場になっているのだ。

その並木通りが死んでいた。
路面店舗は全て閉じ、ビル内のあらゆるクラブや飲食店は営業を行っていない。
夜に灯が点ることがないのだ。
通りを行き交う人は殆どなく乾いた風だけが吹き抜ける。

「コロナという名の死神だけがいく」

湯川珠季は夕刻、その並木通りを歩きながら呟いた。
いつもならこの時間は美容院で髪を整えた後、着物姿で歩いている筈が今は普段着なのが
腹立たしい。
クラブ『環』のオーナーママである珠季は、コロナがもたらした現実を受け入れられないでいた。殆ど客がなくても営業を続けていたが……事態の悪化には抗えなくなって店を閉めた。
銀座の殆ど全てのクラブはホステスと黒服を解雇していた。

「失業保険で暮らした方が確実だから……」

他店のオーナーたちのそんな声に耳を貸さず、珠季は二十人全ての従業員を雇い続け給料を払い続けている。それは珠季に資産があるから出来ることだが……毎月家賃を含め数千万円の赤字になる。
「また開けられるようになったら雇い直せば良いだけなのに……」
そんな声もある。
だがそこには珠季の意地があった。

「合理だけで仕事は出来ない。人を雇うことには覚悟がいる。自分の身を切れるうちは切っていく」

そういてこそ銀座有数のクラブを維持出来ると思っていた。
だが不安は大きい。
その不安は今誰もが抱いているものだ。
「いつまでこれは続くのか?」
誰も経験したことのない感染症の広がり、目に見えない恐怖ほど底の知れない恐ろしいものはなかった。

珠季は自分の店が入っているビルの前に来た。
夕暮れ深くなる中、どこにもネオンは点いていない。
エレベーターに乗り込んで自分の店のフロアーで降りた。
「!」
冷気を足元に感じる。
「誰もいないと……こうなるのね」
そうして廊下を歩き自分の店の鍵を開けて中に入った。
全ての照明を点けてもどこか暗い気がする。
人の気配がないとこれほど寂しい空間になることに……今更ながら感慨を覚えた。

「商売が出来るということがどれほど有難いことだったのか……」

水商売には様々な動きがある。人の動き、衣装の動き、酒の動き、言葉の動き、男と女の駆け引きの動き、お金の動き……。
ヒト、モノ、カネの動き。その全てが止まってしまったことが空っぽの自分の店のフロアーを見れば一目瞭然なのだ。
そうしてまた考えてしまう。
「これがいつまで続くのか? どうやったらこの状態が終わりになるのか?」
珠季は涙をこぼした。

「こんな銀座、我慢出来ない!」

泣くことなどない気丈な珠季が声をあげて泣いた。
銀座は珠季にとって特別な場所だ。
クラブの経営……水商売の中でも特殊なビジネスの最高峰が銀座だ。
珠季の人生は波乱万丈だった。

珠季の祖父は大阪・北浜で最後の相場師と呼ばれた人物で、仕手戦の成功で得た金を様々な資産に分散して殖やし豊かな余生を送った。
その一人息子である珠季の父は相場師の祖父に反発して学究の道を選び、京帝大学文学部で日本中世史の教鞭を執るまでになった。
幼い頃、祖母が祖父の相場の仕事を心配するあまり神経を病み自殺したことが反発に繋っていたのだ。

父は仕事も結婚も全て自分だけで決めた。
珠季の母は父の大学の同僚だった。
その母は珠季が小学五年生の時に病死し、それ以来、父と二人きりで京都東山で育った。
質素ながら品の良いものを好む父との生活は、珠季には快いものだった。
しかし、その父も珠季が高校二年生の時に病で急逝してしまう。
そして翌年、祖父が息子を追うように亡くなり、たった一人の孫である珠季が、天涯孤独の身となる代償に莫大な遺産を相続した。

珠季は自分が相続した財産目録を弁護士から見せられた時、虚無を感じた。
カネの持つ闇を覗いたように思い……その闇の深さにぞっとした。
そして、高校を卒業すると大学には進学せず、日本を離れ世界中を旅して歩いた。

日本を離れたのは理由があった。
失恋したのだ。
高校の同級生、どうという男の子ではなかったが……初めて会った時から二人は惹かれあった。しかし若い彼には、珠季に訪れた深い孤独を受け入れるだけの度量がまだなかったのだ。
その同級生がヘイジ、東西帝都EFG銀行常務となっている二瓶正平だ。
その後、長い年月を経てヘイジと再会し友情は復活するのだが……若き日の二人の恋は終わった。

高校を卒業した珠季は、莫大な財産を手にして感じた虚無と失恋の喪失を埋める旅に出た。
それは何年もかけた旅になった。
珠季は世界のあらゆる場所を旅した。
豪華で冒険に満ちた旅の記録はそれだけで一代記といえるものになった。

そして、日本に戻ると銀座で働いたのだ。
素姓も過去も全て隠せて都合がいい。
何故、銀座か?
世界の次に人間を知りたいと思ったからだ。

「銀座は世界のどこにもない特別な場所。銀座にいることでしか分からないこと、人と人の間にある貴重なこと……様々な欲も徳もが渦のように、そう『方丈記』の冒頭のように〝絶えず〟動いている」

珠季はそんな銀座の本性を知りたいと思った。接客が自分に向いているのも分かっていた。
不思議な魅力と端整な容姿、そして何より欲のない爽やかさがたちまち珠季を人気ホステスにした。優雅な余裕と特別な気品……それは他のホステスが絶対に持ち合わせないものだった。そのうえ話題が豊富で頭の回転が速い。多くの筋の良い客が珠季につき直ぐに銀座ナンバーワンになった。
身持ちの堅さも有名だった。

そんな珠季が勤める店のママがバブルの頃、東西銀行御用達の店にいた関係で当時の東西銀行の役員たちがよく店を訪れた。
その中に桂光義がいた。
一目見た時から、珠季は他の客との雰囲気の違いが気になった。
酒やクラブがそれほど好きではないのが直ぐに分かった。
珠季は自分から桂に近づいた。

桂も、他のホステスとは全く違う個性を持つ珠季に興味を持った。
カポーティの小説『ティファニーで朝食を』の主人公ホリー・ゴライトリーのようだと桂は思った。
珠季と桂が関係を持つまでにはそれほど時間はかからなかった。珠季は自分の過去を桂には全て語ることが出来た。
恋人であると同時に父でもある存在、それが桂だった。
桂が東西帝都EFG銀行で珠季の若き日の恋人である二瓶正平と上司と部下として協力し、銀行を襲う様々な難事を解決していく姿を見るとは思ってもいなかったが、今ではそのことも好ましい。珠季を巡る男たちが真剣にそれぞれの立場で闘っているのを見るのは爽快だった。

「だけど……」

世界は変わってしまった。
コロナという疾病が全ての景色を変えてしまったのだ。
桂は桂でヘイジはヘイジで頑張っている。しかし、自分を取り巻く世界が、銀座が、死んでしまったことに珠季は無力感を拭えないのだ。
どこの誰にこの思いをぶつければ良いのか分からない。しかし、日本の、いや世界の多くの人間が珠季と同じ思いに沈んでいるとも言えるのだ。
重く伸し掛かる先の見えない不安、どうしようもない苛立ち、動くことが出来ないことの辛さというものは珠季のような闊達な人間には拷問に等しい。

「ただこうやって黙ってじっとしている。そうとしかしてはいけないなんて……」

珠季はフロアーを見回した。
凝った内装のクラブがまるで書き割りの舞台装置のような白々しさを感じさせる。
その時だった。
「あれッ!? やってないと思たら開いてるやんか!」


その関西弁に珠季は驚いた。
そこに見知った男が立っていた。

◇続きは書籍にてお楽しみください!◇

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波多野聖『メガバンク全面降伏』

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