今川義元の思惑は?…戦国最後の覇者を描き切った「大河歴史小説」 #3 家康(一)信長との同盟
桶狭間の敗戦を機に、松平元康(のちの家康)は葛藤の末、信長と同盟を結ぶ。単なる領地争いの時代が終わったことを知った元康は、三河一国を領し、欣求浄土の理想を掲げ、平安の世を目指すが……。信長でも秀吉でもなく、なぜ家康が戦国最後の覇者となれたのか? その真実に迫った、安部龍太郎さんの大河歴史小説『家康』(全6巻)。その記念すべき幕開けとなる『家康(一) 信長との同盟』のためし読みをお楽しみください。
* * *
源応院の葬儀は永禄三年(一五六〇)五月八日、浄土宗の知源院で行われた。
源応院の戒名は華陽院殿玉桂慈仙大禅定尼。
後に知源院は彼女の戒名にちなんで玉桂山華陽院と名付けられ、今日でも家康の祖母の菩提寺として尊崇されている。
元康は衝撃から立ち直れないままだった。
本堂で読経が始まるのを待つ間も、頭を強打されたように目まいがつづき、悪い夢の中をさまよっているようだった。
「元康どの、そろそろ刻限でござるが」
関口どのはまだ参られぬかと、喪主である政忠がたずねた。
「参列するとのご返答をいただいております。もうしばらくお待ち下され」
元康は瀬名を見やり、間違いないなと念を押した。
「お出でになります。昨日も使いを出して確かめましたから」
瀬名はおなかの子に負担がかからないように、床几に厚い布をしいて座っていた。
元康が関口義広の参列を強く求めたのは、源応院の自害を今川義元がどう受け止めているかを確かめるためだった。
自害と引き替えに水野家の処分を軽くしてくれと頼むなど、僭越きわまりないことである。
これを義元が許しがたいと思うなら、義広の参列を認めないはずである。
だがもし認めてくれたなら、源応院の行動に一定の理解を示し、嘆願にも耳を傾ける用意があるということだ。
元康は地に足がつかないような動揺と混乱の中にありながら、そうした配慮だけはしていたのだった。
「元康どの、これ以上は」
待つことができぬと、政忠が重ねて催促した。
「源七郎、境内を見てきてくれ」
元康が命じると、源七郎が勇んで表に走り出た。
政忠と碓井の子なので、元康の従兄弟にあたる。だが幼い頃から元康を主君だと思い定め、どんな時にも陰日向なく仕えていた。
「殿、関口どのが参られました。太守さまもご一緒でございます」
源七郎が喜びに顔を輝かせて駆けもどった。
「義元公が、お出で下されたか」
「は、はい。氏真さまをお連れになり」
源七郎が言い終えないうちに、関口夫妻に案内されて今川義元、氏真父子がやって来た。
義元は四十二歳。
肩幅の広い太った体に、薄紺の水干をまとっている。駿河、遠江、三河を領する大大名らしい威厳と風格をそなえていた。
嫡男氏真は二十三歳になる。
下ぶくれの優しげな顔立ちをして、武芸よりは和歌や連歌を愛する公達風の青年だった。
「太守さま。ご足労いただき、かたじけのうございます」
元康は義元の前に平伏し、源応院の非礼をわびようとした。
「供養が先じゃ。心をととのえよ」
義元が席にもどれと目でうながした。
須弥壇には阿弥陀如来像が安置され、その前に源応院の遺体をおさめた棺がおかれている。
僧帽をかぶった知短上人と弟子の文慶が所定の位置につき、深々と一礼して読経をはじめた。
腹までひびく朗々たる声に耳を傾けながら、元康は安堵の胸をなでおろしていた。
義元が自ら来てくれたのだ。
これで源応院の不敬をとがめられることはあるまい。あの様子だと、嘆願を聞き入れてくれるかもしれなかった。
(もしや、おばばさまは……)
こうなることを見越しておられたのではないか。そんな考えが脳裡をよぎった。
だから死の前日に心を大きく持って時を待てと諭し、狙いすましたように胸をひと突きしたのかもしれない。
(まさか、そんなことが)
あるはずがないと打ち消したが、源応院の豪気な人柄を思えば、それくらいのことはやりかねない気がした。
*
出陣は五月十二日の卯の刻(午前六時)と定められた。
その前日、元康は義元に呼び出されて駿府城に伺候した。
酒井忠次と松平源七郎を従えて遠侍に上がると、
「お供の御仁はここでお待ち下され。腰のものもお預かりいたします」
義元の近習に指示されるまま、一人で奥の書院へ向かった。
禅寺風の書院には七人の先客があった。いずれも元服前後の少年で、前髪を残したままの者が四人もいる。
折り目正しく烏帽子をかぶり上等の直垂をまとっているので、良家の子弟だということは分かったが、顔を見知っている者はいなかった。
しばらく待つと、ふすまの外で「お成りでござる」という声がした。
全員作法通り平伏し、麻の水干をまとった義元が着座するのを待った。
「このたびの出陣にあたって、その方たちには馬廻り衆に加わってもらうことにした」
義元は口髭をたくわえた面長の顔を一人一人に向けた。
「ついてはそれぞれ手勢をひきいて一隊を組み、松平元康の指図に従ってもらいたい」
そんなことは初耳である。いったいどういうことだろうと、元康は物問いたげな目を義元に向けた。
七人の少年たちも、怪訝そうに顔を見合わせている。
「尾張での戦が終わったなら、家にもどっても構わぬ。初陣の者も多いことゆえ、元康から行軍の作法を学ぶがよい」
義元が言い終えるのを待って、近習がそれぞれの名前を読み上げた。
「鳴海城番、岡部元信どののご嫡子、岡部小次郎どの。大高城番、鵜殿長照どののご嫡子、鵜殿新七郎どの。池鯉鮒(知立)城主、永見貞英どののご嫡子、永見左太郎どの……」
名前を呼ばれるごとに緊張して頭を下げる少年たちを見ながら、元康は義元の真意に気付いて慄然とした。
これは三河や遠江の有力武将から預かった人質である。それを馬廻り衆に加えるのは、目の届くところにおいて裏切りを防ぐためである。
(しかし、その指揮をなぜ俺に)
命じられる理由が分からなかった。
(人質の中では最年長ゆえ、こいつらの監視をしろということか)
理由はどうあれ、義元がこれほど厳しい態度でのぞむのは、織田信長を容易ならざる敵だと見なしているからである。
万全の手を打って、尾張を一気に併合しようという決意の表れでもあった。
「元康にはあの旗をさずける。表を見よ」
義元が手を打ち鳴らすと、音もなく襖が開いた。
木々の緑がみずみずしく輝く庭に、源氏の白旗が立てられている。その上部に赤鳥の紋が黒く染められていた。
二引両とならぶ今川家の家紋で、大きな櫛の形は婦人の髪飾りに由来するとも、馬のたてがみをすく馬櫛を形取ったとも言われている。
名前の赤鳥は垢取りの当て字だった。
「明朝、皆はこの旗のもとに集まり、今川家のために力をつくしてもらいたい」
義元は声高く申し付けて七人を下がらせ、元康だけをその場に残した。
「どうした。何か不満がありそうじゃな」
「不満はありません。なぜそれがしにあの者たちを預けられたのか分からないのです」
「そちの手勢はいかほどじゃ」
「駿府に呼び寄せているのは三百騎ばかり。残り七百余は、岡崎城に待機させております」
「それでは晴れの門出には物足りぬ。それゆえ軍勢を付けてやったのだ」
「……」
「分からぬか。あの者たちの手勢は、それぞれ二百は下るまい。七人で千四百になる」
元康の手勢を合わせれば、総勢千七百。それだけの軍勢を従えて馬廻り衆をつとめるのは、今川家の重臣に限られている。
しかも赤鳥の旗をさずけたのだから、元康を重臣として遇するということだった。
「駿府を発つ時や東海道を西上する時、その勇姿を家臣、領民に見せつけるがよい」
「身にあまるご配慮、かたじけのうございます」
「そちはわが一門じゃ。実直な人柄も男ぶりの見事さも、よう分かっておる」
それに源応院の遺言もあるゆえ無下にはできぬと、義元が口元に冷ややかな笑みを浮かべた。
義元は源応院の葬儀の後で、彼女の嘆願を聞き届け、水野信元から刈谷城を召し上げることはしないと明言した。
これで今川家と水野家の和談は大きく進むことになったが、それが源応院への好意からばかりではないことは、端整な顔に浮かべた皮肉な表情が物語っていた。
「恐れながら、祖母は何を嘆願したのでしょうか」
「そちは必ず三河一国を差配する武将になる。それゆえ刈谷城は、そちにくれてやったつもりで水野に預けておいてほしい。そう記しておられたゆえ譲歩することにしたが、その後、どうじゃ。水野の調略は」
「信元どのの要求を認めていただいたお陰で、信近どのも納得なされました。葬儀の翌日に駿府を発たれましたので、七日か八日のうちには和議の誓紙を持ってもどられると存じます」
駿府から知多半島の緒川城まではおよそ四十五里(約百八十キロ)。早馬を飛ばせば四日で着く。
五月九日に出発した信近が、信元の誓紙を得て翌日に取って返すとすれば、五月十四日には緒川城を出発することになる。
一方、十二日に駿府を発した今川勢は、十三日には藤枝を出て掛川に宿泊することになっている。
十四日は掛川を出て曳馬(浜松)に泊まる。
おそらくここで信近と行き合うことになるはずだった。
「さようか。余が源応院の嘆願を聞き入れたのは、そちの面目をつぶしてはならぬと思ったからじゃ。岡崎か池鯉鮒(知立)で、あの傾奇者と対面するのを楽しみにしておるぞ」
義元は扇子でぴしりと膝を打って席を立った。
あの傾奇者とは、奇行と剛勇をもって知られる水野下野守信元のことだった。
元康が遠侍まで出ると、酒井忠次と松平源七郎が待ちわびていた。
「殿、ご首尾は」
忠次が飛びかかるようにしてたずねた。
元康の近臣の中では最年長の三十四歳。皆のまとめ役をはたしている気配りの行き届いた男だった。
「館にもどってから話す。すぐに皆を集めよ」
宮の前の屋敷にもどると、重臣たちを集めて対応を協議した。
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