年度末、プレゼン化するコミュニケーションのあり方を愚痴る
今日は日曜日で仕事は休みだが、年度の末日でもある。
それも、あと1時間で終わってしまう・・・ちょっとだけ愚痴。
トラブルの元としてのリモート
ここ2週間ほどは、きつかった。
様々な案件が集中して、しかも、突発的な事柄も起きたので、身体よりも精神的にきつかった。
正直、倒れそうだった・・・
そもそも私の仕事は、役職上、人と人、部署と部署との間にたつことが多い。よって、トラブルのほとんどは必然的に人間関係になる。
そして、人間関係こそが最も厄介だ。
とくにここ1年、コロナ禍から脱出し、コロナ以前に戻りつつあるのはいいが、一方で、リモートという働き方がかなりの部分続いており、コミュニケーションの密度が低下して、トラブルが起きやすくなっている。
リモート会議って、画面越しにどれだけ話しても、結局は一方的な「発信」であって、なかなか「話し合い」にならない。
でも、なぜか最近、直接会うよりもリモートやメールが好まれるような気がするんだよね。
直接会って話した方が、互いに豊かな情報や意見を一気に交換することができるし、それって、実は効率的だと思うのだが、同時に、自分とは違う意見とも直接対峙することになる。
多分、それが煩わしいというか面倒というか、ともかく嫌なのだろう。
コロナ禍で定着したリモート会議は、最初のうちこそ戸惑いが大きかったが、定着すると、こうした煩わしさから解放されて「楽」なことに気づいてしまったのかもしれない。
プレゼン化するコミュニケーション
そもそも、互いに言葉を交わしても、実は一方的な話しが連なっているに過ぎないことが最近多い。そこでは、互いの意見をすりあわせたりする「会話」や「議論」にはならず、とにかく自分の意見だけを言いつのる。
そしてその傾向は、じつはリモート以前からすでに強くなっていたかもしれない。
そのことを典型的に示すのが「プレゼン」だ。
今や、プレゼンという言葉は日常語になっているし、そのことに伴って、我々のコミュニケーションは、もうしばらく前から、「プレゼン」的になっているような気がするのである。
プレゼンーーそれを、自分の意見をわかりやすく「発信」することすれば、そこで使われているのは、結局、一方的な言葉たちである。
実際、プレゼンの評価は、それがうまくいくか行かないか、という基準でなされる。
そこは、言葉が交わされることを通して、新たな気づきや方向性が生まれるような場としては想定されておらず、むしろそれは、自分の意見が変わることを意味しかねないので、負けとしてネガティブに評価されかねない。
つまり、プレゼンにおいては、あくまでも、自分の意見をどれだけ旨く発信し、相手を丸め込むかが競われており、そうした一方的で相手を論破しうる言葉たちが、良きものなのである。
しかし、それって、本来の意味でのコミュニケーションとはいえないのではないだろうか。
また、たしかに「楽」とはいえ、結局は一方的な言葉の応酬でしかなく、組織や社会全体のギスギス度を高めるだけにしかつながらないのではないだろうか。
来年度はどうする?
とはいえ、こうした自分なりの状況分析をして、問題点を明らかにして納得したつもりになったり、さらには、敵の問題点をあげつらって、多少は溜飲を下げることができたとしても、現状は何も変わらない・・・
すべては「愚痴」だ。
正直、こういう状況を少しでも変えたいと思って、1年間、この役職をなんとか務めてきた。
でも、結局、私自身の力量のなさも大きかったが、むしろ、余計な波風を立てて、疲労を蓄積させただけだった。
とくに精神的にかなり傷ついた。少しは何か役に立てるかと思っていたのだが、それこそ私の一方的な思い上がりに過ぎなかったたのだろうとも何度も考えた。そして、肝心の自分自身の仕事も何もできなかった・・・・。
任期は残り一年。
明日からその一年が始まるが、心の底から疲れたので、もう距離をとるしかないと思っている。
明日から、この絶望を抱えながら、どうしようか・・・
いや、今の私には休養と睡眠が必要なのかもしれない。
というわけで、来年度になる前に「愚痴」は終わりにすることにします!
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