映画「TAR ター」:①セクシュアル・マイノリティという観点から

ここ数年、映画を見ることが少なくなった。一つには、もちろん忙しさがあったが、もう一つは、映画への関心が大分低くなったためである。その理由は、しばしば「最近の映画は~」的な言葉で語っているけど、それを言い訳にも使っているように、じつは、自分のほうに問題があるのかもしれない。そうした自分の問題に真正面から向かうのが嫌で、映画の性にしてきたという感じだ。
まあ、そのことはまた考えるとして、それでも時々、映画は見る。
そして昨日見たのが、「TAR ター」という、ケイト・ブランシェット主演の、女性指揮者の映画である。


映画の概要

この映画は、2022年アカデミー賞に作品・監督・主演女優賞などにノミネートされたように、高く評価されたモノである。よって、内容はよく知られているだろうが、WIKIより以下のように引用しておく。

リディア・ターはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団における女性初の首席指揮者であり、作曲家としても指揮者としても当代随一と評価されていた。レズビアンである事を公表して女性パートナーと暮らし、幼い養女にパパと呼ばせて思う通りに人生を謳歌するリディア。だが、権力を握った彼女は気に食わない学生を吊し上げて退席させたり、長年仕えて来た副指揮者を非情に切り捨てる等、恨みを買う行動も目立っていた。

TAR/ター - Wikipedia

感想、とくに第一印象

さて感想である。
まず最初は、ブランシェットの演技がすごい!ということ。
150分くらいの長さで、私には少々冗長な部分もあったが、最後まで緊張が切れずに見てしまったのは、彼女の演技ゆえだろう。
ターという人物の高慢さとともに神経質さや弱さ、偏狭さも巧みに演じており、ターという権力者が少しずつ人生を狂わせていく過程から目が離せなくなってしまった。映像も、そうした雰囲気に合っていたと思う。

とはいえ、正直、うまく乗ることができない部分があった映画でもあり、個人的な好みとしては、so soという感じかな~。

その理由は、一つには、ラストにかかわるオリエンタリズム的な安易さ。
まあ、この部分は色々と解釈できるようだけど、映画を締めるシーンだっただけに、個人的にはかなり残念だった。

そしてもう一つは、ジェンダーとセクシュアリティに関わることで、それはもちろん、ターがレズビアンであるという設定の問題である。
この問題は、映画が公開された当時、大きな話題になり、すでに色々と議論になった。関心はあったが、議論を追いかけていなかったので正確ではないが、とくに、マイノリティとして差別問題を抱えているレズビアンをハラッサー(ハラスメントの加害者)として描く事の是非や意味が問われていたように思う。

私も映画を見て、まずはそのことが気になった。よってここでは、この問題を中心に思うところを書いてみたい。

ハラッサーとしてのセクシャルマイノリティという問題

さて、レズビアンがハラッサーとして描かれている点が話題になったのは、一つには、いわばポリティカル・コレクトネス(以下、PC)をめぐる議論の文脈が関わっていたのではないかと思う。

たとえば、常にPCに気をつけなければならないとなると、逆にマイノリティには何も言えなくなってしまうが、それでいいのか、という問いはすぐに出てくる。
客観的に考えても、マイノリティにもマジョリティにも問題のある奴は当然いるし、そうした奴は、マイノリティ否かにかかわらず間違いを正す必要があるに違いない。
とはいえ、マイノリティの差別がまだ深刻なことも事実であり、優先順位を間違えると、差別問題をむしろ後景に隠してしまいかねず、この映画のように、マイノリティの加害者性を前面に出すのは時期尚早ではないかという論調も出てくる・・・・云々。

これは、女性やセクシュアル・マイノリティを優先しようとするアファーティブアクション等の是非を問う際にも常に付いて回る議論である。こうした問題をめぐっては、感情論や現実論、理念論等を含めて、しばしば喧しい意見が戦わされていることはよく知られている。。

この種の議論は、感情論がもつれていることも多く、難しい。
ただ一つだけ述べておくと、そこでは、その議論が個人を対象としているものか、集団・社会を対象にしているののかという、議論の文脈・土俵を(しばしば意図的に自分の都合に合わせて)混同しているために起きていると思われることが多い。
その意味では、この種の議論自体がそもそも、かなり政治的であることを意識していく必要があり、とするならば、よりよい社会を目指していくためには、その安易な(でも乗り越えるのは難しいほどに深く浸透している)陥穽に嵌まってしまわないよう、より適切で周到な論理と実践を丁寧に組み立てていく必要があるだろう。
この映画は、その問いを我々に突きつけるモノであるとも言える。

ただし私は、この問題以上に(いや、この問題とも関連はしているのだが)、じつは、この映画ではなぜ、主人公にレズビアンが選ばれたのかという点が気になった。
なぜ、男性を主人公にするのではなく、女性だったのか。また、レズビアンであって、ヘテロの女性や、ゲイではなかったのか・・・・。つまり、レズビアンである必要はどこにあったのかという点である。

なぜ主人公はレズビアンなのか

まず、この映画では(当初の私の想定とは大きく異なり)、女性の同性愛者が抱えている問題は、ほとんど前景化されることがなかったという印象を持った。
そこでは、ターのクイアな家族、愛人たちへのレズビアン的な欲望など、女性や同性愛的な関係はごく当然のことのように配置されており、それらが社会的に非難されたり、ターや他の人物だちが苦悩したりするシーンはなかった。また、冒頭で、音楽の理解には女性や男性などのステレオタイプ的なこだわりを捨てるべきだと、ターは熱く語っていたことも印象的だった。
むしろ私は、この映画にそうした苦悩や差別問題を想定していた自分自身が持っていた「偏り」を深く反省してしまったほどだ。

もちろん、差別問題が一切触れられていなかったわけではない。
ターが女性であることの経験を大した問題ではないと語ることは、その裏返しの虚勢という見方もできないわけではないし(あまりそう見えなかったけど)、中でも、その一端は養女のいじめという話しを通して見られた。しかしその場合でも、ターが養女のいじめっ子を脅した(!)ように、ターの圧倒的な権力的姿勢によってすぐに解決されたことは興味深い。
つまり、この映画内では、ターが女性であること、そしてレズビアンであることは、少なくとも大きな問題でないとして描かれているのである。それは、いわばジェンダーレスな雰囲気が、一見、ある程度定着しているかのようにも見える。

権力者としてのター

しかし、その状況は、ターが圧倒的な権力者であり、それを強く志向・欲望している人物だから成り立っていることに注意すべきである。

実は、この映画世界では、ターが自身を養女に対して「父」と呼んでいたように、ターの位置は男性社会のそれをそのまま踏襲している。
彼女の若い助手や愛人に対する姿勢も、都合の良い小間使いや性的対象など、ハラスメント的な対応も含めて、ヘテロ男性のそれとそっくりである。ともに住む女性パートナーとの関係も同様だ。
たしかに、ヘテロ男性のそれに比べると明確に暴力的ではなく、そこには、ターが女性であることが様々な意味で関わっているのかもしれない。
しかし、この物語において、ターがヘテロ男性であっても大きな違和感はないと言えるんじゃないだろうか。そして実は、そこにこそ、この映画の肝があるではないか。

女性やレズビアンの状況を変えるとはどういうことか

では、そのことは何を意味するのか。
一つには、(この映画のように)レズビアンが奇妙(クイア)ではなくなる社会でも、その社会全体というか関係性自体が本質的に変わらなければ、じつは、何も変わらないということを、この映画は指摘しようとしているのかもしれない。
皮肉を込めて言えば、権力者は、男でも女でもLGBTQでも、所詮、権力者であるという指摘である。

これまで一般的には、女性やセクシャルマイノリティへの差別が消えれば、社会も人間関係も何か大きく変わるんじゃないかと思われてきたと思う。とくに運動家の間ではそうした期待は強いだろう。

たしかに、変わる部分もある。
しかし少し立ち止まってみれば、果たしてどの程度変わるのか、あるいは、すぐに戻ってしまったり、別の差別が形を変えて出てくるんじゃないのか・・・等々の問いもすぐに出てくるに違いない。

実際、女性やセクシュアル・マイノリティの差別とは、ジェンダーやセクシュアリティという要因だけで構成されているような単純なモノではない。そこには、近年インターセクショナリティ(交差)という言葉も使われているように、人種・民族や年齢、格差などの要因も混じり合い、それらが絡み合って作られてきたものだろう。
そのため、いったん良くなったように見えても、そうした改善は社会の一部分でしかなかったり、または、そのことがさらなる差別を生んだり、形をかえて容易に再生産されてしまったりすることも少なくない。

マイノリティを作り出している社会全体を変えるということ


このことは、ジェンダーやセクシャリティだけでなく、どんな多様性についても、ただそのマイノリティの存在を認め、その位置をマジョリティ社会の中に用意するだけでは何にも変わらない、ということを意味している。女性やレズビアンを認めるだけでは何も変わらない、ということだ。

とするならば、問題の核心にあるのは、その過程で、(今のマイノリティ等を作り出してしまっている)社会全体が変わらなければならないということであり、そのときには、権力側にいるマジョリティ側こそが変わっていく必要があるのではないだろうか。
マイノリティという存在を作り出している権力関係こそが、問われなければならないのだ。

しかしこの問題は、難しい。
差別問題は、大抵はマイノリティが社会的に承認されると、それで良し、ということになる。ただしそれだけでは、権力や差別という構造は変わらないため、またぞろ問題が出てくるという繰り返しだ。

この映画でも、ターは、ジェンダーやセクシュアリティの関係のあり方を変えたわけでも、変えようともしてはいなかった。
それどころか、これまでのヘテロ的男性的な関係性をそのまま踏襲しただけだったしで、ターはそのことを最後まで理解していなかった。
とするならば、この映画は、主人公をレズビアンとすることによって、その問題を我々に突きつけると同時に、そうしたより本質的な問題には無関心で無知なターの哀れで愚かな姿を描き出すことによって、その問題の核心(の深刻さ)を告発しようとしたのかもしれない。

オリエンタリズムとセクシズムがかかえる共通の問題の地平

とするならば、この問題は、この映画のオリエンタリズム問題とも、じつは有機的につながっていると見るべきだろう。

映画のラストで、ターは東南アジア(タイ?)で再起を図ろうとする。
その話と映像はかなりステレオタイプ的で滑稽に見えるし、先にも述べたように、正直、私はかなり鼻白んでしまった。

でも、ここであらためて、この映画の意図が、ジェンダーフレンドリーなどと言ってもそこに本質的な変化がなければ、結局は何も変わらないという点にあることに気づくならば、このシーンは(その滑稽さ・浅はかさも含めて)極めて必然的であると再評価することもできる。

そもそも映画のはじめで、ターの音楽的な特徴は、先住民(南米だったかな)と一緒に生活した経験の中で培われたと語られていた。
ターの人物造形には、じつはジェンダー・セクシュアリティだけでなく、民族等にかんしても多様性を尊重するという設定がされているのである。

ところが、この点においても、ターは十分に先住民等を理解して彼らとの関係を再考し、同時に自身も変えていくという方向をとっているわけではなかった。あくまでも、先住民等はステレオタイプ的に捉えられており、ター自身はそれを利用するだけだ。(だから、東南アジアのマッサージ店で、少女にまっすぐ見つめられて、ターは吐いてしまったのだろう)

つまり、ターは、民族・人種問題という点に関しても、ぱっと見は認めているように見えるが、オリエンタルな見方を崩しておらず、自身は常に権力側に位置している。
そして、そうしたターの姿は、最終的には、多様性が唱えられている現代社会の滑稽な商品のようにすら見えてくるのである。(その意味では、西洋のクラシック音楽の指揮者という彼女の立場それ自体が、カリカチュア的であるとも言える。このことはさらに考えてみたい)

いったん終わり

なんだか話しが広がりすぎてしまったので、他にも書きたいことがあったが、ここで一端止めにしておく。
また、時間があったらとは思うが、まずは備忘録ということで。いすれにせよ、ジェンダーの問題は今後も考えていきたいな。

さて、このように文章を書き進めていくと、この映画、第一印象では、ちょっと中途半端で、ジェンダー・セクシュアリティという観点から見てもどうかな~と思っていたが、次第に、非常になかなか面白いかもしれないと思うようになってきた。(私って、いい加減)
でも、やはりso so感がまだ拭えないことも最後に付け足しておく。

それは、ケイトブランシェットの演技があまりにすごくて彼女の役柄をよりリアルに感じすぎてしまったせいかもしれない。
映画全体というよりも、ターという人物に目が行ってしまい、今のこの時代にこの映画を作る・見るという視点がついついおざなりになって、そうした別の見方が隠れてしまったというか・・・・・
いやいや、映画ってどんな見方でもいいのだから、やはりケイト・ブランシェット様の演技に乾杯!






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