謝罪と「顔」と、人であること

今日は、ここ数日間で自分に起きた嫌なことについて、少しは気分を上げて前を向いていく(ちょっと大げさかな)ために、つらつらと書いておきたい。


昨日の謝罪の場で起きた嫌なこと

今週は、とにかくひどい1週間だった・・・・。
そして昨日、ここ数日間続いているトラブルに関わる人物のところに、謝罪に行った。
行く前から予想はしていたが、やはり嫌な思いをしただけだった。
ただ、それ以上にダメージを食らったのは、人って、ああいう風にもなれるんだという驚きがあったからである。

まずその場面について若干書いておこう。
最初、私は、彼の仕事部屋に直接謝りに来たというのに、入室を拒否された。返事はメールで書いてくれ、とのことだった。
それでも私が、後でメールでも書くが直接謝罪したいと、さらに告げると、一応入室は許可されたが、録音するという。
そしてその後のやりとりも散々だった(詳しくは書かない)。

そもそも「謝罪」とは言っても、正直、大したことではなく、ちょっとした連絡ミスについての謝罪だった。しかも、私がやったことではなく、私のチーム全体の問題であり、よって責任者として私が謝罪したわけだ。
もちろん先方にとっては、それで不快を感じたことは事実であった。よって、そのミスをした責任はこちらにあったので、筋を通すことは必要だと思って、謝りに行ったのである。

それにもう一つ、この直接謝罪には、ミスをネチネチと指摘する彼からのチェーンメールをもう止めたかったという思いもあった。
そもそも彼は、以前から粘着質で問題行動が多く、これまでも何度かぶつかっていた。とはいえ、今回はある意味単純なミスなので、直接その理由を伝えて謝罪すれば、少しはなんとかなるかもと、私は考えわけである。
嫌なメールのやりとりに忙殺されるのはもう止めてくれと、気分が急いていたこともあった。

でも、私は甘かったんだよねぇ。あるいは、私の側の方のそうした思惑(心からの謝罪というよりも、早く終わらせたいという思い)を察したのかもしれない。
ともかく事態はさらに悪化。今や、正直、もうどうにでもなれ、という感じだ。
ただ、この気分の悪さはなんとかしたい・・・と思って、こうして書き始めたわけである。

対面でも揺らがない顔

さて、あの時、じつは、さらに驚いたことがある。それは、こういう対応を平気でする人がいるんだ、という思いである。
直接顔を合わせて謝罪しているのに、彼のあの表情・・・。
彼は、私の顔を見てはいるが、そこには何の揺らぎもなかった。

ここでいう「揺らぎ」とは、ただ、情にほだれされることだけを意味するものではない(もちろん期待がなかったわけではない)。
一般的に、直接的な対面って、数多くの多元的な情報がいっぺんに伝わりやすいだけでなく、そのプロセスをとおして、両者にとって思わぬ気づきが生まれ、さらに新たな関係性が生まれる場であると、私は思う。

実際、面と向かうと、情にほだされてしまうというのも、その一つだろう。また、だから逆に、私たちはしばしば、その可能性におののいて(つまり、自分の主張がそのままではなく、何らかの変化をうけてしまうことと恐れて)、対面している場面でも目や顔を背けたりするのではないだろうか。

でも、彼との対面場面では、そうしたものが一切感じられず、空しかった・・・。
じつは彼は、私から目をそらすこともなかった(逸らすことがあったら、むしろある意味人間味を感じていたかも)。
彼は私が謝罪をしようが、非難の姿勢を崩さなかったのである。そこには何の進展も変化もない・・・。これって、「ぶれない」という評価のされ方をされることもあるのかもしれないけど、どうなのだろう?

私は、そんな彼とのやりとりを通して、人って、他者を目の前にしても、何の揺らぎもなくその他者を糾弾し続けることができるんだと、正直、かなり驚いた。
私は、非難されて怖いとか辛いというだけでなく、心の片隅では唖然としていたというか、若干不気味でもあった。

もちろん、この感想は、私の意見が受け入れられなかったことに対する、私の手前勝手な非難なのかもしれない。
でも、一般的に言って、「ぶれない」ことって、実は、とても怖いことではないのではないだろうか。

いくら話をしても、全てを受け入れないという関係って何なのだろう?
彼には、人(他者)との関係というものに対する感覚があるのか、彼の人生には彼しか存在していないのではないか、とすると、そんな世界では他の人はどう見えてるんだろう・・・・そんな思いが、私が感じた嫌な気分の根幹にはあったように感ずる。

レヴィナスの「顔」

そう考えたとき、ふと、レヴィナスの「顔」という概念を思い出した。
私は、彼の本をちょっと読んだだけで精確な解釈など出来ないのだが、この言葉には感動した覚えがある。

レヴィナスの「顔」とは、実体的なそれではなく、他者の「他者性」を意味する概念である。

私のうちにおける〈他者 〉の観念を越えて〈他者〉が現前する様式、我々は実際それを顔と呼ぶ。こうした仕方は、私の視線のもとに主題として姿を現わすことには存していないし、 ひとつのイメージを作りあげる諸々の質の総体として自らをひけらかすことにも存していな い。〈他者〉の顔は、それが私にゆだねる可塑的なイメージを絶えず破壊し、あふれる。すな わち、私に適合した観念、その観念されたものに適合した観念、つまり十全な観念を絶えず 破壊し、あふれる。顔はその質によって現出するのではなく、それ自体として現出する。顔は自ら表出する。

レヴィナス『全体性と無限』

なかなか難しいが、他者の顔とは、他者が自分に同化することのない何か(他者性)を持ちうる、という意味だと思う。
そして他者とは、そうした「顔」として、私に対して現前しうるものであり、としてみなすことが重要であり、さらに言えば、そうみなす姿勢が、他者との倫理的な関係を築く上での第一歩であるというのが、レヴィナスの考え方ではないかと、私は思う。
「顔」は、常に私を揺さぶるのであり、それが他者と生きる人の根幹にあるあり方ではないか、と・・・。

対面の力と、「人である」ということ

そして、レヴィナスの「顔」は、たしかに実体としての顔ではないものの(それが「顔」という比喩で捉えられていることからも分かるように)、実体としての顔もまた、そうした可能性を秘めているのではないかと、私はこれまでぼんやりと思っていた。

顔と顔とを合わせると、しばしば相手の印象が変わることがある。また、それをきっかけに大きく関係が変化することも少なくない。
戦場で、兵士が相手の顔を見てしまったら、殺せなくなってしまうという話しをしていたのは、やはりレヴィナスだったかな。

人は顔と顔とを直接合わせると、それが全く知らない人であっても、「人」であると認識して、人以外のものよりも丁寧に対応しようとするのではないだろうか。
ヒューマニズムの基本的な姿勢は、じつは、ここにあるとも思われる。

しかし、顔を見ても、その顔の相手を、○○人とか、女性とか、ゲイとか・・・・その属性だけでしか見ることができないことも少なからずある(
いや、その方が多いかもしれない)。
そこには、レヴィナスのいう「顔」はない。顔があっても、その本質は表れていない、記号としての顔だ。
そしてそうした場合には、私たちはその相手を、人には値しないと見なして簡単に踏みにじるような態度をとってしまう。差別もその一つだろう。

こう考えていくと、私たちが相手を人と見なし、人として遇そうとするとき現前しているのは、「顔」であり、また、そうした「顔」を皆が潜在的に有していることに気づくことが、私たちが「人である」ということであり、それこそ「人である」ことの可能性の最たるものであるとも言える。
そして、ヒューマニズムとは、そのことを指し示しているのかもしれないとも、ふと思った。

彼に感じた不気味さも、その意味での人間味のなさに由来するものだったのかもしれない。

おわりに:思考という楽しさ

また、話があちこちに飛んで、収拾がつかなくなってしまった。
でも、こうしてレヴィナスにまで思いをめぐらしてきたことによって、鬱屈した気分が大分収まってきたので、ある意味、当初の目的は達成されたとも言えるので、そろそろ終えることにする。

じつは、自分でも、ここまで気分が収まるとは思わなかったので、少々、びっくり。
その理由としては、まず、自分の行動をもう一度言葉で立て直すことによって「正統化」し、その上、レヴィナスなどの「権威」を持ち出すことによって、彼をやり込めてやった!という気になったためだろう(私も器の小さい人間である)。

でも、もう一つ、今回もやはり言葉と思考は大切だし、生きていく上で有用でもあることを、改めて感じ入ったことも最後に書いておく。

あのまま、こうして文章化せずに、嫌な思いを抱えていたら、気分だけでなく身体も頭も感情も、文字通り、腐るだけだったろうと思う。
それはあらゆる意味で健康に良くない。

もちろん、こうした考え方も、単に「タダでは転ばない」という程度の強がりなのかもしれない。
しかし今では、気分が少し良くなっただけでなく、考える過程で言葉が何かを掘り出し、視野が広がっていくにつれて、なんとなく思考の楽しさのようなものも感ずるようになってきた。
この感情は、忘れたくない。

考えるって、じつは、楽しいことなんだよね。
人生、やはり楽しまなくては、ね!
(でも、この問題自体は何にも解決していない・・・ナハハ)

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