CANCER QUEEN ステージⅠ 第3話 「ドクター・エッグ」
今日は、再検査の日。病院までは自宅から歩いて15分。近くていいわね。早々と、朝9時には着いたの。
こんなに朝早いのに、一階のロビーは、もう人でいっぱいだわ。ここは地域の拠点病院というだけあって、患者さんが多いのね。それにしても、この多さにはびっくりだわ。
このあいだ、“近年、日本の医療関係予算は膨らみ続けている”というニュースをテレビでやっていたけど、無理もないわね。
なんてことは、わたしにはどうでもいいの。わたしは彼の体のことだけが心配なのよ。でも、がん細胞のわたしが心配するのって、やっぱり変かな?
彼は健康診断を受けたお医者さんからの紹介状のほかに、CTスキャンの画像データが入ったDVDを受付に渡したわ。こんなに小さくてかわいらしいドーナツみたいな板に、健康診断の写真が全部入っているなんて不思議ね。
将来は、患者がわざわざ持ち歩かなくても、病院同士でデータのやり取りができるようになるんだって。マイナンバーというしくみが、医療制度にまで広げられるらしい。
でも、便利な代わりに、個人情報が漏れちゃうんじゃないかって、彼は心配しているの。本人が知らないうちに、病歴だとか健康診断のような個人情報が、企業や国家に管理される時代が来るんだろうなって。
ほんとうにそんなことになるのかしら。いけない! がん細胞のくせに、また、よけいな心配しちゃった。
検査はまず血液検査、それからレントゲンの順番ね。いろんな検査があるんだなあ。持ってきたCTスキャンの画像だけでは足りないのかしら。
11時過ぎになって、ようやくお医者さんの診察を受けられたのよ。患者さんが多いから仕方ないけど、もうちょっと、なんとかならないのかなあ。これじゃあ、待っている間に具合が悪くなりそう。
診察室に入ると、若い男性のドクターが無表情で座っていたわ。名札には“西”と書いてある。卵みたいな丸い頭に短い毛が生えていて、あごにもちょっと髭があるの。なんだか髭を生やした卵のようだわ。これから、ドクター・エッグと呼ぶことにしよう。
ドクター・エッグは神妙な顔で聴診器を彼の胸や背中に当てながら、パソコンの画像をチラチラ見ていたわ。それから、ゆっくりとこっちを向いたの。
「肺がんです。大きさは3.8センチです」
これが、がんの告知というやつね。わたしの存在を初めて大っぴらにされたしまったようで、なんだか恥ずかしいような、誇らしいような、申し訳ないような、変な気分になったわ。でも、彼が思ったほどショックを受けていない様子なので、ほっとした。
ただ、大きさが4センチ近くもあったのには驚いたみたい。わたしは食いしん坊だから、すぐに太っちゃうの。
ごめんなさい、キング。
「とすると、ステージはいくつでしょうか?」
「それを確定するために、精密検査を受けていただきます」
え、これからまだ検査を受けるの? この画像だけで十分じゃない。何度も検査して、ステージがいくつだなんて、まるで死刑宣告を2回も受けるみたいだわ。キングがかわいそう。勘弁してあげてよ。
「今から、ここで検査を受けるのですか?」
「検査は2段階になります。まず、気管支鏡検査を受けていただきます。1泊2日の入院になります」
1泊2日なんて、まるでホテルに泊まるみたいね。この検査のことはネットで調べていたけど、いざ入院と聞くと、やっぱり動揺を隠せないみたい。
「早い方がいいんですよね」
「日を置く理由はありません」
ドクター・エッグは、愛想がないわね。彼はスケジュールを確かめて、いくつか提示された中から、最短で週明け早々の11月21日を選んだわ。入退院手続きの関係で、23日が祝日だから、土・日を入れると5泊になるらしいの。なんでかよくわからないけど、それだけ休めば、ずいぶん遠くまで旅行に行けるのになあ。今頃は、紅葉狩りには最高よね。
日程が決まると、ドクター・エッグが検査の説明を始めたわ。
「気管支鏡検査では喉から管を入れて、気管の内部を観察します。そのとき、腫瘍を少し切り取ってきて、がん細胞を確定します」
「がん細胞でない可能性はあるのですか?」
「いいえ、ありません。がんの種類を特定するためです」
それを聞いて、彼の顔が少しだけ暗くなったわ。なにかの間違いであって欲しいと、まだ僅かな希望を抱いていたのね。
「それから、MRIとPET検査になります。それはここではできないので、専門の検査機関に行っていただきます。よろしければ、これから予約を入れます」
聞いているうちにだんだん気が滅入ってきたみたい。彼の表情がどんどん暗くなっていくの。わたし、もう見ていられないわ。
それにしても、ここはがんの拠点病院なのに、PET検査とやらはできないのかしら。ペットなんてかわいらしい名前だけど、なんか怖そう。
「それは、どのくらい時間がかかるのですか?」
「半日は見てください」
「半日でしたら、検査入院の退院日の午後とかはだめでしょうか?」
彼はできるだけ休みを取らないですませたいと考えたのね。今年は、お母さまの介護や入院なんかで、有給休暇がほとんどなくなっているらしいわ。
ドクター・エッグは、ちょっと考えてから、
「午前中には退院できますから、時間的には間に合うでしょう。ちょっと忙しいですが、その日が予約できるか聞いてみます」
と言ったの。患者の立場に立って考えてくれるなんて、けっこう優しいじゃない。
「よろしくお願いします」
「検査の結果が出るのは、だいたい1週間後になりますから、次回の診察は28日の11時でよろしいですか。できたら、ご家族の方にも同席していただきたいのですが」
家族も呼ばれるなんて、その日が運命の日になるのかしら。なんだか、わたしまでドキドキしてきちゃった。
彼はちょっと困った顔をしたわ。
「11時だと、妻は同席できないのですが」
奥さまは実家のお母さまが亡くなってから、ずっと、お父さまのお世話をしているの。お父さまは今年で95歳になるんだけど、最近は認知症がひどくなっているらしいわ。それでも体は丈夫なので、午後からは近くのカラオケ喫茶に出かけるの。だから、午後なら、奥さまも同席できるのよね。
「どうしてもという訳ではありません。お一人でもけっこうです」
彼は一人で、運命の声を聞くつもりかしら。最後に、一番気になっていたことを聞いたの。
「大きさからいって、どの程度進行しているのでしょうか。最悪の場合、余命何ヶ月というような話も、そのタイミングで聞くことになるのでしょうか?」
「そうですね。まだわかりませんが、お話しするとすれば、その時ですね」
ということは、余命の話もあるってことじゃない。大変なことになってきちゃったわ。わたし、どうしたらいいの。
診察が終わるタイミングで、奥さまからメールが来ていたわ。これから車で迎えに来てくれるみたい。もう午後2時を過ぎていたなんて、びっくり。朝早くからお疲れ様でした。
ロビーで奥さまを待っている間に、彼はまた困ったような顔になったわ。入院と決めた21日は、歯医者さんの予約が入っていたことを思い出したの。ダブルブッキングってやつね。
一月ほど前から、奥歯の歯茎が腫れて、歯を磨く度に血が出ていたの。もし、長期の入院にでもなったら、今の歯医者さんには通えなくなる。21日はキャンセルするにしても、そのあとをどうするかが問題よね。
そうだ、この病院にも歯科があるらしいから、ここで受ければいいじゃない。でも、彼はなんだか気乗りしない様子なの。
敢えて歯医者を変えないことで、がんが軽くてすむようにという、願かけをしたかったのね。短期の入院ですむなら、このまま今の歯医者さんに通えるわ。
それで電話をしたら、今日これから診てもらえるっていうのよ。ラッキーね。
彼は、短期入院の可能性に賭けることにして、歯医者さんは変えないことに決めたわ。こういうときは、運も見方に付けたいと思うのよね。その気持ち、よくわかるな。
それにしても、わたし、お腹すいちゃった。検査で朝は軽めにしないといけなかったから、お昼はボリュームのあるものを食べてくださいね。
彼も同じことを考えていたみたい。奥さまに拾ってもらうと、いつものホテルのレストランに行こうと言ったの。そこは歯医者さんにも近いから、ちょうどいいわね。
レストランの入り口に立つと、すぐに、スタッフがテーブルまで案内してくれたわ。ちょっと高級そうなお店なの。なんだかセレブになったみたい。わたしまでウキウキしてきちゃった。うーんと甘いデザートを注文してくださいね。
でも、彼はテーブルに着くと、ぐったりしちゃったの。きっと、朝から緊張したせいで、一気に疲れが出たのね。
キング、大丈夫?
「お疲れさまでした」
そんな彼を気遣うように、奥さまが優しく言ったの。顔は明るいけど、内心は胸が張り裂けそうなくらい心配なんだと思う。
「うん、ちょっと疲れたね」
彼は甘えるような声で言ったのよ。まあ、憎らしい。
それから二人ともしばらくメニューを眺めるだけで、なかなか注文しようとしないの。
奥さまはまだ、朝も食べていなかったらしいわ。お父さまの介護で、昼食を取るのが遅くなることはよくあるらしいけど、朝も食べられないなんて、ほんと、かわいそう。
お父さまのお世話だけでも大変なのに、もし彼まで入院してしまったら、いったいどうなっちゃうのかしら。彼のお母さまも入院しているのよ。一度に3人のお世話なんて、とてもじゃないけど無理よね。
彼もそのことが気がかりなようだわ。メニューを見ているのかと思ったら、時々、奥さまの顔を見ては、小さな溜息をついているの。
でも、奥さまはとても陽気に振舞っているわ。注文を取りにきたスタッフと、いつものようににこやかに冗談を交しているの。だれにでも気軽に声をかける奥さまは、みんなから慕われているのね。こんな時にも、スタッフのことを気にかけてあげられるなんて、すごいなあ。やっぱり、わたしは奥さまにはかなわないわ。
彼もようやく元気が出てきたみたい。楽しそうに会話に加わったわ。
どうかこの先もずっと、二人の笑顔が続きますように!
(つづく)
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