CANCER QUEEN ステージ Ⅱ 第4話 「選択」
キングはようやくお目覚め。病院では4人部屋でよく眠れなかったから、夕べは久しぶりにぐっすり。おかげさまで、わたしもこれ以上寝たら溶けちゃいそう。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
と、さっそく新年のごあいさつをしたのに、彼はいつものようにそっけないの。わたしの声は聞こえないだろうから仕方がないけれど、やっぱり反応がないのは寂しいわ。また、いたずらでもしてやろうかしら。
でも、やっぱりやめておこう。だって、それでなくても今はまだ傷が痛くて辛そうなのに、これ以上いじめたら、せっかくがんばっているリハビリもやめてしまうかもしれないもの。
キングは衰えた筋肉を少しでも早く回復させようと、今朝も、起きて早々、マンションの階段を上り下りしている。傷の痛みに耐えながら、よくがんばるなあ。
痛み止めには毎食後のロキソプロフェン錠と、とんぷく薬のカロナール錠が出ている。
夜、横になると、傷口のある左側が痛くて眠れないときもある。それでも、彼はどうしてもがまんできないときにだけ、カロナール錠を飲むようにしている。
じつは、カロナール錠よりも強いトラムセット配合剤という薬ももらっているけれど、薬嫌いの彼はインターネットで検索した情報を見て、飲むのをやめてしまった。
トラムセット配合剤というのは、解熱鎮痛剤の中でも禁断症状が出る危険な薬で、飲む前に医師と十分相談をすべきだと、ある学会の医師が書いていた。
WHO(世界保健機構)は疼痛治療法を3段階に定めていて、ロキソプロフェンとカロナールは安全性が高い第1段階だけれど、トラムセットはそれより危険性の高い第2段階になる。この薬は脳に直接働きかけて、痛みの感覚そのものをなくす。向精神薬と同様に依存性が強く、深刻な禁断症状が出現するという。
もちろん、インターネットの情報だけで判断するのは危険だけれど、これじゃあ、彼が不安に思うのも無理はないわ。
入院中、看護師さんからは、
「痛いときは無理をしないで飲んだほうがいいですよ」
と言われていたけれど、ドクターからはとくに強く勧められなかったので、彼は退院した今でも、トラムセットには手を出そうとしない。
そんなにしょっちゅう飲むわけじゃないんだから、ちょっと心配しすぎじゃない。
今日は1月4日。退院後初めての診察日。
キングは今朝も歩いて、予定どおり9時30分に大学病院に到着した。
まだおとそ気分も抜けない頃だというのに、病院は大勢の患者で大混雑だった。
キングが血液検査とレントゲン撮影を終えてから、2階の待合室で待っていると、10分ほどで呼び出しのベルが鳴った。混んでいる割にはスムーズね。
診察室に入ると、ドクター・ジャックがいつものようにニヒルな表情で聞いた。
「どうですか?」
「はい。痛みはまだありますが、だいぶ治まってきました」
「そうですか。血液検査とレントゲンの結果も問題はありません。今日は抜糸をしますね」
そう言われて、キングが着ていたトレーナーとシャツを脱いで背中を見せると、ドクター・ジャックは手術のときに胸腔鏡を入れた脇腹から、鋏で手早く糸を切り取った。
背中の傷のほうは抜糸をしなくても、自然に糸が溶けてなくなるらしい。
溶けた糸はどこへ行くのかしら。まさか血液に入り込んで、わたしをぐるぐる巻きになんかしないでね。
「じゃあ、痛み止めの薬はもういいですね」
ドクター・ジャックの提案に、キングはちょっと躊躇したけれど、飲まずに越したことはないと、すぐに同意した。
「血圧の薬も飲んでいましたね」
それを聞いて、キングは待ってましたとばかりにタブレットを取り出した。そこに、退院してから今日までの数値を記録していた。
入院中には150を超えていた血圧が、退院後は少しずつ下がってきていた。
「血圧も落ち着いてきましたので、できればその薬もやめたいのですが、……」
と、キングがおずおずと訊ねると、ドクター・ジャックはタブレットの数値を確かめてから、
「そうですね。じゃあ、これも一旦やめて様子を見ますか」
と言った。キングの作戦成功。よかったね。
「次回の診察は病理検査の結果が出てからということになりますが、年末年始がはさまったせいか、時間がかかっているようです」
抗がん剤治療をするかしないかは、その病理検査の結果しだい。それがわたしの運命の分かれ道ね。
「抗がん剤治療には、娘が心配していまして……」
というキングの言葉をよそに、ドクター・ジャックは無表情のまま、
「検査結果にもよりますが、外来で飲み薬だけですむ場合と、入院して点滴を打つ場合があります」
と、説明し始めた。このドクターの頭のなかには、抗がん剤治療をやらないという選択肢はないのかしら。
次回の診察日は1月18日になった。キングは療養休暇を16日まで延長していたが、さらに2日延ばすのはさすがに気が引けた。ここは一度出勤して、きちんと経過報告をしておいたほうがよいだろうと思った。
今日もお嬢さまからは、大量のメールが届いている。インターネットでお医者さんや研究者の論文を拾い集めては、毎日、山のような資料を送ってくる。読むだけでも大変そう。
お嬢さまは従来型の抗がん剤治療には反対している。抗がん剤は副作用が強く、がんと闘うための免疫力や体力を奪ってしまうから、かえって死を早めるだけだと考えているの。
キングの場合、どこにも転移していない段階でがんを完全に摘出しているはずだから、たとえ予防的にでも、抗がん剤は必要ないと主張しているの。
でも、わたしがまだいるじゃないかって?
はい、まだしぶとく生きています。ただ、検査でわかるほど大きくならないと再発とは言わないみたいだから、お嬢さまは今のわたしのような小さながんは相手にしなくてもいいと言っているの。失礼しちゃうわね。
キングはお嬢さまの言うことも理解しているの。彼も、できればやりたくないのよね。
患者によってがんの性質が違うから、抗がん剤が効くかどうかは、実際にやってみないとわからない。仮に効果があったとしても、せいぜい数か月か数年の延命効果しかない場合もある。深刻な副作用に耐えてまで、そんな治療をする必要があるのかどうか、正直、彼も疑問に思っている。
一方で、キングは抗がん剤治療をしない場合の不安も払拭できないでいる。たとえ効果がわずかでも、それに賭けてみたいという気持ちもある。
従来型の抗がん剤には断固反対のお嬢さまも、分子標的薬なら許容できると言うの。その新しい薬は標的となるがん細胞を狙い撃ちするので、正常細胞を傷つける恐れが少ないと言われている。
仮にがん細胞がまだ残っていたとしても、その薬でがんを減らしてから、それ以上増えないように生活習慣を変えれば大丈夫じゃないか、とお嬢さまは言っているの。
幸い、キングには有効な分子標的薬があることは、検査でわかっている。彼もその薬には期待を寄せている。
18日の診察には、お嬢さまも同席することになった。キングは主治医の話をじっくり聞いてから、家族みんなでベストな選択をしようと思っているの。
抗がん剤治療をするのかしないのか。ほんとうに悩ましい問題ね。
抗がん剤に攻撃されているわたしを想像すると、怖くて眠れなくなるけれど、これ以上キングを悩ませるのはもっと耐えられないわ。いっそこのまま消えてしまえたらと思うけれど、アポトーシスができないがん細胞のわたしには、それも叶わない。
はたして、わたしの運命はいかに。これまでどおりキングといっしょに慎ましくも平穏な日々を送ることがきるのか、はたまた、現代医学の粋を集めた分子標的薬とやらに狙い撃ちされて、儚い命と散ってしまうのか。
どちらにしても、わたしにはどうすることもできないわ。それを運命という言葉で片付けてしまうには、キングにとってもわたしにとっても、あまりにも重大な選択よね。
(つづく)
前回はこちら。
第3話「退院」
次回はこちら。
第5話「5年生存率」
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