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#011 今日は誕生日だね

夫よ。今日は誕生日だね。

おめでとうなんて言えない。
あなたが私の隣から居なくなって6回目の誕生日。早かった。もう、一緒に居た期間よりも、隣にいない期間の方が長くなってしまった。

毎年仏花には、向日葵を基調としたアレンジメントを贈る。
仏壇とお骨は彼の実家にあるから、普段私の周りにあるのは、私が撮った写真と少しばかりの遺品、そして、私との想い出のものだけ。ダンボール一箱に納まってしまう。
結婚指輪も婚約指輪も、私の分も含めて義母に返してしまっている。色んな考えがあるけれど、夫が亡くなった時、私には指輪をつける資格などないと強く思った。
どうしても、つけることができないと思ったので、義母に渡したままになっている。

色んな意見があると思う。
正直、指輪をつけたいと思う時もある。もう夫とともに、独りで生涯過ごそうかとも思う時もある。けれど、今のところ大方の私の気持ちは、つけていないことで余計なことを話さなくていいというメリットがある。

当たり前だが、指輪をしていれば、「結婚している人」という見方をするのは一般的だし、まさか亡くなっているなどとは思わないだろう。
想定していない分、気軽に聞いてくる人は多いと思うし、結婚しているのに飲み歩くなんてと勝手にいらぬ想像をする人もいるだろう。

単純につらいのだ。
思い出した時に、一人でいることを再確認させられるこの会話がとてもつらくて、歪な笑顔をして返事を返してしまうことが、楽しい状況から急落する気持ちが、しんどくてしょうがない。
この5年半で、きっとうまく会話を流したり、空気を変えるのが上手くなった。一度たりとも、取り乱したり、怒ったり泣いたりといった感情的になるようなことはなかった。感情をそのまま出すのが今も苦手なままだ。

単純につらいのだ。
あの日から、半身は消滅してしまって、形のないまま。
今、人に恵まれて、幸せだと感じられる日々がある。友人も、家族も、そしていうなれば推しの存在も、今の私を繋ぎ止めてくれる存在だと思う。ただ、失ってしまったものだけを見るわけではないが、どうしても半身は埋まらないのだ。
とてもとても、周りの人たちを大切だと思う。幸せだと思う時間を過ごしているのに、どうしても半身が埋まらない孤独をずっとうっすら感じている。


お互いの誕生日は20日ほどしか変わらなくて、夫の誕生日のすぐ後に私の誕生日。4年前。30歳になることのなかった夫を置いて、自分だけが30歳を超えることが怖かった。悲しいとかではなく、とてつもない恐怖を感じていたし、もちろん体調を著しく壊した。正直、希死念慮がひどくて、乖離状態もひどくて、いつ線路や車道に飛び込んでしまうかとずっと怖かった。大量に服薬して海に入ってしまおうと何度も夜の海まで行っていた。

その時に「記念日反応」という言葉を知った。
大きな出来事・辛い出来事などの出来事から節目の時期に体調を壊すことらしい。
少しだけ、理由がついたことに安堵した。
6年目にもなると、だいぶ不調の原因を理解して、その上で、しょーがないと思うようにして、さらに悪化するのを防ぐように対策をしている。波に攫われないように、じっと耐えるようにしている。いつだって波は起こるけど、時間が経つことで獲得したスキルだと思う。

今、つらくて、苦しくて、同じように行動してしまうかもしれないと恐怖を感じている人もいるかもしれない。
苦しくて、つらくて、原因を探すことなんてできないと感じると思う。
「その気持ちわかります」なんていうつもりはない。
その人のつらさは、その人しかわからないから。「わかるよ」なんて簡単にいうなと怒りを覚えたことがある。ただ、少しだけ想像できるだけ。それだけしかない。
ただ、似たような体験をした人が、今、この散文を書いていて、事件から6年後も生きているということしか伝えられない。図々しいけど、それくらいだけ。

話は変わるが、今日、カフェまで行く道すがら、うっすらとブルーな気分の中で
「ふわふわと飛んでいってしまわないように、掴んでいて。」とふっと思った。
「つらさとか苦しみとか、哀しみたち」が自分の中にいっぱいになると、ふわふわとあちら側に向かっていってしまうから、大切な人たちに私の手を掴んでいて欲しいと思った。
なんかメルヘンな感じだなと思いながらも、すごくしっくりくる風景だから、しょーがないね。


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