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なぜか感動~テレビ編~

もう50年以上も続いている長寿番組、

  ~新婚さんいらっしゃい!~


ゲストの新婚夫婦から「なれ初め」などを司会が聞き出し、“ツッコミ”を入れる。


司会は長い間、桂文枝と山瀬まみのコンビだったが今年で引退。後任は藤井隆と井上咲良のコンビで新スタートを切った。


長年この番組を観てきて、一つだけ印象に残る場面がある。


それは、3年ほど前、なんの変哲もないある田舎の新婚夫婦がゲストの回だった。


夫がとても女性にモテるというか、そうした「誘惑」の多い職場環境にいる、という内容だった。


個人の記憶なので概略になってしまうが、やりとりの記憶をたどってみたい…


桂文枝:『そんなぁ、ご主人、うらやましいよ 
    うな生活ですなぁ~、ハハハ』


ご主人:『いやいや、それが、そうでもねえ
    ですって..大変ですってば…』


桂文枝:『なにが大変やのォ?ええやないで
    すか~、え~?』


ご主人:『いやいや…なんつったって、おら
    には..嫁がいるわけっすから…』


たしか、30代後半くらいの、素朴な感じのご主人であったように記憶している。


桂文枝:『でも、ご主人、そんなんいうても
    時々は、やっぱり男ですから、チ
    ョッピリ遊んじゃおうかな~って
    思うときも、あるんちゃいます
    かぁ?』


純朴なゲストに、ここぞとばかりツッコミを入れる桂文枝…


ご主人:『いや~そらぁ~おらも男なんで..
    ないっつったらウソになります。』


桂文枝:『そうでっしゃろー!そらぁ、あなた
    当たり前ですよ~、人間ですから
    ねえ~。そやから、ご主人、チョ
    ットくらいなら、ええんとちゃい
    ますか~?』


ご主人:『いや~、あの、嫁が…かわいそう
    っす。』


桂文枝:『ハハハ、そんなもん、言うたら、
    嫁にバレなように上手くやれば問
    題ないんとちがう?』


ご主人:『そらぁ……できまっせん!』


桂文枝:『なんでやの~?わからんようにや
    れば、なんにもなかったのと一緒や
    ないかっー!』


ご主人:『いや~あの…ダメっす。』


桂文枝:『そやから、なんでぇぇっ!?』


ご主人:『なんでぇって、そらぁ、やっぱし、
    ちゃ~んと、見てっからっす…』


桂文枝:『あんた、なにを言うてんのっ?誰が
    見てるいうのっ!』

桂文枝がほとんど叫ぶように問いつめた。


ご主人:『誰が見てるって、そらあ、もう、
    おてんとうさんに決まってるでねえ
    っすか!』

サーッと、観客席から笑いがさざめいた--と、突然、場内を揺るがすかのような、割れんばかりの大拍手が会場全体にとどろき渡ったのだ!

そして、それは、しばらく鳴りやまなかった…


なぜだか涙があふれた。


なぜだろう…


『そんなむずかしく考えなくても、バラエティー番組の一場面に過ぎないだろ?』と自分にツッコミを入れる…


人生を歩めば、好きな人の1人くらいはできたりもする。


だが、片思いで終わることがいかに多いか….


~両思いになれた!~としても、価値観の違いやDVや片方が冷めたり、などで別れる事もめずらしくない。


また、二股や浮気の形で裏切られることも数えきれない。


「長続きする愛着関係」の実現は、かくも難しい…


そんな無常の現実のなかで、なんと、奇跡的に、生涯、相思相愛で添い遂げるカップルも存在する!


とはいえ、この《まれに見る奇跡》も、最後は【死】によって別れを余儀なくされる。


誰もがわかっていることとはいえ、あらためて考えると、やはり、残酷な現実である。


一度でも体験した人は、それが、どれほど悲しいことなのか、どれほど苦しいことなのか、を思い知らされる。そして、【人生の深淵】の一端をもかいま見るにちがいない。


男女関係に限らぬ、こうした「愛着関係が終わる」苦しみを、仏教では、

     「愛別離苦」


と呼び、生老病死の四苦とならんで、誰人も避けれられぬ苦しみだと洞察した。


してみれば、愛別離苦の苦しみは誰しも一度は味わっているように思われる。


私の胸には、次の言葉が浮かぶ…

のんきと見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする

「吾が輩は猫である」より


この「愛別離苦」を味わった人々が、『おてんとうさんに決まってるでねえっすか!』との先ほどの言葉を聞いて、どんな思いを抱くだろう…


“でも単なる「遊び」でしょう?”との意見も聞こえてくる。 


 少し想像したい。もし、他人事ではなく、自分が浮気される立場に立ったら「遊びでしょう?」などと言えるだろうか?


他人事ではなく、私が妻の立場なら、たまったものではない!


だが、なかには「遊びだし、男なんだし、しかたないか~」とサバサバ笑って割り切る人もいる。


でも、その笑顔の内側の、心の底の底では、うつむいている“本当の自分”がいるのではないか…


「わからないように遊べば、誰も苦しまないじゃないか!」との声も。


しかし、私が妻の立場なら、妻の親の立場なら、陰で裏切りながら平気で顔を会わせてくる夫の【薄気味悪いほどの不誠実さ】に寒気が止まらない。


はたから見ても、夫を信じている妻が、裏で夫に裏切られているさまは、無残だ。


とどのつまり、男の勝手な都合で【遊び】だの【芸の肥やし】だの【男の甲斐性】だのという《軽妙な言葉》で、いくらオブラートに包もうとも、


本質的にやっていることは「裏切り」なのである。


やられている当事者にとっては地獄だ! 


 誰もが、永遠を、確かさを、求めてもがき、 もだえ、さまよい、傷つき、のたうち、そして、ついに悟る…..それは、はかない夢なのだと。そして、気づく、


誰もが何かを断念した悲哀を背中に背負って暮らしているのだと。


だから、それが、どんなにつらいことかわかるから、


 人の痛みがわかるようになるのだ!


自分が妻だったら隠れて浮気をされたら、どんなに悲しいか….その悲しみが自らの体験に重ね合わせて類推できるから、「ああ、あんな思いはさせられない!」と思うし、裏切ってしまった場合には自分を責めて苦しむ。


この心を《内なる道徳律》と呼びたい!


どんなに人の目をごまかせても、法律の網の目をくぐり抜けようとも、この【自分の内なる道徳律】からは逃げられない。意識としては感じない人も心の底の無意識では働き続けている。

この《内なる道徳律》を古来、人々が自分の外側に象徴化したものこそが


    【おてんとうさん】


であろう。


「おてんとうさんに決まってるでねえっすか!」


この言葉を聞いた「愛別離苦」を経た人々は、【おてんとうさん】に《内なる道徳律》を感じ、そしてその《内なる道徳律》を醸成できるだけの苦しみを経たことをも同時に感得するだろう…それは、おのずと次のような「心の叫び」になるに違いない、


そうなんだ!よくぞ言ってくれた!それこそが本当の人の道なんだ!頑張れー!


私が感動したのは、会場に響き渡った大拍手から、この“心の叫び”を、聴きとった気がしたからに他ならない…


最後にこの言葉を。

何度も繰り返し長い時間をかけて考えれば考えるほど、いつも新たな、いよいよ強い感嘆と畏敬の念で心を満たすものが二つある。
わたしの上なる星空とわたしの内なる道徳律である。
         エマニュエル・カント







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