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逃避行の日々 学校サボり編 休学編前夜 回想



その日から、私の脳は限界を迎えつつあった。


めまいや不快感、学校へ向かっている途中、歩いているのにゆらゆらと漂って浮いている様な感じ。
肌は白く腐っている様に感じ、手首はどんどん細くなっていくのに恐怖だった。


心の中では、友達がいないことに、不安があったのは事実。
いや、友達ではなく、自分が安心したかった。
知らない街で一人で生きるのには辛すぎた。


カリキュラムの中には私が好きな美術の授業もあった。
そのクラスは最初は大勢、生徒がいたが、徐々に欠席が増えて行った。
教授の話がとても長かったからだと思う。

少しづつ、生活を送るたび、皆んなは大学生を生きるコツを覚えたのだ。

それは時間が遅く、9時に終わる様な感じで、生活が乱れていった。
自分は何をやっているんだろう。
そう、深夜ちかくの帰り道で問答する日々だった。
その日の次にはまた、授業がある。その繰り返し。

そこで、気のあいそうな青年がいた。
でも、話しかけられず、結局彼もクラスに来なくなった。

でも、そこで得たものもあった。
それは一人で歩く夜景の街だった。
これまで自分で作った門限から解放され、
(親はあまり門限は厳しくなかったが、私自身がマナーやルールについて厳しかった。)
私は夜景が好きなので、
恍惚とした。

このまま、恍惚として、風景に吸い込まれたかった。

このまま、疲れて生きるのか。
それでも授業は真面目に受けていた。
みんな寝ているのに悪いと思い、最前で授業を受けたり、教授に質問したり、。
ここでも、私はミスをした。

やりたくない授業、やりたい授業ではなく、
単位を取ることこそ、大事なのだ。
単位を取れれば良いのだ。
簡単な単位を取れば。
やりたいことや、
そのためなら、美術の授業のために夜遅く学校へ行ったり、朝早く行く必要もない。

そういう、合理的な判断、学生の処世術を私は知ったのだ。
皆んな、そうやって生きている。
そう、気づいた。


いつ頃だったか、私は美術のクラスに行こうとした時、大学と反対方向に歩いていた。
なぜか、その日から、授業を抜け出したくなったのだ。
それは私の中で、あってはいけない事だった。
しかし、それがないと生きていけないと思った。

今思うと、大学をサボるなんて普通だが、
常識も何もわからず、サボる仲間もいないので、大学をサボる自分がとても嫌だった。

そこで私は初めて自分の肉体性に気づいた。

フラフラ、電車へ乗って後ろめたさがありながら、ついたのは日比谷。

霧が降っていた。


私は初めて来た日比谷の公園のベンチに座った。7時くらいだったろうか。
ただ、噴水を見て何も考えずぼーっとしていた。

ここの噴水は凄いよね。

その頃、TOEICの試験もあったため、塾にも通っていた。
ボランティアもしていた。
その頃は、まだ、前向きだったから。
社会人という気持ちがあった。
人を助けたいと思い、同じ不登校の子どものフリースクールの手伝いのボランティアをしていた。


ただ、そこでも、やっぱり、うまく行かなかった。人を助けたいと思うだけでは駄目だったのだ。
そこに居づらくなった。自分から話しかけられない、大勢の子どもたちがいるとどうすれば良いか分からない。
そこも2回で辞めてしまった。

皆んなには元気で居てほしいと願う。

人を助けるためには、自分がきちんとしていないと、というのを仏陀の本で読んだ。
今は、その通りだと思う。
厳しさではないのだ。
優しいだけでも駄目だということを知った。


逃避行

そこから、バカになったみたいに様々な場所へ行った。
サボりの常習犯になった。

東京




金もないので、殆ど徒歩。
足は痛いが歩いていないと死にそうだった。
鎌倉、金沢区、横浜、茅ヶ崎、浦賀、などぬ

知らない場所へ行くと、空気も違い、とてものんびりしたが、
その反面、本職から目を背けているという罪悪感もあった。

その頃はとにかく逃げたかった。
どこかへ行くための手段としての旅行でなく、逃げるための手段としての旅行だった。


そこから、他大学のモグリにもいった。
自分がやっていることは人と違うんだ!
という個性的な自分でい続けたかった。

その中には、大学で自分よりできる人、知識のある人、発想豊かな人、面白い人に対する劣等感があった。
またその頃、学生新聞をかいたり、学生起業、副業が流行っていて、いつも自分は他人と比較してキリキリしていたと思う。


浦賀で、母親にビデオ電話をした。
美しい自然🪿を母に見てもらいたかった!
今まで、引きこもりがちだった私、
今は色んなところへ行っている!
楽しいランデブーだ!



それを伝えた。
「もしもし、ここ、どこかわかる?」
「今、何やってんの?」
「そうやって現実から逃げるのはやめなさいよ」

そこから、公園のど真ん中だというのに、怒涛の喧嘩をした。
頭がヒートショック寸前、涙を堪えて怒鳴った。
多分、母と口喧嘩したのはこの日が初めてじゃなかったか。 

小学時代を思い出す





それまで、私が無口なのが、無視されたとクラスメートに誤解されてその子のママ友が仲良しだったので、私を叱り、
一方的に母から無視された時もあった。
「無視ってこんなに辛いんだよ!」
と言われた。

そんな時も私はどこか自分でないような気持ちがあった。
なぜだかそういう時ほど、冷静になったり、、


それどころか先のことまで考えて、ここで黙っておけば親戚にいい子として見られない事の方が怖かった。
自分が迷惑を起して、みんなを不幸にさせるまでの存在価値がないと思っていた。

それに、クラスメートにこのことを話していじめ返されるのが怖かった。
なので、何も言わず黙っていた。

本当は、その子達に鉛筆を取り上げられたり、通りすがりにバカと囁かれたり、
男子生徒からは給食の時間、わざとスプーンを床に落として、喋らせようとしたり、
そういうことを親に言えればなぁ。

年上のいとこに柔道の技かけられたり、
自分の身は自分で守るか我慢するしかなかった。

自分は、昔から本当はこうじゃないのに、伝えたい事があるのに、という気持ちがあった。
なのに、勝手に友人を決められたり、
対して仲良くない、知らない支援級の子と遊ばせられたりするのが嫌だった。

なのに、男性の先生や生徒たちは裏でこそこそ悪口を言っていた。
その支援級には、トランポリンがあったが、トランポリンがあるのは、ずるいとか、タブレットが支援級にだけあるのはずるいとか、
支援級のせんせいの話は聞くなとか。
洗脳だった。

私は、それはおかしいと思った。
ズルいとかは、誰が決めるんだ?と思った。
別に楽しく勉強できるならいいじゃないかと。

その子は、いい子だった。
その子は悪い子じゃない。
ただ、友達くらい自分で選びたかった。
支援級の子でも、通常級の子でも。

それが合わないなら、一人でいた方がマシで、ずっといたのに、
かわいそうと思われ、友達を無理やりつくられ、
よく分からない情緒不安定な女の子と友達にさせられたりしていた。

その子は、私が少し目を離すと、ハブられたと言って執着してきたり、
嫌がらせをする子だった。

今だったら、私も人間なのでうまく交わしたり、その子から逃げられるが、
みんな仲良し、こよし、友達大事の精神があって、クラスメートということもあって、なかなか逃げられなかった。

でも、その子が挨拶してきた時に、その子は悪くないのに、私はクラスや先生がはる冷やかしの目、女子のバカにした目、激しく怒鳴りつける男子クラスメート

そういう、悪いレッテルに流されてしまって1回冷たく無視して、返してしまった事があった。
そのことについては今、思い返すと、その子は悪くないのに、と反省している。

自分はその子達を属性でみていた。

その子達も私のことをどう思っていたのかは分かるまい。

本音を言うと、気の合わない奴らと話すことが、そして無理矢理友達にさせられて、逃げれなかったのが苦しかった。

友達大事

この言葉にビクビクした人はいないだろうか。
友達がいない私にとって、
友達という言葉は私の中で胸が苦しくて、言えなかった。

3DSポケモンをやってた時、
友達いないの?と母の繋がりで出会った幼馴染の女の子に言われた。

いとこに、なんで学校で喋れないの?と言われた。

男子生徒の子で、喋れないといじめられるよ?
と助言してくれたこ。

みんな何も悪くない、ただ、それができないのと、それさえできないのが、自分の中で猛烈におかしい人だと思った。


友達がいない自分は人間失格だった。
そこまで思っていないが、人と同じ様にできない自分はクズだと思った。






そして、今回も、誤解で、私が学校をサボっているとしか受け取られていなかった。
母には以前愚痴を言っていた。
行きたい学校じゃないし、
私、編入して、行きたい学科にいく!


行きたい学科というのも、心理学部だった。
その時、なぜ心理学を学びたいと思ったのかというと、親の役に立つからというものだった。
なので、勉強も進まなかったんだと思う。
本心は、心理学は好きだが、それ以上に

ちゃんとした学部にしないと、自分は存在価値がないと思っていた。


その頃は学歴が高い方が優れているとか、ネットで得た変なレッテル。
そういう、下らない見栄もあった。

自分はその頃、今も、体力もなかったし、饒舌さもなかった。目立つところも悪目立ちするというので、転んだり、情熱が入りすぎて映画のセリフの言い回しになったり、
社会で生きていく武器、装備が整ってなかった。



自分はこんなんじゃない、自分はもっとできる、

そして、付け焼き刃的に決めてしまった大学進学という選択肢にも疑問を持っていた。


小学数学さえ、
中学数学はできない、それによって、教養数学はわからない、
統計学の授業もやっと一週間かかってレポートを終わらせる。終わらせられない時もある、
それに経済学もある。何も分からない!!!


それに加えて、学校の人たちがひどく醜く思えた。
自分はこんなんじゃない、自分はこいつらより優れている!
グループワークで白い目みている奴ら、自分のことを空気読めないと言った奴ら、から自分を守るために。


そこから、学校に行くだけで苛立つ様になった。

電車では、最前列に立っていた。
無性になぜか?涙が出てくる。 
それを偶然持っていた黒縁メガネで隠す。
電車の窓から反射した自分と目が合った。
その顔は高校の時の大嫌いな先生みたいだった。

大学に行く時もあったが、
回数は明らかに減っていたと思う。
手首がすごい小さく見える。
白い。
自分が別人の様に見える。

この世界がなんだか、プランターの中の小細工の様に見えた。大学に通う人々、警備員、
手を引いて歩く親子、大学の建物。
そして頑固な堅物の自分。


そんなときハマったのが、連続殺人犯などの本だった。
なぜか、手元にあると、心地が良くて、よく大学に持っていく様になった。
勝手に投影していた。 かれ、彼女らと。




脱線したが、気持ちが渦巻いて、とにかく逃げたいと思っていた。
自分にとってはご褒美だった日帰り旅行が、(自費)
親にとって受け入れられないのがとても悲しく悔しかった。

私の弟は、ちょうど中1だった。
あれに荒れて、毎日怒号や壁ドンの日々。
しかし父が帰ると、スーと力がなくなる。
そして静かになる。

父も、弟は小学生の頃、発達障害グレーゾーンで、支援級だったので、何かにつけて、
私に弟の世話をしてほしいといわれ、
私は父から褒められたい気持ちもあったが、

世話をするんじゃなくて、友達でいたかった。
だから正面衝突で毎日喧嘩したり仲直りしたり、していた。

でも一方で、
自分だって、
生きづらくて、蝶々結びさえできなかったし、発達障害と思っていたが、
症状がわかりづらかったので、自分の中で耐えることしかできず、
あいつは、弟はずるいと、あの時の男の、小学生の先生のように思っていた。


父も精神科に通っていて、精神的な部分はあったんだと思うが、弟にとても甘かった。末っ子の父は姉兄にいじめられていたらしく、何かにつけて、
私が弟をいじめているといって、無意識に部外者にしようとする節があった。
弟は贔屓されている、と思い始めた。

父も、発達障害の弟とどう接して良いか分からず傷物に触るように接していたが、
それがみているととても羨ましかった。

男同士という都合の良い言葉を使い、
いつも2人で何処かへ行ってしまうのが切なくて、寂しかった。

当時は、自分の居場所がとにかく欲しかったから、2人について行っては、
写真撮影の係りをしたり、もりあげやくをしたり、
それは自分自身が率先してやっていたことだが、
辛かった。


小学生の頃、
父に生理のことをひやかされたり、(異性に対して踏み切ったことをいう勇気試しのためにいった)
男性器がないから、会話に入れないよと言われたり、

じゃああなた達は女性器がないから女性と喋らないでね!
と、最初は言っていたが、
あまりにもくだらなさすぎて、
男性女性がかわいそうすぎて、いうのをやめた。

女子高校生は男性に嫉妬してるから、父親に反抗するんだよ
と言っていたり、

時代錯誤のことを言われても、笑うしかなかったのが、辛かった。
今思えば、くだらないジジイだが、
あの頃は父が人間の全てだと思って、自分が悪いんだと思っていた。

時はたち、父は、私が大学1回生の時、女性社員に
パワハラで訴えられて降格させられた。

内心、ザマアミロだったね。
今はもう何年も口をきいていない。


父は本当に無意識で、弟と自分を投影していたらしい。

父方の祖母と祖父にも、今のところ、会おうと言う気にはなれない。
特に祖母は父のことばかり話し、礼賛するからだ。それを3時間くらい続ける。
少しでも家庭の近況を離すと

祖父は蓋をしたい様に黙らせる。
でも、祖母は近況を聞いてくる。
どっちやねんw
元々父の家庭も、本音を言えなかったと思う。
父はパワハラのことを話せない。


その時から、家は殺伐とした。
父はずっと食欲不全で裁判、裁判、
弟は壁を殴り放題、

中学校に弟は行けない日々が続き、
母父は、私が引きこもりから大学進学できたことにすっかり安心していたらしく、
私に弟の目覚まし係になってほしいと言われた。

私は拒否権があった。
しかし、それを断ってしまえば、自分の生きる存在価値がないようになってしまったので、引き受けた。
それが普段だったが、ありがとうと言ってほしいだけだった。

それが私が休学してからも続いた。

母はパート勤めである。
社会に出るのが好きで、働くのが大好きだといっていた。

元々、専門職に就きたかったが、子どもたちの面倒を見きれず、パート勤めをしている。
私は母が新しい友達とかができることで、
母が離れていくことに強い恐怖がある。


母のためになることは愚痴ききで、
もう高校生の頃からずっと愚痴をいきては、カウンセラーの様になっていた。
母に必要とされたかった。
それだけだった。
父に愚痴を言うことはあったが、父はどこから持ってきた心理学が知らないが、
全て問題は自分が原因だといって母を責めるばかりだった。
それに対して母は涙目になっていた。

それを私が慰めるというくだらない毎日を過ごしていた。

せっかく休学したんだから、もっと休みたかった。


母の愚痴を聞いていると、愚痴聞きが当たり前の様になる。
そして愚痴を聞いた後の母の顔は気持ち悪かった。
目が充血していて、ぐちゃぐちゃ。醜かった。

私が愚痴をいくら聞いたからといって、人生を迷っている私について何か話を聞いてくれたこともなかったし、

ただ、大口開けてシュークリームを頬張って

一人寝てしまう。
まるで私の問題に蓋する様に。

そして、あなたが聞いてくれると、すごい心の支えになる。
と言った母の言葉に吸収され、
私は依存した。



ただ、自分もギリギリで、他人のことまで助けられることもなく、
私は限界を迎えた。

ある日の夜。
また、旅行していたのか分からないが、
9時くらいに帰ってきた。
そこには、スーパーで買った寿司があった。


母も父も弟もドア、襖を閉めて寝ている。
私は、はちぎれそうな気持ちの胸を我慢して、
冷静に、起こさない様に、ご飯を食べようとした。
リビングで、消灯している。
風は生温かかった、9月のこと。

母に聞いた。なんといったかは忘れた。
でも、母は返事が返ってこなかった。

寿司は硬かった。
それから、私は寿司を思いっきり投げつけた。そして、弟の持っていたパソコンをぶん投げたり、暴れた。
自分を全身殴って大号泣した。

これまで貯めてしまった負の貯金を精算したかった。
父の壁を叩き、弟の様に殴り、
父を怖がらせた。 

父を怖がらせたかった。
興味を持ってもらいたかった。
メンヘラだ。子供だ。
なんとでもいえ。バカにしろ。私をバカにしろ。

それから、父は壁をどんどん叩いて奇声を上げるのが怖いと言い始めた、
父と言い合いをしたり、する日もあった。
父にお前は子供だと3連発いった。
初めて父に怒鳴った。

でも、一方で、父に大変だったねと言われると、これまでの怒りがスーと消えてしまう。
母もそう。
やっぱりみとめてほしい。

しかし、あのころの笑ってるあなたにもどってよ。
と言われた時、冷めてしまった。
笑う私が好きだったんだな。
おべっかしてた時が。
無理して笑ってた時が。



でも、もう親の愛情は受けなくとも、
自分で自分を癒していきたい。


語ったことは、
全部自分の主観なのでこれが自分のエゴイズムにやって都合よく解釈された事もあるだろう。


ただ、18歳の私はそう、全てが敵に見えた。



それから正式に学校の休学制度を取った。




今はもう、愚痴聞きも、弟を起こすのもやめた。父の前で愛想笑うこともやめた。

父がイライラしてるからと言ってご機嫌を取って穏便に済まそうとあたふたするのはやめた。
断捨離した。
今はそのリハビリ中。

自分が仲介できることなんてたかが知れてるし、その人の感情はその人が責任を持つべきだ。

私にできることは本当は少なくて、自分さへ変わるのがむずかしい。

自分から断れることは全て断った。

父に外に出ろと言われたら、出ないと、という気持ちと、でたくないという気持ちが混乱しているが、
結局出なかった。

父に朝5時に起きて、気分を調えろと言われても、父が合っているとしても起きなかった。

それでもし父が殴ってきたらこっちも応戦する道具は揃えようと思う。



親でも一人の人間として、間違ってることだらけなんだなと思う。
親は全能じゃない。
だから、親のために頭空っぽで動いても、仕方ないということがよぉく分かった。

親が全能じゃないということは一見、悲劇の様に見えて、
自分で自分の人生を変えられるというチャンスでもあるのかもしれない。


でも、今は1,2年の戦いのおかげで
100%ではないが、休む意思を親は認めている。
弟もイライラする日はまだあるが、
話ができる日もある。

それでもイライラするので、なるべく人が来たら自室に行く。

今、自分ができることをする。
食事は取って、生きる。
寝る。
薬を飲む。
病院に行く。

そしていつかは、幼馴染がしている様に一人旅行にいきたい。
九州や、北海道、日本中何歳でもいいから、
行ってみたい。
働くか、なんでもいいが、自分の欲しいものを買いたい。
人が怖くなくなったら、一人で焼肉に行ったり、美味しいものを食べたい。
演劇や、ライブにいきたい。
美術館にもいきたい。
電車に乗ると死にたくなってしまうのだ。
人と愛されたいの主従関係じゃなくて、
対等な関係が持てる様な、精神の自立ができたら、友達や恋人が欲しい。
文学の座談会に行ってみたい。
人が怖くて中々活動できなかった音楽バンドを組み直したい。
今は頭が痛くてできないが、もっと音楽を追求したい!
演劇をやってみたい。
今はいけないが、カラオケにもいきたい。



自分の未来を想像することが、今の生きる原動力なのだ。

その為にも、どうか、変な気は起こして、
人を傷つけたくない、
自分も。

時間を止めたくない、
いや止まったっていいか。

ドラマスペックの能力。これ昔から欲しかった



自分はつくづくエゴの多いエゴ魔だと思う。
人には完璧を求めて、自分にも完璧を求めるけれど、
欲望や人間性はそこからズルズルとはみ出る。


今まで、未来のことを不安に思っていた。
今は、今を思って未来の不安から現実逃避している。
どっちにしろ現実逃避なら、今を生きるしかない。

ただ、現実逃避も立派なやり方だ。
本当に現実逃避が悪だったら、人間の能力として抹消されているはずだ。
大事な機能なのだと、思う。







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