何かを暴き出そうとすることが必ずしも正解ではないと思った。
これまで、大学からの自分の思ったことを書いてきたが、
これが、自分のメンタルにとって大変なことであることに気づいた。
昨日、発狂してしまった。
自分の内面をほじくることでスッキリしようとしていた。
それが正解だという義務感があって、
辛さを出すことが、良いことだと思っていたが、
これはもしかしたら、辛いことをすれば(頑張れば)自分の価値が生まれ、
安心するという
幻想があったのではないか?
と感じた。
つまり、根本解決したいとかそういうんじゃないのではないか?
今、私の中には強い焦りがある。生きづらさがある。
自分が、早く幸せになる為に
自分の中にある嫌なものは全て吐き出すこと、
それが良い事だとばかり、思っていたが、
反面、それが返って
自分や家族や周りの人を犯人にし、過剰敵視してしまう、
という側面にも気づいた。
それによって、犯人探しをし、自分が全てにおいて、被害者であるという感覚を持ってしまう事にも気づいた。
そのことで、過剰に人に逆恨みを持つ危険性もある。
そして、その感情から、自分が人を属性でみて、判断して、
人と人との境界線が弱くなり、
例えば悪いニュースなどに過剰に反応して、その人と同じくらいの人に断罪を求める厄介な人間になり、
自分の望まない不幸せを生む可能性がある。
人をキャラクターで見て、
人格否定してしまう。
そうすることの何が怖いか?!
ひぐらしの最終回のレナみたいになってしまう!
また、今の状態で自己分析することは、かなり危険であるとおもった。
誤った価値観や、
人間の深淵な記憶や感覚の部分を痛く抉り出してしまう可能性がある。
それを自分自身だけで、するのは、大変危険で、いわば、医療メスで手術する事の様な責任感がある。
それを一患者がすることは、とても、難しいと思う。
過度な自己解釈は、自分の中に混乱を招く。
ただでさえ、主観が人間不信になっている私が人や記憶と決別できるはずがなかったのだ。
どこかで、私は、この記憶を忘れたいとか、この記憶や経験を昇華させることで、
全てを真っさらにしたいという気持ちがあったのかもしれない。
しかし、そんな簡単に記憶を変えたりはできない。
ましてや、記憶を変えても、認識が変わらなければ、仕方ないだろう。
無意識にまた、自分を追い込んでいるきらいがあった。
自分でなんでも解決できるという、慢心を感じた。
それは根本的な解決に繋がらず、過去と向き合っているつもりで現実逃避しているという私のナルシシズムを感じた。
それにそっちの方が自分が可哀想だと思った。
これからはカウンセリングを受けていこうと思う。
自分だけで抱え込むのは、大変だ。
心理学を学んだとか、そういう事は確かに大事だが、知識は人の心の本質ではないと思った。
起こった事は、ただの事実であり、
それに自分で色付けして、物を認識するとよく聴く。
自分で単色に全ての事柄を色付けすることより、
客観的な見方が必要だと思った。
焦らずゆっくり、という大事なことを忘れていた。
でも、辛いから、早く自分を変えて楽になりたいとか思ってるから、焦るんだよね。
だから、これまで書いたことも、否定をしない、こうていもしない、
やっぱりナシという事にしたら、また、原点に戻ってしまうところがある。
ループって怖いからね。
なんだかんだで、今日も生きれた事にホッとしている。
今の生活を過去の辛み恨みによって、不幸に歪めてみてしまうことが一番自分のためにならないと思ったし、
不幸なことだと思った。
今は今を生き延びよう。
そう思った。
でも、強迫的に手洗いしてしまったり、
義務をすることで、自分の安心感を埋めようとしたり、
すぐに、楽に生きたいという理想に辿り着けない、そういう自分もいる。
そいつも受け入れようと思った。
人と分かりあう事は難しい。
他人が私を助けられることも難しい。
もう、親に精神的にいくら優しくされても、虚しくなるだけだろう。
他人にそれを求めても、依存的な主従関係に悩まされるだろう。
やはり、それよりも、自分を自分で向かいに行くしかないのかもしれない。
いつか、今よりも楽になって少しでも幸せに生きれるために。
今を生き延びる。
そんな時代もあったねと、きっと笑って話せるる日が来るように
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