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情報リテラシー~仕訳と活用~

「嘘は嘘であると見抜ける人でないと、(掲示板を使うのは)難しい」・・・ひろゆき

「情報リテラシーが低いのは勝手だけど、低いやつに限って押し付けるよね善意で押し付けてくるから余計めんどくさいし嫌になっちゃう」・・・ホリエモン


 最近では「リテラシー(literacy)」という言葉をよく聞く。「リテラシー」とは「識字」と日本語では訳される。「識字」とは、「文字を読み書きし、理解したり活用できる能力」のような事である。そこから「マネーリテラシー」や「ITリテラシー」、「情報リテラシー」という言葉がよく使われている気がする。

 要するに、「使えるものを理解し、活用する能力」が、文字だけにとどまらず必要になっているということである。もちろん、それは昔から必要とされている能力ではある。しかし、昔に必要であった「宗教リテラシー」や「儒教リテラシー」等はあまり聞かれない気がする。という事は、この「リテラシー」という事は、人間的な分野というより人工的な分野に近い思想である。

 人間の本能である「虚構の共有」の中に、宗教観や倫理観、哲学等がある。その活用には複雑性があまりないから、リテラシーという言葉は使われないのかもしれない。もちろん、宗教や倫理観、哲学等を学ぶとなると、非常に複雑性はあるが、活用となるとそこまで複雑性を要しない。

 宗教は「神の教え」、倫理観は「人間の誠実なあるべき姿」、哲学は「真理の追究」という、目的があるからであり、目的を達成するために活用するので、活用自体はそこまで複雑ではない。しかし、その目的の活用は複雑ではないが、その目的をなすために「どの情報を活用するか?」となると、非常に複雑になる。

 言わずもがなだが、それは「ネット社会における情報過多時代」であるからだ。スマホやPCで検索すればGoogle先生等が、色々と教えてくれる。しかし、Google先生の教える様々な教科書は、人間が作った説明文であり、検索したいことをGoogle先生に問い合わせても、同じことについての情報に対して違う意見や説明がたくさんあることはざらである。ネットに限らず、本等でもそうである。

 例えば健康的な食事に関して、「1日3食バランスよく」という意見もあれば、「1日1食の方がいい」という意見もあったり、「糖質は大事」という意見もあれば、「あまり糖質は取らない方がいい」という意見があったり、「人工甘味料は糖吸収されないから良い」という意見もあれば、「吸収されない分体に蓄積されるから悪い」という意見もある。

 他にも、ネットビジネスの稼ぎ方では「アフリエイトで稼げます」という意見もあれば「アフリエイトよりはライティング等が稼げます」等の意見もあれる。投資に関しても、「株が儲けろ」という意見もあれば、「FXが儲かる」という意見もある。 

 これらのことは、情報の信憑性にに左右される。言い換えれば、その情報を「自分の培ってきた人生の中で解釈をきちんとできるか?」という事の理解が必要である。

 上記の栄養やネットビジネス、投資に関しての成功体験談は、全部とは言えないが、殆どが成功体験談をセットである。要するに、そのやり方で成功したから、そのやり方が成功方法であると説明するのがほとんどである。それはそれで間違いないとも思うが、本当でもないのも事実である。

 人間十人十色というのは、何も性格に限ったことではなく能力も同じである。同じやり方をしたとしても同じようにいかない能力差というのは必然的に誰しもある。しかし、世の中はマニュアル化が進み、マニュアル通りにすればマニュアル通りの結果になるという、「ああすればこうなる」という人工意識を信じるからこそ、情報リテラシーの問題がでてくる側面があると私は考えている。

 情報を得て「情報通りにしたが、そうならなかった・・・」という問題が、情報量が多くなるにつれて、出てきたという事である。

 情報を「理解し活用する」というのは、実は簡単なことではない。そして、私個人の考えでは情報の活用が難しいのが「情報量が多いからではない」とも思う。「ネットの情報は危ない」という話を、私の周りの人は良く言う。しかし、「テレビが言っていた」というテレビの情報は何故か信じる。ネットの情報とテレビの情報の違いは、情報量の差である。

 テレビでは1つの番組の意見が流れるのが多いが、ネットでは多数の情報量の中から自分で信じるものを選ばないといけない。情報の量が多ければ間違っている情報や、自分に合わない情報もその分多くなる。そして、詐欺サイトもあるため、ネットの情報は信憑性がないという解釈をする人が多い気がする。ネット情報は、私の意見では「玉石混合」であり、多くの情報があるからこそ、正しい情報も混じっており、その正しい情報を入手しやすいのはネット情報だと考えている。

 テレビから流れる情報が常に正しいとは限らないという事の認識をしている人は、まだ少ないようにも思う。ネットがない時代はテレビ情報が主流であったが、間違った情報が流れてもそれしか信じる材料がなかったため、その情報を信じる人が多かった。その時代に情報の混乱は起きなかったかもしれないが、情報リテラシーに関しては低かったと思う。何故なら、使える情報量が少なく、限定的な情報の活用しかできなかったからだ。しかも、その情報が正しいのかどうか吟味することも出来ずに活用するしかなかったという事もある。

 情報を得る重要性は、殆どの人が「大事なこと」と思うものである。しかし、その活用に関しては、あまり気にしない人も多い気がする。そして、情報量が多いネット社会に関して、「情報過多」が悪いと思い、「ネット情報は信憑性が薄い」「ネットからの情報収集は活用できでない」という人がまだ多い。

 しかし、「情報過少」の昔の時代みたいに、情報量が少ない方がいいのか?というと、またそれはそれで不具合があるわけである。

 すべての情報が真実ではない事は解っているが、生きていく上で必要以上に情報を欲しがるのが人間である。うわさ話等のどうでもいい情報が好きな人が多いのがその証拠でもある。

 情報量が大いに越したことはないが、その情報が「自分にとっての真実かどうか?」・「自分の能力で複写できる情報なのか?」・「自分にとって、実はどうでもいい情報なのか?」等のような、情報の仕分け能力が、人工意識が濃い時代である現在では必要な能力の1つである。

 

  人生は、人工的な満足がないと面白くないのも事実である。その中で、情報リテラシーという物は、ますます人工的な世の中になる中で、培っていかないと面白く生きれない可能性高くなると思う・・・


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