整体での話

整体に行った。
で、整体の先生の自分自身の身体のメンテナンスをどうしているのかということを聞いてみた。
これは前からどうしているのかと思っていた。
その回答は「私には整体が必要ない」というものだった。

これまでに整体で施術してもらっているなかで、身体が弛んだという表現を整体の先生はしていた。
それは私にも実感できていた。
それで、毎回背術してもらう度にどこかが緊張していてそれを弛めてもらっている。
だが、先の「私には整体が必要ない」というのは、整体の先生は弛めてもらう必要がないということなのだ。
これは、整体の先生の体は、緊張しているところがないということになる。
すなわち、全身がリラックスできているといことなのだ。
ということは、目指しているところは合氣道と同じ。
そこで、私がなぜ整体に通い続けることになっているのかという話になる。
リラックスすることを学んでいるのにリラックスでいていないのが原因。
つまり、緊張するから身体のどこかに力が入ってしまい、そこが固まってしまう。
合氣道で言うと、氣が滞るところができてしまう。
では、なぜ力が入ってしまうのか。
それは、起こった事象に対して反論しようとするからだという指摘を受けた。
「でも」、「だって」、「だけど」などなど、私の言葉の端々にそのような接続詞が出ているとのことだ。
そのような言葉は、ある意見に対して対立を生む言葉なのだそうだ。
確かにそうだ。
対立が生まれるということはそこに「ぶつかり」が生じる。
「ぶつかり」が生じるというこは、合氣道的には力みがあるからということになる。

目の前に起こった事象は、単なる事象で、そこに意味づけをするのは自分なのだ。
「でも」「だって」「だけど」などなどは、その事象を受け入れられないという私の考えの現れだと指摘された。
結果、精神的にぶつかりが生まれる。
精神的ということは、心の話。
心身は一如だから、心の問題は身体に現れる。
精神的なぶつかりは、身体のどこかに力みとなって現れ、それが解消されず継続されれば、その身体の部分は凝り固まっていく。
身体が凝り固まると、凝り固まった部分で物理的な重さを受けてしまう。
部分で力を受けてしまうと、大きな力や小さくても繰り返しの力が加わると壊れてしまう。
すなわち怪我となる。
ここで言う物理的な重さとは、自身の体重のみの場合もあり、それだけでも故障につながるくらい大きな問題なのである。
ちなみに、凝り固まった部分がなければ、物理的な重さはどこにもぶつからず、自身の身体を通して地面に流れていく。

となると、合氣道も整体も共通している部分がある。
力みを取り除き、ぶつかりを無くしていく。
力みは否定的思考から発生する。
ある事象に対して否定的な視点を持つか、肯定的な視点を持つかで身体に現れる結果は大きく変わる。
まずは、自身に起きた事象に対して良い部分を見つける。
そこから始める。
怒りが発生しても良い。
最終的に良い部分にフォーカスする。
そすうることで、精神的なぶつかりがなくなり、その結果、身体的な滞りがなくなると言う
整体の先生は、これはやり続ければ誰にでも到達できることだと言っている。
ただ、大体の人は頭ではわかっていても辞めてしまうそうだ。
辞めなけれが、確実にリラックスした状態に到達できる。
上手くできなくても良い。
上手くできなかったところからまた始めればいいのだ。
それを何度も繰り返して行けば必ず行ける。
元に戻ることを忘れなければ大丈夫。
整体の先生はそう言った。

私もそう思う。
力を抜き続けるということを瞬間瞬間でやっていった先にある未来を見に行こうと決めたのであった。

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